第21話 月守狐を縛る黒い鎖

 黒い火が、石の環を囲んで燃えていた。


 月守狐の白銀の体には、何本もの黒い鎖が巻きついている。


 鎖の先には、黒燭。


 一本一本が赤黒い火を宿し、月守狐の光を少しずつ吸い上げていた。


 火は明るくない。


 ただ、白銀の毛並みを黒く汚し、三本の尾から月明かりを奪っている。


「この森の灯りを、返してもらいます」


 俺がランタンを掲げると、ヴァルハインが低く笑った。


「返す? 面白いことを言う。これは回収だ。眠っていた資源を、我々が正しく使う」


「命を資源とは呼びません」


「灯火師らしい綺麗事だな」


 ヴァルハインの黒蝋燭が揺れた。


 石の環を囲む黒燭から、黒い糸が一斉に伸びる。


 狙いは俺ではない。


 足元の携帯灯路。


 ミリアが置いた小さな灯具たちだ。


「来る!」


 ミリアが叫んだ。


「右三本、左二本! ルカ、右を!」


「はい!」


 俺は結灯環に意識を向けた。


 手首の真鍮が温かくなる。


 村の灯りが、細い線となって俺のランタンへ流れ込む。


 宿の食堂灯。


 井戸灯。


 北門守護灯。


 工房地下芯灯。


 ニナの安眠灯。


 リオのランプ。


 それらの小さな火種が、俺の【小さな灯】と重なる。


「【小さな灯】」


 金色の光を、右側の黒い糸へ落とす。


 じゅ、と音がして黒糸がほどけた。


 左側では、ポルカが尻尾を振る。


「ぽう!」


 白い月明かりが黒糸の動きを鈍らせ、ミリアが反射板の角度を変えて弾く。


「よし、通った!」


 ミリアはすぐに石の環を見た。


 その目は怒りに震えている。


 だが、手は冷静だった。


「鎖は直接切れない。黒燭を一本ずつ眠らせる。まず外周の四本!」


「分かりました」


「セラ!」


「二人は作業を続けて!」


 セラは短剣を抜き、ヴァルハインへ走った。


 バルドが後ろへ下がり、黒礼服の男たちに指示を飛ばす。


「灯具を壊せ! 無認可灯火設備を排除しろ!」


 黒礼服の男たちが動く。


 だが、セラはその前に割り込んだ。


「ここから先は通さない」


「小娘が!」


 一人が黒燭を掲げる。


 黒い火が刃の形になり、セラへ伸びた。


 セラはそれを真正面から受けない。


 身体を低く沈め、石の影を使って回り込む。


 短剣の柄で男の手首を打つ。


 黒燭が地面に落ちた。


 その瞬間、俺はランタンの光を飛ばす。


 黒い火が消え、蝋燭にひびが入った。


「一本!」


 ミリアが記録するように叫ぶ。


 ヴァルハインの目が細くなる。


「村長代理、職人娘、月灯狐、そして追放灯火師。思ったより面倒な組み合わせだ」


「面倒で済むなら、まだ優しい方よ」


 セラが低く返した。


 その間に、俺とミリアは月守狐を縛る黒燭へ近づいた。


 月守狐は眠ったままだ。


 けれど苦しそうに呼吸している。


 巨大な体が上下するたび、黒い鎖がぎしぎしと音を立てた。


「ごめんなさい。少しだけ近づきます」


 俺は月守狐へ声をかけた。


 返事はない。


 だが、三本の尾のうち一本が、かすかに光った。


 聞こえている。


 俺は最初の黒燭の前に膝をついた。


 火を消すだけなら簡単だ。


 だが、この黒燭は鎖とつながっている。


 乱暴に消せば、月守狐の体に呪いが跳ね返る。


「ミリア」


「見えてる。黒燭の根元に、古い灯路が噛まされてる。たぶん、本来は月守狐を守るための石環。それを逆に使って縛ってる」


「起こせますか」


「起こす。父さんならそうする」


 ミリアは工具袋から、古い真鍮針を取り出した。


 地下保管庫で見つけた、父親の道具だ。


 先端に月の紋章が刻まれている。


「これ、父さんの灯路針。灯具の芯じゃなくて、灯路そのものを整える道具」


「使えるんですか」


「分からない。でも、やる」


 ミリアは黒燭の根元にある石の溝へ、そっと灯路針を差し込んだ。


 黒い火が反応し、彼女の手に絡みつこうとする。


「っ……!」


「ミリア!」


「手、出さないで! 今ずれると月守狐に返る!」


 ミリアは歯を食いしばった。


 俺はランタンの光を細く絞り、彼女の手元ではなく、灯路針の先へ落とす。


 金色の光が真鍮針を伝い、石の溝へ染み込んだ。


 黒かった溝の奥から、白い線が浮かぶ。


 古い灯路だ。


 まだ死んでいない。


「いた……!」


 ミリアの声が震える。


「生きてる。ここの灯路、生きてる!」


「起こします」


「うん!」


 俺は光をさらに細くする。


 小さな灯りを、古い灯路へ送り込む。


 すると、黒燭の火が揺らいだ。


 赤黒い火の下から、白い月明かりがにじむ。


 黒い鎖が一本、少しだけ緩んだ。


 月守狐の呼吸が楽になる。


「一本目、緩んだ!」


 ミリアが叫ぶ。


 ポルカが「ぽう!」と鳴いた。


 その声に、月守狐の耳がわずかに動く。


 ヴァルハインの顔から笑みが消えた。


「やはり、その灯りは邪魔だ」


 彼が黒蝋燭を振る。


 石の環の奥から、黒い影狼が三体生まれた。


 普通の影狼ではない。


 体の内側に黒燭の火を抱えた、赤黒い影の獣だ。


 影狼たちは一直線に、俺とミリアへ向かってくる。


「セラさん!」


「分かってる!」


 セラは一体目の前脚を弾く。


 だが残り二体が横から抜けた。


 その時、ポルカが俺の肩から飛び降りた。


「ぽううっ!」


 小さな白い体が、二体の影狼の前に立つ。


「ポルカ!」


 俺が叫ぶより早く、ポルカの尻尾が強く光った。


 白い月明かりが扇のように広がり、影狼たちの足元を照らす。


 影狼の動きが鈍った。


 だが、ポルカ一匹では止めきれない。


 そこへ、石の環の外から小さな光が飛び込んできた。


 五つ。


 いや、もっと。


 工房で休んでいたはずの月灯狐たちではない。


 月守狐の周囲に残っていた、消えかけの光。


 古い月灯狐たちの灯りの名残だ。


 ポルカの呼び声に応えるように、それらが白い粒となって集まる。


 影狼たちの足元に、月明かりの輪ができた。


 影狼が吠える。


 その隙に、セラが二体目を叩き、ミリアが反射板で三体目の黒い火を弾く。


「ポルカ、無茶しない!」


「ぽう!」


 得意げな返事だった。


 している。


 絶対に無茶している。


 だが、今は助けられている。


「ルカ、二本目!」


「はい!」


 俺たちは次の黒燭へ移る。


 同じ手順では間に合わない。


 夜明けが近づいている。


 黒燭が王都へ月守狐の力を送っているなら、一本ずつ丁寧に解除している時間は少ない。


 俺は石の環全体を見た。


 黒燭は十二本。


 外周に八本。


 内側に四本。


 外周を緩めれば、内側の鎖に光が届くかもしれない。


「ミリア。外周の灯路を一気につなげますか」


「危険。黒蝋が逆流するかも」


「でも、時間がありません」


「……分かってる」


 ミリアは父親の手帳を開いた。


 月守狐のページ。


 そこに描かれていた石環の図が、今目の前の石環と重なる。


「外周灯路は円じゃない。螺旋になってる。入口は東側、出口は月守狐の尾の下」


「つまり?」


「一番古い灯りは、尾の下にある。そこを起こせば、外周の黒燭をまとめて弱められるかも」


「行きましょう」


「でも、月守狐の体のすぐそばだよ。黒い鎖が一番濃い」


「ポルカ」


「ぽう?」


「月守狐に、近づいてもいいか聞けますか」


 ポルカは少し驚いたように首を傾げた。


 それから月守狐の顔の方へ歩き、鼻先を近づける。


「ぽう……」


 小さな声。


 月守狐の閉じた瞼が、わずかに震えた。


 三本の尾のうち、左の尾が少しだけ持ち上がる。


 その下に、古い石の台座が見えた。


 月の紋章が刻まれている。


「許可、出たっぽい」


 ミリアが息を呑む。


「行きます」


 俺たちは月守狐の尾の下へ走った。


 黒い鎖が頭上で軋む。


 ヴァルハインが怒号を上げる。


「そこへ近づけるな!」


 黒礼服の男たちが動く。


 だが、セラが止める。


 完全には止めきれない。


 それでも、一瞬ずつ時間を稼いでくれる。


 俺とミリアは石の台座の前に膝をついた。


 そこには、黒蝋が厚く塗り込められていた。


 だが、その下に白い光が眠っている。


「父さん……」


 ミリアが灯路針を握る。


「見てて」


 彼女は黒蝋の隙間へ針を差し込んだ。


 俺はランタンを近づける。


 リオのランプも置く。


 小さな帰り灯が、石の月紋を照らした。


 その瞬間、台座が震えた。


 白い光が、黒蝋の下から溢れ出す。


 同時に、ミリアの父の手帳が勝手に開いた。


 ページから、文字が浮かぶ。


『灯りは奪うものではない。

 分け合い、結び、帰る場所を示すもの。

 月守の灯路を起こすには、村の灯りを束ねよ』


「村の灯り……」


 俺は結灯環を見た。


 手首の真鍮が強く光っている。


 村の灯りは、まだつながっている。


 北門の向こう。


 宿。


 井戸。


 工房。


 窓辺。


 ニナの安眠灯。


 リオのいない食堂で灯る守りの火。


 全部が、細い線でここまで届いている。


 俺は深く息を吸った。


「皆さんの灯りを、もう少し借ります」


 遠く離れた村へ届くはずのない声。


 けれど、返事のように結灯環が温かくなった。


 ミリアが笑う。


「聞こえてるよ、きっと」


「はい」


 俺はランタンを台座へ向けた。


「【小さな灯】」


 今回は、一つの灯りではない。


 村の灯りを束ねる。


 けれど、大きな一つの光にするのではない。


 小さな灯りを小さなまま、細い糸で結ぶ。


 宿の灯りは宿の灯り。


 井戸灯は井戸灯。


 安眠灯は安眠灯。


 手灯は手灯。


 それぞれの役目を失わせずに、月守狐へ届ける。


 台座の月紋が、白く輝いた。


 石の環全体に、光が走る。


 外周の黒燭が一斉に揺れた。


「何をした!」


 ヴァルハインが叫ぶ。


「灯路を起こしただけです」


 俺は答えた。


 黒燭の火が、次々と小さくなる。


 黒い鎖が緩む。


 月守狐の体から、黒い染みが少しずつ剥がれていく。


 ポルカが高く鳴いた。


「ぽうううっ!」


 月守狐の瞼が開いた。


 巨大な銀色の瞳。


 その目が、俺たちを見た。


 声はなかった。


 だが、頭の中に灯りの震えが届く。


『小さな灯の子。

 月灯の子。

 職人の子。

 村を結ぶ者たちよ』


 月守狐の三本の尾が、ゆっくりと持ち上がる。


 外周の黒燭が砕けた。


 黒い火が消える。


 月明かりが石の環に降り注ぐ。


 バルドが後退した。


「まずい……商品価値が」


 セラがその言葉に反応し、鋭く睨む。


「まだそんなことを言うの」


「黒燭計画が……!」


 バルドは懐から黒い札を取り出し、石の外へ走ろうとした。


 だが、セラがその前に立つ。


「逃がさない」


「どきなさい!」


 バルドが黒燭を投げる。


 セラは短剣で弾き、踏み込んだ。


 柄で腹を打つ。


 バルドは息を詰まらせ、その場に崩れ落ちた。


 しかし、ヴァルハインは違った。


 彼は砕けた黒燭の破片を拾い集め、細長い黒蝋燭へ吸わせていた。


「十分だ」


 ヴァルハインが低く笑う。


「完全な月守の毛は得られなかった。だが、黒に触れた月守の灯は回収した」


「何を」


 俺が振り向くと、彼の黒蝋燭の中に、白銀と黒が混ざった火が宿っていた。


 月守狐の力の一部。


 黒燭に汚された光。


「王都には、これで足りる」


「待て!」


 セラが走る。


 だが、ヴァルハインは黒い火に包まれた。


「大聖灯は、もう黒を待っている。お前たちが村で小さな灯りを束ねている間に、王都では大きな灯りが人々の信仰ごと黒へ傾く」


 彼は俺を見た。


「急ぐことだ、ルカ・エルネスト。追放されたお前の言葉を、王都が聞くならな」


 黒い火が弾けた。


 ヴァルハインの姿が消える。


 あとには、焦げた黒蝋の跡だけが残った。


 逃げられた。


 だが、今は追えない。


 月守狐の鎖は、まだ完全には解けていない。


「ルカ!」


 ミリアが叫ぶ。


「内側の四本!」


「はい!」


 俺は台座へ光を送り続ける。


 月守狐も尾を動かし、自らの光で内側の鎖を押し返す。


 ポルカが跳ねるように走り、白い光を継ぐ。


 ミリアが黒蝋の結び目を外す。


 セラが残った黒礼服の男たちを押さえ、バルドを縛る。


 最後の黒燭が、ぱきん、と音を立てて割れた。


 黒い鎖が崩れる。


 月守狐の体から、白銀の光がふわりと広がった。


 黒森の木々が揺れる。


 夜霧が薄れる。


 遠くで、影狼の遠吠えが後退していく。


 月守狐が、ゆっくりと立ち上がった。


 巨大な白銀の体。


 三本の尾。


 その尾の先に、静かな月がともる。


 美しかった。


 強いのに、優しい。


 圧倒的なのに、誰も傷つけようとしない光。


 これが、黒燭商会が奪おうとした灯り。


 この森が、本来持っていた守り手。


 月守狐は俺たちの前に頭を下げた。


『礼を』


 胸の奥に声が響く。


『だが、夜はまだ終わらぬ』


 月守狐の視線が、遠く王都の方角へ向く。


『大聖灯に黒き芯が入った。

 夜明けとともに、王都は黒い昼を迎える』


 黒い昼。


 夢で聞いた言葉に近い。


 王都は夜を昼と呼ぶようになる。


 その意味が、少しだけ分かった気がした。


 黒燭が大聖灯に入れば、人々はそれを光だと思う。


 黒いものを、救いだと思い込む。


 灯りを信じる心そのものが、ゆっくり食われる。


「止める方法はありますか」


 俺は尋ねた。


 月守狐は静かに俺を見た。


『ある』


「教えてください」


『村の灯火網を、王都へ届けよ』


「村の灯りを?」


『大きな光は、黒に染まりやすい。

 小さな灯りの網だけが、黒き芯をほどく』


 月守狐の三本の尾が、俺のランタンへ触れた。


 白銀の光が、ほんの少しランタンに宿る。


 重くはない。


 温かい。


 月送りの灯に似た、静かな光。


『これは道を開く灯。

 王都へ向かうなら、夜は汝を阻む。

 だが、帰る場所を忘れぬ限り、灯りは消えぬ』


 ミリアが息を呑んだ。


「王都へ……行くの?」


 セラも俺を見る。


 俺はランタンを握った。


 王都。


 俺を追放した場所。


 俺の言葉を聞かなかった場所。


 でも、そこにはまだたくさんの人が暮らしている。


 小さな灯りを必要としている人たちがいる。


 そして、大聖灯の黒い染みを見たのは、俺だ。


「行きます」


 俺は言った。


「ただし、一人では行きません」


 セラが当然のように頷く。


「村長代理として同行するわ。黒燭商会の件を王都に訴える必要がある」


 ミリアも工具袋を担ぎ直した。


「あたしも行く。王都の灯具が黒くなってるなら、職人が必要でしょ」


 ポルカが肩に飛び乗る。


「ぽう!」


「ポルカもですね」


「ぽう!」


 月守狐は静かに目を細めた。


 その時、東の空がわずかに白み始めた。


 夜明けだ。


 だが、王都の方角だけが、奇妙に黒く霞んでいる。


 まるで、朝の光の中に夜が混ざっているようだった。


 ヴァルハインは逃げた。


 大聖灯には黒い芯が入った。


 月守狐は解放されたが、戦いはまだ終わっていない。


 俺はランタンを掲げた。


 白銀と金色の光が、夜明け前の黒森に静かにともる。


 次に照らすべき場所は、決まった。


 王都。


 俺を捨てた街。


 そして、まだ灯りを必要としている街だ。

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