第20話 夜明け前の灯火網
夜明けまでに、月守狐を解かなければならない。
その言葉は、あかり宿の食堂に重く落ちた。
外はまだ深い夜だった。
窓の向こうでは、黒森の方角がいつもより暗く沈んでいる。
ただ暗いのではない。
夜そのものが、何かを待っているような暗さだった。
宿の食堂灯が、ふっと揺れる。
ニナの安眠灯も、小さく震えた。
工房から運ばれてきたミリアの父の手帳には、月守狐の絵が淡く光り続けている。
『月守の眠り、破られん。
黒燭、王都大聖灯へ送られる。
夜明けまでに月守を解かねば、灯路は黒へ傾く』
何度読んでも、胸の奥が冷えた。
王都の大聖灯。
俺が追放される日に見た、あの黒い染み。
あれは偶然でも、疲労による見間違いでもなかった。
黒燭商会は、この村の灯りを奪うだけでは終わらない。
黒森の奥に眠る月守狐を利用し、王都の大聖灯まで黒く染めようとしている。
「行くしかないわね」
セラが言った。
短剣を腰に差し、外套の留め具を締める。
その動きに迷いはない。
だが、ロッテさんが心配そうに声をかけた。
「セラ。村の守りは?」
「残すわ」
セラは宿の窓から、広場の方を見た。
「北門、井戸、工房、宿。全部の灯りをつないで防衛線にする。村人たちは外に出ない。灯りを消さずに、窓辺へ置く」
「黒燭商会が来たら?」
「門を開けない。灯りの内側で待つ。黒燭を近づけない」
セラの声は落ち着いていた。
昨日までなら、村を離れること自体を拒んでいたかもしれない。
けれど今の村には、守る灯りがある。
そして、それを守ろうとする人たちがいる。
「ガルム爺に北門を任せるわ。ロッテさんは宿を。水汲みの皆には井戸灯を。工房は……」
「あたしが行くから、留守は父さんの芯灯と月灯狐たちに任せる」
ミリアが工具袋を肩にかけながら言った。
「それで大丈夫なんですか?」
俺が聞くと、ミリアは胸を張った。
「月灯工房を舐めないで。地下芯灯は今、この村で一番古い灯りだよ。あの子が起きてる限り、工房の灯りはそう簡単に落ちない」
「そうですか」
「あと、月灯狐たちもいる」
工房で休んでいる五匹の月灯狐たち。
まだ弱っているが、ポルカと村の灯りに守られ、少しずつ光を取り戻している。
彼らの小さな尻尾の光も、工房の灯火網を支えてくれているはずだ。
ポルカは俺の肩の上で、やる気満々に尻尾を立てていた。
「ぽう!」
「ポルカは行く気ですね」
「ぽう!」
「ただし、無理はしない」
「ぽう?」
「分かっていない顔をしないでください」
ミリアが横で笑った。
「ルカ、ポルカにだけちょっと厳しくなってきたね」
「放っておくとすぐ無茶をしますから」
「誰かに似てる」
「誰でしょう」
「自覚なし」
そのやり取りに、宿の空気が少しだけ和らいだ。
だが、時間はない。
リオが食堂の奥から起き上がった。
まだ顔色は悪い。
足も痛むはずだ。
それでも、彼は自分の小さなランプを抱えて立とうとした。
「ぼくも行く」
「だめです」
俺より先に、セラが言った。
リオは悔しそうに唇を噛む。
「でも、道を知ってる。月守狐の場所、ぼくが」
「昨日の小屋までは分かる。でも、眠り場までは手帳が示している」
セラはリオの前にしゃがんだ。
「あなたはもう十分助けてくれた。今度は、ここで灯りを守って」
「でも……」
「リオのランプを貸してほしい」
俺が言うと、リオは顔を上げた。
「ランプ?」
「はい。あなたのランプは、黒森の中でも帰る道を覚えています。俺たちが月守狐のところへ行って戻るために、どうしても必要です」
リオは両手でランプを抱きしめた。
母親の形見。
黒燭商会の小屋でも、彼が手放さなかった灯り。
それを貸してほしいと言うのは、残酷かもしれない。
だが、リオはしばらく黙ったあと、ゆっくりと差し出した。
「返して」
「必ず」
「約束?」
「約束です」
俺は両手でランプを受け取った。
小さな灯りが、俺の掌の中で静かに揺れる。
ニナも安眠灯を抱えたまま近づいてきた。
「わたしの灯りも?」
「ニナの安眠灯は、ここで子どもたちを守ってください」
「そっか」
ニナは眠っているミナたちを見た。
そして、少しだけ大人びた顔で頷いた。
「わかった。ここ守る」
「お願いします」
「うん。ルカ兄ちゃんも、ちゃんと帰ってきて」
「はい」
今度は、胸が熱くなった。
行ってくるではなく、帰ってくる。
その言葉があるだけで、夜の重さが少し変わる。
◇
出発の準備は、村全体で進んだ。
ガルム爺は北門に立ち、古い手灯を掲げた。
「門は任せろ。誰も通さん」
「無理はしないでください」
「年寄りは頑固なんじゃ」
「知っています」
俺が言うと、ガルム爺は少し笑った。
水汲みの女たちは井戸灯の周りに集まり、桶を並べて簡易の水場を作っていた。
何かあれば、黒蝋を冷やし、燃え広がる前に隔離するためだ。
ロッテさんは宿の食堂灯を少し強め、子どもたちと月灯狐たちのために温かい布を用意した。
ドルトンさんも、震えながらではあるが手伝っていた。
「私は商人です。戦えません。でも、荷物運びくらいなら」
「助かります」
彼は黒燭商会に利用された被害者だ。
けれど今、彼もこの村の灯りの内側にいる。
そして、自分にできることをしようとしている。
ミリアは広場に、携帯灯路用の灯具を七つ並べた。
前回よりも多い。
しかも、どれも少しずつ改良されている。
「今回は戻るだけじゃない。奥へ行って、月守狐を解いて、戻ってくる。だから灯りの線を二重にする」
「二重?」
「行き道と帰り道。黒燭に片方を食われても、もう片方が残るようにする」
ミリアは細い銅線を指先で弾いた。
「あと、これはルカ用」
渡されたのは、小さな腕輪のような灯具だった。
真鍮の輪に、細い硝子片と透明魔石の欠片がはめ込まれている。
「これは?」
「結灯環。仮の名前だけど」
「けっとうかん」
「ルカのランタンだけに負担が集中しないように、村の灯りを少し受けて分散する。強い火力は出ないけど、灯りの線を結ぶのに使える」
俺は腕輪を手に取り、思わず見入った。
緊急の中で作ったとは思えないほど、丁寧な仕事だった。
「すごいですね」
「まだ試作品。褒めるのは帰ってきてから」
「では、帰ってきてから改めて褒めます」
「……そういう言い方ずるい」
ミリアは耳を赤くしながら、俺の手首に結灯環をつけた。
その瞬間、広場灯柱の光がほんの少し腕輪に流れ込んだ。
熱くはない。
温かい。
村の灯りが、手首に宿ったような感覚だった。
「これなら、森の奥でも灯りの線を保ちやすいはず」
「ありがとうございます」
「絶対壊さないでよ」
「努力します」
「そこは壊さないって言うところ!」
セラが横で小さく笑った。
「準備はいい?」
「はい」
「行くのは、私、ルカ、ミリア、ポルカ。村の防衛はガルム爺、ロッテさん、水汲み組、ドルトンさん。子どもたちは宿の中。リオのランプはルカが持つ」
セラは広場に集まった村人たちを見た。
「この村の灯りは、皆で守る。誰か一人が消えれば終わる灯りじゃない。小さくても、全部がつながっている」
村人たちが頷いた。
窓辺の灯りが、一つずつ強くなる。
家の油灯。
宿の食堂灯。
井戸灯。
北門守護灯。
工房地下芯灯。
ニナの安眠灯。
リオのランプ。
それらが、足元の灯路を通じて淡くつながっていく。
俺はランタンを掲げた。
「皆さんの灯りを、少し借ります」
誰かが言った。
「持っていけ」
別の誰かが続く。
「必ず返しに来いよ」
「月守狐を助けてくれ」
「王都なんか知らん。でも、この村の灯りは守ってくれ」
声はばらばらだった。
けれど、全部同じ場所へ向かっていた。
俺は深く頷いた。
「必ず帰ります」
その言葉に、村の灯りが一斉に揺れた。
◇
黒森へ入ると、すぐに空気が変わった。
昨日よりも夜霧が濃い。
黒燭商会が仕掛けた黒蝋の匂いが、森全体に漂っている。
だが、今回は前と違う。
北門から伸びる灯りの線が、俺たちの背後にある。
ミリアの携帯灯路が足元を照らす。
リオのランプが、進むべき方向を淡く示す。
ポルカが黒蝋の罠を見つけ、尻尾で知らせる。
セラが先頭で、枝や罠を避けながら道を切り開く。
俺はランタンと結灯環で、灯りの線を結び直し続けた。
「右、黒蝋」
セラが低く言う。
「ポルカ」
「ぽう」
ポルカが尻尾を振り、黒い線を浮かび上がらせる。
ミリアが携帯灯を置き、俺が光を入れる。
黒蝋の線が退く。
進む。
その繰り返しだった。
派手な戦いではない。
だが、一歩ずつ確実に、森の奥へ道を作っている。
「ルカ、腕輪どう?」
ミリアが小声で聞いた。
「助かっています。ランタンだけの時より、灯りの戻りが早い」
「よし。帰ったら改良する」
「もう改良の話ですか」
「職人は完成した瞬間に次の欠点が見えるの」
その声には疲れがある。
それでも、ミリアは前を見ていた。
黒森の奥。
昨日、子どもたちを助けた隠し小屋が見えてくる。
だが、小屋は半壊していた。
黒燭商会の荷はほとんど運び出され、檻も空だ。
床には黒蝋の跡が残っている。
そして、小屋の奥に続く道が、はっきりと開いていた。
昨日は見えなかった道だ。
黒い木々の間に、石畳が伸びている。
古い。
苔むしている。
だが、俺のランタンに反応して、ところどころ白い線が浮かび上がった。
「これが、月守の眠り場への道」
セラが呟く。
ポルカはその道の前で、尻尾を低くした。
「ぽう……」
怖がっている。
それでも、進もうとしている。
俺はポルカの頭を撫でた。
「一緒に行きましょう」
「ぽう」
石畳の道へ足を踏み入れた瞬間、周囲の音が消えた。
風の音も。
虫の声も。
遠くの影狼の唸りも。
すべてが分厚い布で覆われたように遠ざかる。
その代わりに、低い鼓動のような音が聞こえた。
どくん。
どくん。
灯りの鼓動。
いや、黒燭の鼓動かもしれない。
進むほど、手首の結灯環が熱を帯びる。
村の灯りが、何か巨大な闇に引かれている。
「ルカ?」
ミリアが気づいた。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない時もそれ言うでしょ」
「今回は、まだ大丈夫です」
「まだって何」
「進めます」
セラが振り返った。
「無理なら言って」
「はい」
嘘ではない。
苦しいが、進める。
なぜなら、背後に村の灯りがあるから。
俺一人の灯りなら、ここで押し潰されていたかもしれない。
だが今、手首にはミリアの結灯環があり、ランタンには村人たちの火種があり、リオのランプが帰り道を覚えている。
進める。
まだ。
石畳の先に、開けた場所が見えた。
古い石の環。
木々に囲まれた円形の広場。
中央には、巨大な白銀の狐が横たわっていた。
夢で見た通りだった。
三本の尾。
月のような光。
だが、その体には黒い鎖が巻きついている。
鎖の先には、何十本もの黒燭。
それらは赤黒く燃え、月守狐の光を少しずつ吸い上げていた。
白銀の毛の一部は黒く染まり、尾の光も弱っている。
胸が締めつけられた。
「月守狐……」
ミリアが震える声で呟く。
ポルカは一歩前に出て、悲しそうに鳴いた。
「ぽう……」
その声に、月守狐の耳がわずかに動いた。
まだ生きている。
まだ、間に合う。
だが、石の環の向こうに人影があった。
黒い布で顔を覆った灯術師。
ヴァルハイン。
そして、その隣に、黒い礼服の男。
バルドだ。
さらに奥には、黒い箱が置かれていた。
王都へ送るための輸送箱だろう。
箱の表面には、王都聖灯局の認可印が刻まれている。
ヴァルハインがこちらに気づき、ゆっくり振り返った。
「来たか」
その声は、待っていた者の声だった。
バルドは薄く笑う。
「困りますね、ルカ・エルネスト。あなたは追放された身でありながら、王都聖灯局の正式事業を妨害している」
「正式事業?」
セラが怒りを押し殺した声で言う。
「月守狐を縛り、子どもをさらい、月灯狐の毛を奪うことが?」
「辺境夜霧対策のための研究です」
バルドは平然と答えた。
「多少の犠牲は必要です」
ミリアが工具袋を握りしめた。
「ふざけんな」
その声は低かった。
今まで聞いた中で、一番怒っていた。
「父さんは、この子を助けようとしてたんだ。あんたたちは、それを利用したの?」
バルドは首を傾げる。
「父さん?」
「月灯工房の職人。昔ここへ来たはず」
「ああ」
ヴァルハインが小さく笑った。
「いたな。黒蝋に逆らった愚かな職人が」
ミリアの顔から血の気が引く。
「父さんは……」
「死んだか、森に食われたか。興味はない」
次の瞬間、セラがミリアの前に出た。
ミリアが飛び出しかけたのを、止めるように。
「今は挑発に乗らない」
「でも!」
「助ける相手は目の前にいる」
セラの声で、ミリアは唇を噛み、踏みとどまった。
俺は月守狐を見た。
黒い鎖。
黒燭。
石の環。
それらは複雑につながっている。
無理に壊せば、月守狐に呪いが跳ね返る。
子どもたちの檻と同じだ。
だが、規模が違う。
「ミリア」
「分かってる」
彼女は涙を堪えながら、目を細めた。
「鎖を直接切ったらだめ。黒燭を一本ずつ無力化して、鎖の光を弱める。石の環に古い灯路が残ってるなら、そこを起こす」
「セラさん」
「ヴァルハインとバルドを止める」
「お願いします」
ポルカが肩の上で鳴いた。
「ぽう」
「ポルカは、月守狐の光を支えてください」
「ぽう!」
リオのランプが、俺の手元で強く揺れた。
帰る灯り。
その光が、石の環の足元に眠る古い灯路を照らす。
白い線が、かすかに浮かび上がった。
月守狐の眠り場そのものが、まだ完全には死んでいない。
ならば、やれる。
ヴァルハインが黒蝋燭を掲げた。
「始めようか、小さな灯」
赤黒い火が、石の環を囲む黒燭へ広がる。
月守狐が苦しそうに身じろぎした。
俺はランタンを掲げる。
背後には村の灯り。
隣には仲間。
目の前には、奪われかけた白銀の守り手。
「始めましょう」
俺は静かに言った。
「この森の灯りを、返してもらいます」
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