第22話 王都へ届ける小さな灯

 月守狐が目覚めると、黒森の夜霧は静かに退いた。


 完全に消えたわけではない。


 黒い根のように、森の奥にはまだ闇が残っている。


 けれど、さっきまで肌にまとわりついていた冷たい霧は薄れ、木々の間に夜明け前の青い光が差し込んでいた。


 月守狐は石の環の中央に立ち、三本の尾をゆっくり揺らしている。


 そのたびに、白銀の光が森の地面を撫でた。


 倒れていた古い灯路が、ほんの少しだけ息を吹き返す。


 黒く濁っていた石畳の隙間に、白い線が浮かぶ。


 ポルカは月守狐の足元で、見上げるように鳴いた。


「ぽう……」


 月守狐は大きな鼻先を下げ、ポルカの額にそっと触れた。


 すると、ポルカの尻尾の光がふわりと強くなる。


「ぽうっ!」


 得意げな声。


 いや、嬉しそうな声だった。


 月守狐の声が、胸の奥に響く。


『小さき月の子よ。よく灯りをつないだ』


 ポルカは胸を張った。


 かなり誇らしげだった。


 ミリアが小さく笑う。


「ポルカ、褒められてる」


「ぽう!」


「分かってるって顔してるわね」


 セラも少しだけ表情を緩めた。


 けれど、その目はすぐに王都の方角へ向く。


 東の空は明るくなり始めている。


 しかし、遠く王都のある方角だけが不自然に黒ずんでいた。


 朝焼けの中に、煤を混ぜたような色。


 嫌な空だった。


「時間がないわね」


 セラが言った。


「はい」


 俺はランタンを見下ろす。


 月守狐から分けられた白銀の光が、金色の【小さな灯】の奥に静かに宿っている。


 強い力ではない。


 けれど、道を見失わないための光だ。


 王都へ向かう道。


 そして、帰る道。


「月守狐。あなたは村へ?」


 俺が尋ねると、白銀の狐はゆっくり首を振った。


『我はまだ森を離れられぬ。黒燭が打ち込んだ黒き根を、森からほどかねばならぬ』


「黒い根……」


『黒燭は火だけではない。恐れ、疑い、諦め。それらを地に染み込ませる。森も村も王都も、同じように蝕まれている』


 灯りを信じる心を食う。


 夢で聞いた言葉が、また胸に浮かぶ。


 黒燭は、ただ灯具を壊すだけではない。


 人に「自分たちの灯りでは駄目だ」と思わせる。


 古い灯具を捨てさせる。


 誰かが守ってきた小さな灯りを、価値のないものだと思わせる。


 その先にあるのが、大聖灯の黒い芯。


 王都そのものが、黒い昼を迎える未来。


 俺は拳を握った。


「王都へ行きます」


『行け、小さな灯の子』


 月守狐は三本の尾を広げた。


 白銀の光が、俺たちの足元から北門へ向かって伸びる。


『村へ戻る道は開いておく。だが、王都への道は黒燭が塞ぐだろう』


「分かっています」


『ひとつの大きな灯りになろうとするな。大きな灯りは、黒い芯を入れられれば一度に堕ちる』


 月守狐の銀の瞳が、俺を見た。


『小さな灯りを、小さなまま結べ』


 俺は静かに頷いた。


「はい」


     ◇


 村へ戻ると、北門の前には人が集まっていた。


 ガルム爺。


 ロッテさん。


 ニナ。


 リオと子どもたち。


 水汲みの女たち。


 工房で月灯狐を見守っていた村人たち。


 皆、夜通し起きていたのだろう。


 顔には疲れが濃い。


 それでも、俺たちが森から出てきた瞬間、広場の方から歓声が上がった。


「戻ったぞ!」


「セラ様だ!」


「ルカさんたちも!」


「ポルカもいる!」


 ポルカはその声に反応し、俺の肩の上で尻尾を揺らした。


「ぽう!」


 すると、村のあちこちの灯りが、ぽう、と応えるように瞬いた。


 北門守護灯。


 井戸灯。


 あかり宿の食堂灯。


 月灯工房の芯灯。


 窓辺の小さな灯り。


 すべてが生きている。


 俺たちが森の奥へ行っている間、村人たちが守ってくれていたのだ。


 ニナが走ってきた。


「ルカ兄ちゃん!」


「ニナ、灯りを守ってくれてありがとうございました」


「うん! 寝ないで見てた!」


 ロッテさんが後ろから慌てて言う。


「途中で少し寝ていたわよ」


「ちょっとだけ!」


「そのちょっとが大事です」


 俺が言うと、ニナは頬を膨らませた。


 でも、その手には安眠灯がしっかり抱かれている。


 灯りは消えていない。


 リオは自分のランプを探すように、俺の手元を見た。


 俺は両手でそれを返す。


「約束通り、返します」


 リオはランプを受け取り、胸に抱いた。


「ありがとう」


「こちらこそ。このランプに何度も助けられました」


「ほんと?」


「はい。帰り道を教えてくれました」


 リオの目が潤む。


 彼はランプを見下ろし、小さく笑った。


「お母さん、すごい灯り持ってたんだ」


「とてもすごい灯りです」


 ミリアが横から言った。


「あとで見せて。修理じゃなくて、整備する。壊さないように」


「うん」


 リオは少し迷ってから頷いた。


 その顔に、黒森で怯えていた時とは違う光がある。


 帰る場所を見つけた子どもの顔だった。


     ◇


 月灯工房では、五匹の月灯狐たちが少しだけ元気を取り戻していた。


 月守狐が目覚めた影響だろう。


 尻尾の光が昨日より明るい。


 ポルカが工房へ入ると、五匹が一斉に顔を上げた。


「ぽう!」


「ぽう、ぽう!」


 小さな白い毛玉たちが寄ってくる。


 ポルカは明らかに得意げだった。


 まるで、自分が全部助けたと言いたげに胸を張っている。


「まあ、かなり頑張ったのは事実だけどね」


 ミリアが苦笑しながら、月灯狐たちの寝床を整えた。


「でも、まだ森へは戻せない。毛も体力も戻ってないし」


「村で休ませましょう」


 俺が言うと、セラも頷いた。


「工房を保護場所にするわ。村人にも伝える」


「名前、いる?」


 ミリアが急に言った。


「名前?」


「この子たち。五匹もいると、呼び分けられない」


 ポルカがなぜか得意げに「ぽう」と鳴いた。


 自分だけ名前があるのが嬉しいらしい。


 ニナが入口から顔を出した。


「名前つけるの?」


「ニナは安静の子どもたちを見ている役では?」


「今ロッテさんが見てる!」


 ニナは胸を張った。


「わたし、名前得意だよ!」


「ポルカの名付け親ですからね」


「うん!」


 ミリアが笑う。


「じゃあ後でみんなで決めよう。今は王都の話が先」


 その言葉で、空気がまた引き締まった。


 王都。


 大聖灯。


 グレゴール。


 ヴァルハイン。


 黒い芯。


 目の前の村は救われた。


 月守狐も解放した。


 けれど、戦いはもう次の場所へ移っている。


 セラは工房の中央に村の地図と街道図を広げた。


「王都までは、普通に行けば馬車で二日。ただし今は黒燭商会が街道を押さえている可能性がある」


 ドルトンさんも呼ばれていた。


 彼は商人として街道に詳しい。


「北の街道は危険です。黒燭商会の荷馬車が通るなら、あちらを使うでしょう。南回りなら遠回りですが、小さな宿場を経由できます」


「時間は?」


「急いでも三日近いです」


 セラが眉を寄せる。


「三日は長い」


「王都の大聖灯が夜明けとともに黒い昼を迎えるなら、もう始まっている可能性があります」


 俺は言った。


 工房の空気が重くなる。


 間に合わないかもしれない。


 その言葉は、誰も口にしなかった。


 だが、全員が考えたはずだ。


 その時、ミリアの父の手帳が、ふっと光った。


 工房の地下芯灯も応えるように揺れる。


 ページがひとりでにめくれ、古い灯路図が現れた。


 ノクスヴェイルから王都へ伸びる細い線。


 街道とは違う。


 村、宿場、古い祠、廃灯台、王都外縁灯路。


 小さな灯りの点が、連なるように描かれている。


「これ……」


 ミリアが息を呑む。


「古い巡灯路だ」


「巡灯路?」


「昔の灯火師が、村から村へ灯りを点検して歩いた道。街道より細いけど、灯路が残っていれば夜でも迷いにくいって父さんが言ってた」


 俺は地図に目を落とした。


 巡灯路。


 王都の大聖灯だけではなく、各地の小さな灯りを結ぶための道。


 俺が王都で整備していた下層灯路にも、似た思想がある。


 大きな灯りを中心にするのではなく、小さな灯りを網のように結ぶ。


「この道なら?」


 セラが聞く。


 ミリアは地図を読み、指で線を辿った。


「馬車は無理。でも徒歩と小型荷車なら行ける。灯路を起こしながら進めば、夜でも進めるかも。王都まで……一日半」


「かなり縮まりますね」


「ただし、道が生きていればの話。途中の灯りが死んでたら、そこで止まる」


 俺は手首の結灯環に触れた。


 村の灯りを受けるためにミリアが作った試作灯具。


 これがあれば、巡灯路を一つずつ起こせるかもしれない。


「行きましょう。巡灯路で」


 セラはすぐに頷いた。


「少人数で動く。私、ルカ、ミリア、ポルカ。ドルトンさん、王都までの商人証は使える?」


「はい。王都門を通るだけなら。ただ、私は……」


 彼は青ざめた顔をした。


 黒燭商会に利用され、黒森で死にかけたのだ。


 また王都へ向かうのは怖いだろう。


 俺は無理に頼むつもりはなかった。


 しかし、ドルトンさんは拳を握った。


「行きます」


「危険です」


「分かっています。でも、私が証言しなければ。黒燭商会が何をしたのか、王都の商人として証言します」


 その声は震えていた。


 それでも、逃げる声ではなかった。


 セラが静かに頷く。


「ありがとう。では同行をお願いします。ただし、無理はしないで」


「はい」


 ロッテさんが宿から保存食を持ってきた。


 ガルム爺は古い巡灯師の外套を納屋から出してきた。


「昔、わしの祖父が使っていたものだ。灯火師が街道を歩く時に羽織る外套らしい」


 古びてはいるが、丁寧に手入れされている。


 俺はそれを受け取った。


 胸元に、小さな灯火紋が縫い込まれている。


 王都聖灯局の派手な紋章ではない。


 もっと古く、素朴な紋章。


 一本の小さな灯と、それを囲む家々。


「似合うんじゃない?」


 ミリアが言った。


「そうですか?」


「王都の制服より、こっちの方がルカっぽい」


 王都の制服。


 追放された日に剥ぎ取られたもの。


 それを思い出しても、もう胸は前ほど痛まなかった。


 俺には今、この外套がある。


 この村から託された、巡灯師の外套が。


     ◇


 出発は昼前になった。


 空は明るい。


 けれど王都の方角だけが、やはり薄黒く霞んでいる。


 村人たちは北門に集まっていた。


 ニナは安眠灯を抱え、リオは自分のランプを掲げている。


 五匹の月灯狐たちは工房の窓辺から顔を出し、ポルカを見送っていた。


 ポルカは俺の肩の上で、やや得意げに鳴く。


「ぽう!」


「ちゃんと帰ってきてね、ポルカ!」


 ニナが叫ぶ。


「ぽう!」


「ルカ兄ちゃんも!」


「はい」


「セラ姉ちゃんも! ミリア姉ちゃんも! ドルトンさんも!」


「全員言うの偉い」


 ミリアが笑う。


 セラは北門守護灯の下で、村人たちへ向き直った。


「私たちは王都へ向かいます。けれど、村を守るのはここに残る皆です。灯りを消さないで。怖くなったら一人で抱えず、宿へ集まって。井戸灯、北門守護灯、工房の芯灯、あかり宿の灯りをつないで」


 村人たちは頷いた。


 もう、ただ守られるだけの顔ではない。


 自分たちの灯りを守る顔だった。


 俺はランタンを掲げた。


「行ってきます」


 北門守護灯が応えるように光る。


 宿の灯りも。


 井戸灯も。


 工房の芯灯も。


 ニナの安眠灯も。


 リオのランプも。


 それらの光が、俺の結灯環へ細く流れ込んだ。


 小さな灯りを小さなまま結ぶ。


 月守狐の言葉を胸に、俺たちは巡灯路へ足を踏み出した。


 王都へ向かう道は、古く、細く、草に埋もれていた。


 だが一歩進むと、足元の石に小さな灯火紋が浮かぶ。


 まだ生きている。


 道は、残っている。


 俺はランタンを掲げた。


「【小さな灯】」


 巡灯路の最初の灯りが、ぽっとともった。


 その先で、次の灯火紋が淡く光る。


 まるで、王都までの道が一つずつ目を覚ましていくようだった。


 その頃。


 遠く王都では。


 大聖灯の前に集まった人々が、空を見上げていた。


 昼なのに、広場は薄暗い。


 巨大な聖灯の中心に、黒い芯が入っている。


 聖灯局長グレゴール・バルザックは、その前で満足そうに微笑んでいた。


「見よ」


 彼は民衆へ向けて両手を広げる。


「これこそ、新たなる聖灯。夜霧を喰らい、王都を永遠に守る黒聖灯である」


 人々は不安げに顔を見合わせながらも、王都の大灯を信じようとしていた。


 黒い光が、広場を照らす。


 いや。


 照らしているように見せかけて、少しずつ人々の目から本当の灯りを奪っていた。

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