第4話 社長室
十月一日、彼女は正式に社長室へと移った。
社長室は七階の最奥にあり、廊下の突き当たりには専用のキー・カードが必要な防火扉がある。その扉の向こうにはさらに細い廊下が続き、両側に一部屋ずつ並んでいる。右側が社長室――牧原が使うオフィス。左側には十畳ほどの小部屋があり、机と椅子、パソコン、内線電話が一台ずつ置かれている。そこが彼女の席だった。
社長室で彼女と共に働くのはもう一人――田中という名の中年男性秘書で、四十五歳前後、黒縁眼鏡をかけ、髪はきちんと整えられている。声は大きくないが、一言一言がはっきりしている。二十年商社で秘書を務め、社内のあらゆる事情を見てきた、何を言うべきか、何を言わぬべきかを心得たプロフェッショナルだ。彼は新しいメンバーに対して特に好奇心を示すこともなく、事務的に業務の流れ――メールの分類、来訪者の記録、会議資料の整理――を説明し、タイムテーブルを手渡した。
「来月の社長のスケジュールを、エクセルに入力してくれ。間違えないように。」
その指示は新人でもできる内容だった。しかし「間違えないように」と言ったとき、彼の視線が一瞬だけ彼女の顔に止まった――それは単なる日程表の話ではない、という無言の伝達だった。
初日の三時間で、彼女は社長室の空気を理解した。すべてが静かに進む。電話のベルは最小音量、足音はカーペットに吸い込まれ、引き出しの開閉も滑らかに調整されている。この廊下で大声を出す者はいない。この静けさは平穏ではなく、意図的に維持された、あらゆる偶発を排除する精密な沈黙だった。
牧原は毎朝九時きっかりに出社し、午後七時ごろに退社する。誰とも昼食を共にせず、社内の雑談にも加わらず、他部署の執務エリアに姿を見せることもない。昼休みはオフィスで一人、ドアを開けたままソファに座り本を読んでいる。彼女がその開かれたドアの前を通ると、時折、彼の手にある本のタイトルが目に入る――経営書ではなく、哲学書だった。ある時はハイデガーを読んでいた。
ハイデガーを読む商社の常務取締役。彼女はその情報を心の中に記録した。
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着任四日目、牧原から初めての単独業務を任された。
それはごく普通の木曜の午後だった。内線が鳴り、彼女が受話器を取ると、彼の声がした。
「資料室に行って、三年前の九州支社の監査報告を取ってきてくれ。ファイル番号は田中が知ってる。」
「かしこまりました」と答え、電話を切り、田中にファイル番号を尋ねた。田中は引き出しから古びた索引帳を取り出し、しばらく調べてから数字の列を告げた。彼女はそれを書き留め、エレベーターで地下二階の資料室へ向かった。六列の鉄製ラックを抜け、最奥でそのファイルを見つけた。
A4サイズの灰色のファイルで、厚さは三センチほど。背表紙には分類ラベルが貼られている。彼女がファイルを引き抜いたとき、指先がラベルの端に何か異質なものを感じた――糊の残りでも紙のささくれでもない。ファイルの背表紙の内側、ラベルの下に、極薄でほとんど感触のない異物が貼り付けられていた。彼女はそれを引き抜いた。
それは小さな鍵だった。小型の引き出しやスーツケース用の予備鍵のような、ごく小さなもの。保存状態は良く、錆もない。彼女は爪でその鍵をつまみ、光にかざしてみた――番号も用途も刻まれていない。彼女はそれを掌に握り、ファイルを閉じて七階へ戻った。
ファイルを牧原の机に置いた。
「お待たせしました、九州支社の監査報告です。」
彼はすぐにファイルを開かず、彼女の顔を見ていた――彼女が「それ以外」のことを言うかどうかを見ているのだった。彼女も彼を見返し、来た時と同じ表情を保った。
彼はファイルを手に取り、開いた。彼が鍵の存在に気づくことはない――鍵はファイルの中に挟まれていたのではなく、背表紙の内部、ラベルの下に隠されていた。ファイルを分解しない限り見つかるはずがない。しかし彼は、彼女がそれを知ったことを知っている。彼の視線は、ファイルを置いた彼女の手に半秒ほど止まった――彼女は左手でファイルを渡した。右手の掌には、あの鍵が握られていたからだ。
彼女は鍵を渡さなかった。
彼も何も問わなかった。
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その夜、退社後に板橋区のアパートへ戻り、ドアを閉め、カーテンを引き、あの鍵を机の上に置いた。彼女は長い間それを見つめていた。
この鍵は誰が、いつ仕込んだのか。三年前の監査報告に、なぜ鍵が隠されていたのか。牧原はその存在を知っていた――彼女にその報告書を取りに行かせたのは、彼女に鍵を発見させるためだった。しかし、彼女がそれを見つけるかどうか、彼に分かるはずもない。もし「そのファイルを取ってきて、中に鍵がある」と言えば、それは単なる指示であり、テストではない。彼はそういうことはしない。彼が知りたかったのは、彼女が鍵を手に入れられるかどうかではなく、手に入れた後にそれを申告するかどうかだった。彼女は言わなかった。鍵を自分の掌に隠した。彼は今、それを知っている。
彼女は鍵を指先で回してみた。何の刻印も、番号もない。彼女は自分の持ち物を入れている、中古店で買った小さなファイルキャビネットの前に立ち、引き出しの鍵穴にその鍵を合わせてみた。
合わなかった。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
彼女は鍵を下着の引き出しの一番奥、畳んだ衣類の下にしまい込んだ。そして引き出しを閉め、ベッドの端に腰掛けた。
彼女は考えていた――ハイデガーを読む常務取締役が、三年の時をかけて、一つの鍵を「それを見つける手」を待たせた。そして、彼はそれを見つけて、しかし提出しない人間を得た。彼女には、彼が自分に何を求めているのか分からない。ただ、鍵を手にした瞬間、榎本と一夜を共にしたあの夜よりも強烈な「選ばれた」感覚を覚えた。あの夜は彼女が彼を選んだ。今夜は、彼が彼女を選んだ。
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週末、彼女は大阪から榎本からのメールを受け取った。短い、三行だけのものだった。
**高梨さん**
**大阪の生活にもだいぶ慣れてきました。そちらはいかがですか。**
**新しい部署の話、聞きました。応援しています。**
「会いたい」も「この前のこと」もない。ただ、彼は土曜の夜、業務時間外に送る必要のないメールを送ってきた。仕事時間外に彼女へ連絡する――その事実自体が、本文のすべてよりも重要だった。
彼女はメールを読んでもすぐには返信しなかった。そのメールは日曜いっぱい、受信箱に眠っていた。
月曜の朝、出勤前に返信した。
**榎本さん**
**お元気そうで何よりです。大阪の夏は暑いと聞きます、お体にお気をつけて。**
**新しい部署、まだ慣れませんが、少しずつやっています。**
これも三行。何も言っていないようで、彼が「少しずつやっています」を読んだとき、彼女が彼のことを言っていると分かるだろう。彼がそれを読み取れるかどうか、彼女には分からない。彼女自身、それを読み取ってほしいのかどうかも分からなかった。
送信を押し、携帯を閉じ、スーツに着替えて家を出た。社長室へ向かう途中、業務部のフロアを通りかかり、ガラス扉越しにかつて自分が座っていた席が見えた。今は新卒の男子社員が座り、パソコン画面に眉をひそめている。かつては自分だったが、それはもう過去のことだ。
七階の防火扉をカードで開ける。
廊下の突き当たりのドアは開いていた。牧原はすでに来ていて、ソファで本を読んでいる。彼女の足音に気づいても顔を上げない。彼女は自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。
右手のスラックスのポケットをそっと探る。鍵はそこにはない――持ってきていない。しかし、板橋区の六畳のアパートの下着の引き出しに、彼女の身体から約四十センチの木板を隔てて、あの鍵があることを知っている。そのことを思うと、下腹の奥に、誰かに見つめられているような微かな緊張が走る。その緊張は、不安とも期待とも言い切れないものだった。
牧原秀之が次の機会を見つけるまで、彼女はただ待つしかなかった。
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