第7話:もう一人の自分


「観測者だ」


その言葉が落ちた瞬間、榊 恒一はドアノブから手を離せなかった。


観測者。


ただの一言なのに、意味だけが異常に重い。


まるで“それ以上知るな”と直接頭に押し込まれているような感覚だった。


ドアの向こうには誰かがいる。


だが、開けていいのか分からない。


開けた瞬間、戻れなくなる気がした。


——コン。


もう一度、ノック。


今度ははっきりしていた。


榊は意を決して、ドアを開けた。


廊下。


誰もいない。


「……は?」


思わず声が漏れる。


左右を見ても、人の気配はない。


ただ、エレベーターのランプだけがゆっくり点滅している。


榊は一歩廊下に出る。


冷たい空気。


その瞬間——


背後で、スマホが鳴った。


榊は振り返る。


部屋の中の机の上。


スマホの画面が勝手に点灯している。


そこに映っていたのは通知ではなかった。


カメラアプリ。


しかも“インカメラ”が起動している。


そして、その画面に——


自分の顔ではない“自分の顔”が映っていた。


榊は一瞬固まる。


「……は?」


画面の中の“榊”は、こちらを見ている。


だが、その表情は微妙に違う。


目の焦点が少しズレている。


口角の上がり方が違う。


まるで、同じ素材で作られた別の人物。


その“もう一人の榊”が、ゆっくり口を動かした。


音は出ていない。


だが、言葉は読めた。


——まだ“補正されてないのか”


榊は息を飲む。


スマホを手に取ろうとした瞬間、画面が一瞬だけ乱れる。


ノイズ。


そして次の瞬間、画面は通常のロック画面に戻った。


「……今の、何だよ」


心臓が速い。


部屋に戻る。


ドアを閉める手が少し震えている。


スマホを再び開く。


履歴なし。


アプリ起動履歴にも何もない。


カメラも開いていない。


「見間違い……じゃないよな」


そのとき、鏡が視界に入った。


榊はゆっくりと振り向く。


洗面所の鏡。


そこに映っている自分は、いつも通りだ。


疲れた顔。


少し乱れた髪。


だが——


一瞬だけ、違和感が走る。


鏡の中の自分が、ほんのわずかに遅れて動いた。


榊が眉を動かす。


鏡の中の“榊”は、その動きを0.2秒遅れて再現する。


「……おい」


声を出した瞬間、鏡の中の自分は口を動かさない。


いや、正確には——


“別のことを喋っているような口の動き”だった。


榊は後ずさる。


鏡の中の自分が、ゆっくりと口を開く。


今度ははっきりと読める。


——お前はまだ“元の榊”だな


榊は息を止める。


「誰だ……お前」


鏡の中の自分は、少しだけ笑った。


そして次の瞬間、鏡の像が乱れる。


水面のように揺れ、別の映像が重なる。


会議室。


消えたコンビニ。


公園。


そして、高橋。


さらに——“もう一人の榊”。


映像が重なり合いながら、ゆっくりと一つの顔に収束していく。


その顔は、榊自身だった。


しかし、確実に違う。


「お前は……俺じゃない」


榊の声に、鏡の中の存在が答える。


——俺も“榊 恒一”だ


——ただし、補正前のな


その言葉と同時に、スマホが震える。


《同期要求》


《拒否不可》


榊はスマホを握りしめる。


「同期……?」


鏡の中の榊が続ける。


——始まるぞ


——“統合”が


その瞬間、部屋の照明が一瞬だけ暗くなった。


そして、榊は気づく。


壁の時計が、わずかに“戻っている”。


時間が逆行しているのではない。


世界が——再編集を始めている。


榊はスマホを見たまま、動けなかった。


《同期開始まで:00:03》


残り3秒。


鏡の中の自分は、静かにこちらを見ている。


まるで、これから起きることをすべて知っているように。


そして最後に、一言だけ口を動かした。


——やっと“本体”が来る


カウントが、0に近づいていく。

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『昨日の記憶と今日の記憶が微妙に違う理由』 黒宮 ノア @iitian

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