第23話 巡灯路の祠

 王都へ続く巡灯路は、草に埋もれていた。


 かつて灯火師たちが歩いたという古い道。


 村から村へ。


 宿場から祠へ。


 祠から街道灯へ。


 大きな灯りではなく、小さな灯りを一つずつ確かめながら進むための道。


 その存在を、王都聖灯局にいた頃の俺は知らなかった。


 いや、正確には。


 知ろうとしなかったのかもしれない。


 聖灯局では、大聖灯を中心にした灯火体系こそがすべてだと教えられた。


 王都に巨大な光があるから、周辺の村々も守られる。


 中心が強ければ、末端は自然に照らされる。


 そんな理屈だ。


 けれど、ノクスヴェイルで俺が見たものは違った。


 大きな灯りが届かなくなった時、最後に人を守るのは窓辺の油灯であり、井戸の小さな灯であり、子どもの枕元に置かれた安眠灯だった。


 灯りは上から降ってくるものではない。


 人が暮らす場所から、ともるものだ。


「ルカ」


 先頭を歩いていたセラが振り返った。


「足元、また光っているわ」


「はい」


 俺はランタンを掲げた。


 草むらの中に、古い石が半分埋もれている。


 そこには、小さな灯火紋が刻まれていた。


 ノクスヴェイルの北門で見たものより、さらに古い。


 線は摩耗し、苔が入り込んでいる。


 だが、俺の【小さな灯】に反応して、かすかに金色が浮かんでいた。


「二つ目の巡灯標ですね」


 ミリアが手帳を開く。


 父親の手帳には、巡灯路の簡単な地図が描かれている。


 村を出てから、俺たちはそこに記された灯火紋を頼りに進んでいた。


「一つ目が村外れの石柱。二つ目がここ。次は……古い祠かな」


「祠?」


「うん。父さんのメモだと、巡灯師が休む場所だったみたい。小さな灯具と水場があるって」


 ドルトンさんが荷を背負い直しながら、不安そうに周囲を見た。


「その祠が今も残っているといいのですが」


「残っていなかったら?」


 セラが尋ねる。


 ミリアは少し考え、それから工具袋を叩いた。


「作る」


「頼もしいですね」


「職人だからね」


 ポルカが俺の肩で、ぽう、と鳴いた。


 その尻尾の光が、足元の灯火紋をくすぐるように揺れる。


 すると、石に刻まれた古い線が少しだけ明るくなった。


 俺は膝をつき、結灯環を石に近づける。


 手首の真鍮が温かい。


 まだ、ノクスヴェイルの灯りが細くつながっている。


 遠く離れても、完全には切れていない。


 宿の食堂灯。


 北門守護灯。


 井戸灯。


 月灯工房の芯灯。


 ニナの安眠灯。


 リオのランプ。


 それぞれの灯りが、小さな火種となって腕輪の中で揺れている。


「ここにも、少し灯りを置いていきます」


 俺は言った。


「置いていく?」


 ドルトンさんが目を丸くする。


「はい。戻る道にもなりますし、後からこの道を通る人の助けにもなります」


「しかし、灯りを置いていけば、あなたの力が減るのでは?」


「俺の力だけで進んでいるわけではありませんから」


 そう答えると、ミリアが少し得意げに笑った。


「そうそう。灯火網ってそういうもの。一本の灯りを削っていくんじゃなくて、途中の灯りを起こして道を増やす」


「なるほど……商人の道標とは逆ですね」


 ドルトンさんが呟いた。


「商人は荷を運ぶほど軽くなる。でも灯りは、置いていくほど道が強くなる」


「いい言い方ですね」


 俺は石の灯火紋に手をかざした。


 ここを通る誰かが、夜に道を見失わないように。


 王都へ向かう俺たちだけでなく、いつかこの巡灯路を歩く誰かの足元を照らすように。


「【小さな灯】」


 ぽっと、小さな光が石に宿った。


 派手なものではない。


 昼間なら、見落としてしまうほどの弱い灯り。


 けれど、道を忘れないためには十分だった。


 ポルカが満足そうに鳴く。


「ぽう」


 巡灯標の光が、道の先へ細く伸びた。


 その先で、草に隠れた次の石が一瞬だけ光る。


 道はまだ、生きている。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃、空が暗くなり始めた。


 雲が出たわけではない。


 むしろ、空は晴れている。


 それなのに、王都の方角から薄い黒い光が広がり、周囲の色を鈍らせていた。


 草の緑がくすみ、木の影が濃くなり、遠くの街道を歩く鳥の鳴き声まで弱くなったように感じる。


 ドルトンさんが立ち止まり、青ざめた顔で空を見上げた。


「昼なのに……暗い」


「黒聖灯の影響ね」


 セラが低く言う。


「王都からここまで届いているの?」


「大聖灯は王都周辺一帯の灯路の中心です」


 俺は答えた。


「そこに黒い芯が入れば、周囲の灯路にも影響が出るはずです」


 結灯環が、ちり、と冷たく震えた。


 ノクスヴェイルの灯りが遠くで揺らいだ気がした。


 俺は思わず手首を押さえる。


 ミリアがすぐに気づいた。


「ルカ?」


「大丈夫です。ただ、王都側から黒い流れが来ています」


「村は?」


「まだ持っています。北門守護灯が支えている」


 目を閉じると、かすかに分かる。


 遠く離れた村で、ガルム爺が北門の灯りを見上げている。


 ロッテさんが宿の食堂灯を守っている。


 ニナが安眠灯を抱いている。


 リオが自分のランプを窓辺に置いている。


 彼らの灯りは、黒い流れに押されながらも消えていない。


「急ぎましょう」


 セラが言った。


「でも、焦って灯りを飛ばしすぎないで」


 ミリアが俺の腕を軽く叩く。


「巡灯路を起こしながら行く。急ぐけど、道は雑にしない」


「はい」


「よし」


 まるで師匠のような口ぶりだった。


 でも、その通りだ。


 王都へ早く着くことだけを考えて、途中の灯りを無視すれば、黒燭と同じになる。


 俺たちが届けるべきなのは、強引な大光ではない。


 小さな灯りの網だ。


     ◇


 古い祠に着いたのは、日が傾く前だった。


 木立の中に隠れるように、小さな石造りの建物が立っている。


 屋根は一部崩れ、扉は外れかけていた。


 けれど、完全には壊れていない。


 入口の両側には、背の低い灯柱が二本。


 奥には水場。


 そして中央に、丸い石灯籠があった。


「ここだ」


 ミリアが手帳と祠を見比べる。


「巡灯師の休み祠。父さんのメモだと、夜にここへ着いたら、灯籠をともして一刻休むって書いてある」


「使えそうですか?」


「見てみる」


 ミリアはすぐに石灯籠へ近づき、苔を払い、金具を確認し始めた。


 セラは周囲を警戒する。


 ドルトンさんは水場を覗き込んだ。


「水は……少し濁っていますが、使えそうです」


「飲む前に灯りを通しましょう」


 俺は祠の中央に立った。


 空気が重い。


 長く放置された場所の匂いに混じって、黒燭の冷たい気配がある。


 石灯籠の内側に、黒い煤のようなものがこびりついていた。


「ここにも黒燭が?」


 セラが眉をひそめる。


「通り道として汚されたのかもしれません」


 俺は指先で煤を少し削り、布に落とした。


 黒い蝋ではない。


 黒燭の火が通った跡だ。


 この巡灯路も、すでに黒い流れに触れられている。


 ミリアが石灯籠の内部を覗き込み、顔をしかめた。


「芯受けが割れてる。あと、灯路の入口が詰まってる。でも直せる」


「時間は?」


「急げば半刻」


「お願いします」


「任された」


 ミリアは工具袋を広げた。


 壊れた金具を外し、透明魔石の欠片をはめる。


 村から持ってきた小さな銅線を、石灯籠の古い溝へ沿わせる。


 その手元に迷いはなかった。


 ノクスヴェイルに来たばかりの頃、彼女は壊れたランプの前で「直せない」と言うしかなかった。


 今は違う。


 壊れているなら、どこを直せばいいか見る。


 足りないなら、あるもので補う。


 灯りが死んでいるなら、起こす方法を探す。


 それは、ミリア自身が取り戻した灯りだった。


「ルカ、火」


「はい」


 俺は石灯籠の前に膝をつき、ランタンを掲げた。


 この灯りは、旅人のための灯り。


 巡灯師が休み、水を飲み、次の道を確かめるための灯り。


 強く燃え続ける必要はない。


 ただ、ここが休んでいい場所だと知らせるための灯り。


「【小さな灯】」


 金色の光が石灯籠に入った。


 一瞬、黒い煤がふわりと舞う。


 ポルカが尻尾を振り、白い月明かりでそれを押さえ込む。


 ミリアが反射板の向きを微調整する。


 やがて、石灯籠の中に小さな灯りがともった。


 祠の中が、やわらかく明るくなる。


 壊れた屋根。


 苔むした床。


 濁っていた水場。


 すべてが少しだけ色を取り戻す。


 同時に、祠の奥の壁に刻まれた古い文字が浮かび上がった。


『灯りを継ぐ者よ。

 大きな火を疑え。

 小さな灯を数えよ。

 道は、灯りの数だけ残る。』


 俺たちはしばらく黙って、その文字を見ていた。


 まるで、昔の巡灯師が今の俺たちへ言葉を残してくれていたようだった。


「大きな火を疑え、か」


 セラが呟く。


「王都聖灯局が聞いたら怒りそうですね」


 俺が言うと、ミリアが鼻を鳴らした。


「だから忘れられたんでしょ。王都は大聖灯だけ見て、小さな巡灯路を捨てた」


「でも、残っていました」


「うん」


 ミリアは石灯籠を見上げた。


「誰かが作って、誰かが守ろうとして、完全には消えなかった」


 その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。


 ノクスヴェイルもそうだった。


 完全に消えたように見えて、広場灯柱も、井戸灯も、北門灯も、宿の食堂灯も、地下芯灯も、みんな待っていた。


 灯りは、人が忘れなければ完全には死なないのかもしれない。


     ◇


 祠で短い休憩を取った。


 ロッテさんが持たせてくれた硬めのパンと干し肉、ニナの干し果物を少しずつ食べる。


 ポルカは干し果物に興味を示したが、ひとかけら舐めて「ぽう」と微妙な顔をした。


「甘すぎる?」


「ぽう」


「贅沢な狐ですね」


 ミリアが笑って、代わりに薄めた蜂蜜水を差し出すと、ポルカは満足そうに飲んだ。


 ドルトンさんは祠の入口で、王都方面の空を見ていた。


「王都が心配です」


「家族が?」


 セラが尋ねる。


「いえ、家族はいません。ただ、商売仲間がいます。南通りの小さな店、荷運びの若者、屋台の女将……黒聖灯を見た彼らが、どうしているかと思うと」


「不安ですか」


「はい」


 ドルトンさんは苦笑した。


「私は王都の商人です。大聖灯は絶対だと思っていました。あれがあるから王都は安全なのだと。でも今は、その絶対が怖い」


 俺は祠の石灯籠を見た。


 小さな灯り。


 その光は、誰かに絶対だと名乗らない。


 ただ、足元を照らしている。


「絶対の灯りは、たぶん危ういんです」


 俺は言った。


「誰も疑わなくなるから」


「では、どうすれば?」


「小さな灯りを増やします。一つが間違っても、別の灯りが気づけるように」


 ドルトンさんはしばらく考え、それから頷いた。


「商売も同じかもしれません。一つの大商会にすべてを握られると、街は弱くなる」


「黒燭商会のように?」


「ええ」


 彼は顔を上げた。


「王都に着いたら、私の知る商人たちへ声をかけます。聖灯局へ直接行くより、まず街の人に知らせる方がいいかもしれません」


 セラが頷く。


「助かるわ。王都では私たちは外から来た者。ルカは追放者。いきなり聖灯局へ行っても潰される可能性が高い」


「なら、街の小さな灯りからですね」


 ミリアが言った。


「屋台、宿、工房、路地の手灯。そういうところを起こす」


「王都の中に灯火網を作る」


 俺は静かに言った。


 それが、月守狐の言っていたことなのだろう。


 村の灯火網を王都へ届ける。


 大聖灯に真正面から大きな光をぶつけるのではない。


 王都に残っている小さな灯りを起こし、人々が本当の灯りを思い出せるようにする。


 それなら、俺にもできる。


 俺は大聖灯の担当ではなかった。


 下層灯路と路地灯ばかり見ていた、灯りをつけるだけの無能だった。


 でも、だからこそ。


 王都の小さな灯りがどこにあるか、俺は知っている。


「ルカ?」


 ミリアが俺を見る。


「少し、分かってきました」


「何が?」


「俺が王都でやっていた仕事の意味です」


 王都にいた頃は、誰にも評価されなかった。


 大聖灯の前で称えられる者たちを横目に、俺は薄暗い路地の灯りを直していた。


 貴族街ではない場所。


 式典に使われない灯り。


 報告書にも小さくしか載らない灯具。


 でも、その小さな灯りたちが、今度は黒聖灯に対抗する鍵になるかもしれない。


 無駄ではなかった。


 そう思えた。


 その時、石灯籠の光が急に揺れた。


 ポルカが耳を立てる。


「ぽう……」


 祠の外。


 草むらの向こうから、足音が聞こえた。


 一人ではない。


 複数。


 セラが短剣に手をかけ、ミリアが工具を握る。


 俺はランタンを掲げた。


「誰ですか」


 祠の外へ声をかける。


 しばらく沈黙があった。


 そして、木立の影から、三人の旅人が姿を現した。


 いや、旅人というには様子がおかしい。


 服は王都近郊のもの。


 荷物は少なく、顔色は悪い。


 その手には、黒燭商会の黒い蝋燭が握られていた。


 火はついていない。


 だが、三人はそれを恐れるように持っている。


 先頭の女が、震える声で言った。


「ここに、本当の灯りが見えたの」


「本当の灯り?」


「王都の大聖灯が黒くなってから、街の灯りが全部おかしい。黒燭を配られて、これを使えって言われた。でも、使うと子どもが泣く。店の灯りが消える。だから逃げてきた」


 彼女は祠の石灯籠を見た。


 その目に涙が浮かぶ。


「お願い。助けて。王都が、昼なのに夜みたいになってる」


 胸の奥が冷えた。


 黒聖灯の影響は、もう王都の人々を苦しめている。


 俺たちは間に合っていない。


 いや。


 まだ間に合う場所がある。


 俺は祠の灯りを見た。


 ここに、本当の灯りが見えたと言った。


 なら、この巡灯路の小さな灯りは、王都から逃げてきた人にも届いたのだ。


 セラが旅人たちへ近づく。


「ここは安全です。まず座って」


 ロッテさんがいれば、すぐにスープを出しただろう。


 今はない。


 けれど、ニナの干し果物と水ならある。


 ミリアが黒燭を直接触らないよう受け取り、隔離筒へ入れる。


 俺は祠の石灯籠に少し灯りを足した。


「大丈夫です」


 女は顔を上げる。


 俺はランタンを掲げた。


「俺たちは王都へ向かっています。黒い大聖灯を止めるために」


 旅人たちは目を見開いた。


 遠く、王都の方角から、黒い鐘の音が響いた。


 ごおん。


 昼でも夜でもない、不気味な音。


 ポルカが肩の上で毛を逆立てる。


 王都が、俺たちを待っている。


 いや。


 黒聖灯が、こちらに気づいたのかもしれない。

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