第24話 黒い昼から逃げてきた人々
遠く王都の方角から、黒い鐘の音が響いた。
ごおん。
重く、鈍く、胸の奥を直接叩くような音。
昼でも夜でもない。
祈りの鐘でも、時を知らせる鐘でもない。
聞いているだけで、灯りを見失いそうになる音だった。
ポルカが俺の肩の上で毛を逆立てる。
「ぽう……!」
祠の石灯籠も、かすかに揺れた。
今しがた灯したばかりの小さな巡灯路の灯り。
その光が黒い鐘の音に押され、細く震えている。
王都から逃げてきた三人の旅人は、その音を聞いた瞬間、顔色を失った。
先頭にいた女が、両手で耳を塞ぐ。
「また……」
膝から崩れ落ちそうになった彼女を、セラが支えた。
「大丈夫。ここに座って」
「だめ、鳴ると……鳴ると、みんな黒聖灯の方を見るの。見ていると、だんだん怖くなくなる。でも、それが一番怖いの」
「怖くなくなるのが怖い?」
ミリアが眉をひそめる。
女は震えながら頷いた。
「だって、家の灯りが消えても気にならなくなるの。子どもが泣いても、黒聖灯があるから大丈夫だって思ってしまう。あんなに冷たいのに。あんなに暗いのに」
俺は胸の奥が冷えるのを感じた。
月守狐が言っていた。
黒燭は、光を食うのではない。
人が灯りを信じる心を食う。
この女は、それを王都で見てきたのだ。
俺は祠の石灯籠に手をかざし、灯りを少しだけ強めた。
金色の光が、祠の床をやわらかく照らす。
黒い鐘の音に揺れていた石灯籠が、少しずつ落ち着いた。
「ここでは、黒聖灯の音を見ないでください」
俺は言った。
「この祠の灯りを見て。足元と、手元だけでいい」
女は恐る恐る顔を上げた。
石灯籠の灯りが、彼女の頬を照らす。
灰色にくすんでいた顔に、ほんの少しだけ血色が戻った。
「……あったかい」
「黒燭とは違う灯りです」
「本当の灯り……」
女の後ろにいた老人も、深く息を吐いた。
もう一人、まだ若い少女は、黒燭商会の黒い蝋燭を両手で抱えていた。
火はついていない。
それでも、彼女はそれを手放すことを怖がっているようだった。
「これ、持っていないと門で止められるんです」
少女がかすれた声で言った。
「黒燭を受け取っていない家は、聖灯局に逆らう家だって。黒聖灯の祝福を拒む者だって」
セラの表情が険しくなる。
「王都では、黒燭が配られているの?」
女が頷いた。
「はい。最初は貴族街だけでした。でも黒聖灯がともってから、南通りにも、職人区にも、下層街にも配られ始めて……」
「無料で?」
ドルトンさんが商人の顔で尋ねた。
「最初の一本は無料です。二本目からは登録制で、使い続けるなら黒燭商会と契約しろと」
ドルトンさんは唇を噛んだ。
「典型的です。最初に不安を煽り、無料品を配り、既存の灯りを弱らせて依存させる」
「既存の灯りは?」
俺が聞くと、老人が口を開いた。
「消え始めている。わしは南通りで靴直しをしていた。店の古い吊り灯が、三十年も店先を照らしてくれたんだ。だが黒聖灯がともった日から、光が細くなった」
「黒燭を置きましたか」
「隣の店が置いた。うちは嫌で置かなかった。だが、隣から黒い糸みたいなものが伸びてきてな……わしの店の灯りに絡んだ」
老人は拳を震わせた。
「朝になったら、吊り灯の芯が真っ黒になっていた。まるで、店の記憶ごと煤にされたみたいに」
ミリアが低く呟く。
「黒燭が隣の灯りまで食ってる」
「王都みたいに灯りが密集している場所だと、広がり方が早いはずです」
俺は考えた。
王都の灯火網は大きい。
大聖灯を中心に、街路灯、店灯、橋灯、祈り灯、下層灯路が結ばれている。
そこに黒聖灯が立てば、黒い流れは網全体へ広がる。
ノクスヴェイルの黒燭とは規模が違う。
急がなければならない。
だが、目の前の三人を放っておくわけにもいかない。
「まず、その黒燭を隔離します」
俺が言うと、少女はびくりと肩を震わせた。
「でも、これがないと……」
「王都の門では必要かもしれません。でも、ここで持ち続けるとあなたの灯りが弱ります」
「わたしの灯り?」
少女は自分の胸元に手を当てた。
そこには、小さなペンダントがあった。
硝子の中に、ほんのわずかな火種が入っている。
「それは?」
ミリアが目を細める。
「母の形見です。屋台の灯りから分けてもらった火を入れてあります。お守りみたいなものですけど」
「見せて」
少女は迷ったが、ペンダントを外してミリアに渡した。
ミリアはそれを手のひらに乗せ、真剣な顔で見つめる。
「これ、ただのお守りじゃない。小さいけど、ちゃんと灯具だよ」
「え?」
「屋台灯の火種を守る携帯灯。古い作りだけど、いいもの。黒燭を抱えてたら、この子が先に食われる」
少女は息を呑み、黒い蝋燭を見た。
まるで毒蛇を持っていたことに気づいたような顔だった。
「でも、手放したら……」
「代わりに隔離筒へ入れます。必要になったら見せられる形で持ちます。でも、直接は持たない」
ミリアは工具袋から小さな硝子筒を取り出した。
黒燭をそこへ入れ、俺が【小さな灯】で外側を封じる。
赤黒い気配が弱まった。
少女は胸元にペンダントを戻し、両手で包み込む。
すると、硝子の中の火種が少しだけ明るくなった。
「……まだ、生きてた」
「はい」
俺は頷いた。
「小さな灯りは、思ったよりしぶといです」
少女の目に涙が浮かんだ。
◇
三人は王都南門から逃げてきたという。
女の名はハンナ。
下層街で洗濯仕事をしていた。
老人はユーベル。
南通りの靴直し職人。
少女はマリ。
母親の屋台を手伝っていたが、黒聖灯の点灯後、屋台の灯りが消え、母親が黒燭を受け取るために列へ並んだまま戻ってこないという。
「戻ってこない?」
セラが聞く。
マリは小さく頷いた。
「黒聖灯広場に集められた人たちは、しばらく帰ってこないんです。聖灯局の人は、祝福を受けているだけだって言うけど」
「祝福……」
ドルトンさんが嫌悪を隠さず呟く。
「黒燭商会が使いそうな言葉です」
ハンナは震える声で続けた。
「広場に行った人は、帰ってきても変なんです。笑うんです。黒い灯りは安心だって。家の古い灯りなんてもういらないって。でも目が……目が、灯りを見ていないみたいで」
黒い昼。
王都は夜を昼と呼ぶようになる。
夢の中の月守狐の言葉が蘇る。
すでに始まっている。
王都の人々は、黒聖灯を信じさせられている。
それも、力ずくで脅されるだけではない。
安心したい心。
救われたい心。
大きな灯りなら守ってくれるはずだという信頼。
そういうものを利用されている。
「聖灯局長グレゴールは?」
俺が聞くと、ユーベルが顔をしかめた。
「広場で演説していた。黒聖灯こそ新時代の守りだと。旧式灯具にしがみつく者は、夜霧を招く反灯者だと」
「反灯者……」
「古い灯りを守ろうとした職人が何人か、連れていかれた」
ミリアの表情が変わる。
「灯具職人?」
「ああ。南通りのランプ屋、橋下の修理屋、祈り灯の番人もいた。皆、黒聖灯に逆らったわけじゃない。ただ、自分の灯りを消したくないと言っただけだ」
ミリアが拳を握りしめた。
「やっぱり、王都にもいるんだ」
「何が?」
「小さな灯りを守ってる人たち」
彼女は俺を見た。
「ルカ、王都に入ったら聖灯局へ直行じゃない。まず、その人たちを探すべきだよ」
「はい」
俺も同じことを考えていた。
王都の灯火網を起こすなら、必要なのは大聖灯へ突撃する力ではない。
街の小さな灯りを知る人たちだ。
ランプ屋。
修理屋。
祈り灯の番人。
屋台の灯りを守る人。
下層街の窓灯を消さない人。
そういう人たちとつながれば、王都の中にも灯火網を作れる。
セラが地図を広げた。
「王都へ正面から入るのは危険ね。南門では黒燭を持っていないと止められる。しかも、ルカの顔を知っている聖灯局員がいる可能性が高い」
「追放者ですからね」
「軽く言わない」
セラが少し睨む。
俺は黙って頷いた。
ハンナがおずおずと手を上げた。
「あの……南門ではなく、古い水路門なら入れるかもしれません」
「水路門?」
「下層街の洗濯場につながる古い門です。普段は水運びや灰捨てに使われています。黒聖灯がともってから見張りは増えましたけど、正門ほど厳しくありません」
ユーベルも頷いた。
「水路門のそばに、古い橋灯がある。あれがまだ生きていれば、下層街の灯火師たちと連絡できるかもしれん」
「橋灯……」
俺は覚えていた。
王都南下層の水路橋。
いつも湿気で芯が傷みやすく、何度も修理した場所だ。
正式な大灯ではない。
報告書では「南下層橋灯三号」とだけ書かれる、誰にも注目されない灯り。
だが、あそこは下層灯路の結び目だ。
そこを起こせれば、王都の小さな灯りへつながる。
「水路門へ向かいましょう」
俺は言った。
「ただし、三人はどうしますか」
ハンナたちは疲れ切っている。
祠に置いていくのは危険だ。
かといって王都へ戻すわけにもいかない。
ドルトンさんが口を開いた。
「この祠を一時避難所にできませんか」
「避難所?」
「王都から逃げてくる人は、これから増えるかもしれません。ここに本当の灯りがあるなら、道標になります。私がここに残り、逃げてくる人を受け入れます」
「ドルトンさん?」
セラが驚く。
「王都へ証言に行くと言っていたのでは」
「行きたい気持ちはあります。でも、私は戦えるわけではありません。商人として今できるのは、人を集め、話を聞き、必要なものを分けることです」
彼は祠の石灯籠を見た。
「ここで逃げてきた人の証言を集めます。名前、場所、黒燭の被害、連れていかれた人。王都に入る皆さんが戻ってきた時、それを証拠にできます」
セラは少し考え、頷いた。
「確かに必要ね」
「ただ、祠の灯りを維持する人が必要です」
俺が言うと、マリが胸元のペンダントを握った。
「わたし、できますか」
「え?」
「母さんの灯りを守ってきました。小さいけど。祠の灯りも、見ていられるなら」
彼女の声は震えている。
それでも、ただ逃げる人の声ではなかった。
ミリアがすぐに横へ座る。
「できるよ。難しいことはしない。灯りが弱くなったら、この反射板を少し動かす。黒い煤が出たら、直接触らずにこの布で囲む。水はこの位置。ポルカの毛は使わない。いい?」
「はい」
「あと、黒燭を見つけたら絶対に火をつけない」
「はい」
ミリアは簡易の祠灯管理具を作り、マリに渡した。
マリはそれを両手で受け取る。
小さな灯りを守る役目が、また一つ生まれた。
俺は祠の石灯籠にさらに光を入れた。
「この灯りは、逃げてくる人を迎える灯りです」
ハンナが涙ぐむ。
ユーベルは深く頭を下げた。
ドルトンさんは祠の入口に立ち、商人らしく荷を整理し始めた。
食料。
水。
布。
隔離筒。
証言を書く紙。
小さな避難所。
巡灯路の祠は、ただの古い灯りではなくなった。
王都から逃げてくる人を受け止める、最初のあかり場になったのだ。
◇
俺たちは祠を発った。
同行するのは、俺、セラ、ミリア、ポルカ。
そして、ユーベルが水路門の近くまで案内すると申し出た。
「足手まといになるかもしれんが、水路門と橋灯の場所は知っている」
「危険です」
「わしの店も、仲間も王都に残っている。逃げっぱなしでは、靴直しの看板が泣く」
老人はそう言って、曲がった背を少し伸ばした。
セラは短く頷く。
「分かった。ただし、私の指示には従って」
「もちろん」
巡灯路は祠からさらに細くなった。
王都へ近づくほど、黒聖灯の影響は強くなる。
草の先が黒く染まり、古い灯火紋もいくつかは完全に沈黙していた。
そのたびに、俺は足を止め、灯りを入れた。
全部を完全に直す時間はない。
それでも、火種だけは残していく。
後から誰かが逃げてきた時、祠までたどり着けるように。
ミリアが携帯灯路を補強する。
セラが周囲を警戒する。
ポルカが黒い流れを見つける。
ユーベルが古い道を示す。
少しずつ、王都が近づいてくる。
やがて、丘の上に出た。
そこから王都が見えた。
高い城壁。
尖塔。
大通り。
そして、中心にそびえる大聖灯。
いや。
黒聖灯。
巨大な灯柱の中心に、黒い芯が脈打っている。
昼の空の下で、黒い光が王都を照らしていた。
街は明るいはずなのに、影が濃い。
人々は大通りを歩いている。
だが、その動きはどこか鈍く、誰も空を見上げない。
黒い鐘が、再び鳴った。
ごおん。
その瞬間、城壁の灯りが一斉に黒く揺れた。
俺のランタンも、結灯環も、強く震える。
ポルカが肩の上で鳴いた。
「ぽうっ!」
「大丈夫です」
俺はランタンを両手で握った。
震えはした。
でも、消えていない。
ノクスヴェイルの灯り。
巡灯路の祠灯。
マリのペンダント。
祠に残した逃げ人たちの灯り。
それらが細い線でつながっている。
大きな黒い光に対して、小さな灯りの網がまだ切れずに残っている。
ユーベルが指さした。
「あれが水路門だ」
王都南側の低い城壁。
排水路と物資搬入口を兼ねた、小さな門。
正門に比べれば目立たない。
だが、見張りはいる。
しかも、門の両側には黒燭が立てられていた。
その近くに、古い橋灯がある。
俺が何度も直した、南下層橋灯三号。
だが今、その灯りは消えかけていた。
黒い糸が絡みつき、灯具の硝子が煤けている。
「まず、あの橋灯を起こします」
俺が言うと、ミリアが頷いた。
「王都内灯火網の入口だね」
「はい」
セラが短剣の柄に手を置く。
「見張りは二人。黒燭あり。騒ぎを起こさず橋灯まで行ける?」
その時。
門の近くから、聞き覚えのある声がした。
「おい、下層の灯りなんぞ確認しても意味ないだろ。黒聖灯があるんだ。こんな古い橋灯、さっさと撤去しろ」
胸が、嫌な形で跳ねた。
忘れたくても忘れられない声。
王都聖灯局で俺を笑っていた同僚。
オルド・ライゼン。
彼は黒い縁取りの入った聖灯局制服を着て、橋灯の前に立っていた。
手には、黒燭商会の蝋燭。
隣の下級職員がためらいがちに言う。
「ですが、この橋灯は下層灯路の結節点で……」
「うるさい。局長命令だ。旧式灯具は撤去。黒聖灯に逆らう灯りは全部消せ」
オルドは橋灯へ黒燭を近づけた。
俺は思わず一歩前に出た。
セラが低く言う。
「知り合い?」
「元同僚です」
「嫌な方の?」
「かなり」
ミリアが工具袋を握りしめる。
「じゃあ、ちょうどいいね」
「何がですか」
「あいつの目の前で、その橋灯を起こす」
黒燭の火が、橋灯へ触れようとしている。
俺はランタンを掲げた。
王都へ戻ってきた。
追放された灯火師として。
けれど今は、一人ではない。
村の灯りと、巡灯路の灯りと、本当の灯りを求める人々の声を背負っている。
南下層橋灯三号。
俺が何度も直した、小さな灯り。
今度も、消させない。
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