第7話 覚悟
「とわ? どこに居んだよ、返事しろ!」
柏木が焦燥を露わにして校舎の陰を走る。ふと、曲がり角の先、コンクリートの地面に投げ出された白い手が見えた。
駆け寄ると、松井が校舎の壁にもたれかかるようにして座り込んでいた。
「お前……」
柏木は絶句した。
松井の顔は無惨だった。頬には青黒いあざができ、切れた口端からは鮮血が滴っている。制服は土埃で汚れ、荒い呼吸を繰り返していた。
「……喧嘩したのか」
松井は力なく頷き、血の混じった唾を吐き出すと、自嘲気味に笑った。
「この髪の色に、似合ってますか?」
その痛々しい冗談に、柏木は何も言わず松井の頭をそっと撫でた。
「俺がいるから。大丈夫だ」
その手の温もりが引き金になったのか、松井の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「母さん、入院することになったんです。……もう、何もかもが、全てに腹が立って」
吐き出される言葉の一つひとつに、やり場のない怒りと孤独が滲む。柏木はただ、何度も、何度も、壊れ物を扱うように少年の頭を撫で続けた。
「大丈夫。大丈夫だから」
放課後の部室。村瀬は柏木の浮かない表情を見て、静かに切り出した。
「松井くんが喧嘩してたって聞いたけど……。何か、あったの?」
「うん。まあ、いろいろな」
柏木が言葉を濁したその時、勢いよくドアが開いた。
入ってきたのは顧問の加藤だった。しかし、その表情はいつになく険しく、そして沈んでいた。
「どうしたんですか、先生。そんな顔して」
村瀬の問いに、加藤は言い淀み、苦しげに喉を鳴らした。
「……霧島いつかさんのことだが。今朝、お母さんから電話があった」
「お母さんから? 何か進展があったんですか?」
「『映画を撮る話は、やめてほしい』と言われた」
部室の空気が一瞬で凍りついた。
「どうして急に……。許可は、取れてたんですよね?」
「彼女はな……二年前、不慮の事故で亡くなったそうだ」
加藤の言葉が、重い鉄塊のように二人の肩にのしかかる。
「だから、この件はもう終わりにしよう。これ以上、遺族の心をかき乱すわけにはいかない」
加藤が去った後、柏木はその場に崩れ落ちた。膝を抱え、子供のように声を上げて泣き始める。
「……やっぱ、村瀬の言った通りだったんだ。映画なんて、始めるべきじゃなかった。俺が、俺が全部めちゃくちゃにしたんだ……」
後悔に震える柏木の背中を、村瀬は冷めた、けれどどこか温かい眼差しで見つめていた。彼女は小さくため息をつき、静かなトーンで語りかける。
「すぐにそうやって、自分の感情が前に出るところ。素直だけど、結局は人のことなんて考えてないところ。……柏木はずっと、そうやって生きてきたんでしょ?」
柏木が顔を上げる。
「だったら、今更変えなくていいんじゃない? 映画なんて、後からついてくる理由でしかないよ。私たちの最初の目的は、あのDVDを、水原さんの気持ちを、霧島さんに届けることだったはずでしょ」
「でも、亡くなったって……届ける相手がもう……いないんだよ」
「お墓でも、お仏壇でもいい。届けよう。霧島さんの家に行こう」
「そんなの……」
弱音を吐く柏木の肩を、村瀬が強く掴んだ。
「何言われても、受け止めるんだよ。それが、軽々しく他人の人生に足を突っ込んだ私たちへの『罰』でしょ。私たちは、霧島いつかさんと向き合わなきゃいけないの」
柏木は鼻をすすり、村瀬の瞳の奥にある揺るぎない覚悟を見た。
彼は大きく息を吸い込み、ぐいと涙を拭った。
「……うん、行こう」
二人は、「霧島いつか」の家へと向かうため、部室を後にした。
閑静な住宅街の一角にある霧島家は、ひっそりと静まり返っていた。通されたリビングで、柏木と村瀬は正座し、深く頭を下げた。
「すみません、突然お邪魔して……」
「いいのよ。映画の件、断ってしまってごめんなさいね」
いつかの母は、穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような瞳で二人を迎え入れた。
「いえ、こちらこそすみませんでした。私たちの浅はかな考えで、ご迷惑をおかけしてしまって」
村瀬の言葉に、母は小さく首を振った。
「久しぶりにいつかの話をされて、彼女の映画を撮るって聞いたとき……まるで、あの子がまだどこかで生きているんじゃないかって、そんな錯覚をしてしまったの。でも、やっぱり自分に嘘をつくのは良くないわね。期待させてしまって、本当にごめんなさい」
柏木と村瀬は慌てて首を振り、母の優しさに胸を締め付けられた。
「それで、今日のお話というのは?」
「……いつかさんについて、聞かせてほしいんです。彼女が、どんな子だったのかを」
柏木の真っ直ぐな問いに、母は一瞬驚いた顔をしたが、やがて慈しむように、そして切なげに記憶の糸を辿り始めた。
「いつかはね、小さい頃から全く泣かない、強い子だったの。でも……きっと心の奥では、ずっと泣いていたのよね。高校生の頃、急に学校を休みがちになって。その時ようやく気づいたの。あの子は強いんじゃなくて、ただ、必死に我慢を重ねていただけだったんだって」
母の視線が、棚に飾られたいつかの遺影に止まる。
「浪人して大学受験をして、少しずつ元気を取り戻していって……大学に通い始めた頃には、もう大丈夫だと思った。けれど……」
母の目に涙が溜まり、声が震える。
「こんなことになるなら、もっと早く、あの子の本当の気持ちに気づいてあげるべきだった。後悔してもしきれないわ」
ハンカチで涙を拭う母の姿を前に、柏木と村瀬は言葉を失った。自分たちが「映画にする」と軽々しく口にしていた彼女の人生の裏側には、これほどまでに深い愛と、癒えない傷があった。
「ごめんなさいね、しんみりさせちゃって」
「いえ……」
「あの……いつかさんから『水原』という人の名前を聞いたことはありませんか?」
柏木の言葉に、母は何かを思い出したようにハッとして、二階へと急いだ。数分後、彼女の手には一通のピンク色の封筒が握られていた。
「これ、いつかが書いたものよ。宛名に『水原純太様』って……。これって、あなたたちが言っている水原さんのことかしら?」
二人は顔を見合わせ、確信を持って頷いた。
「はい。そうです」
「いつかとその水原さんは、どういう関係だったの?」
母の問いに、柏木は一瞬言葉に詰まった。複雑に絡み合った七年前の感情を、どう説明すべきか。
「いつかさんの、大切な友人です」
村瀬が静かに、けれど力を込めて答えた。
「そう……いつかにも、友達がちゃんといたのね」
母の頬を、安堵の涙が伝った。
その時、村瀬が震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
「これ、水原さんが撮った動画です。……見ていただけますか」
柏木は隣で固唾を飲んだ。最後の、水原が絶望的な謝罪を口にしている場面は自分たちの手で消去した。この動画を見せることが正しいのか、最後を消したことが誠実なのか、今も分からない。間違いかもしれないと気づいていながら、それでも、今の母親にはこれが必要だと信じるしかなかった。
画面の中で、七年前の霧島いつかが動いている。
母は顔を歪め、声を殺して泣き崩れた。
「……その動画、送ってくれないかしら」
村瀬が頷き、データを転送する。母は何度も、何度も、画面の中の娘を見返していた。
「まさか、またあの子が動く姿を見られるなんてね……。ありがとう。本当に、ありがとう」
感謝の言葉を受けながら、柏木と村瀬の目にも、熱いものが溢れていた。映画という形ではなくても、水原の想いは、そしていつかの生きた証は、今、最も届くべき場所へと辿り着いたのだ。
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