第8話 ライバル令嬢、ミナを見下す
翌朝、ミナは鐘が鳴る少し前に目を覚ました。
東棟二〇六号室の窓には、薄い朝日が差し込んでいる。白いカーテンの向こうで、学園の庭木が風に揺れていた。王都の下町で聞いていた荷車の音や怒鳴り声はない。代わりに、遠くの校舎から、上級生たちの話し声と靴音が小さく聞こえてくる。
ミナは布団の中で、昨日のログを思い出した。
教科書を受け取る。
奨学金の説明を読む。
コレットと一緒に行動する。
AI錬金術について聞かれたら、怒らず説明する。
師匠へ手紙を書く。
「確認、良好」
足元でチャッピーが言った。
寝台の下から顔を出す子犬型のAIエージェントは、ミナにしか見えない。けれど、尻尾の動きだけで、今日も機嫌がいいことはわかった。
「おはようございます、チャッピー」
「おはよう。睡眠、十分」
「はい。師匠に勝ちました」
「睡眠管理、勝利」
ミナが小さく笑うと、向かいの寝台でコレットがむくりと起き上がった。
赤茶色の髪が、寝癖で少し跳ねている。そばかすのある丸顔はまだ眠そうだったが、目だけはしっかりミナを見ていた。
「おはよう、ミナ。今の、チャッピー?」
「はい。朝の確認です」
「朝から確認するんだ」
「忘れると困ります」
「それは、まあ、困るけど」
コレットは寝台から足を下ろし、制服の上着を手に取った。
昨日より、少しだけ普通に話してくれる。ミナはそれがうれしくて、ログ帳に書きたいと思った。
友人候補、会話継続。
そう書いたら、チャッピーはまた「追加観測」と言うだろうか。
ミナは想像して、少し口元をゆるめた。
「何かいいことあった?」
コレットが首を傾げる。
「コレットと、今日も一緒に行動できます」
「えっ。そ、それは……うん。私も助かるけど」
コレットは照れたように視線をそらした。
◇ ◇ ◇
教科書の受け取り場所は、校舎一階の教材室だった。
ミナとコレットが廊下へ出ると、同じ制服の新入生たちが、教材室へ向かって列を作るように歩いていた。革靴の音、鞄の金具の音、誰かが家名を呼ぶ声。廊下の壁には、歴代の学園長や有名錬金術師の肖像画が並んでいる。
コレットは歩きながら、廊下の向こうをちらちら見た。
「ミナ。あの人たち、推薦入学組だと思う」
「どうしてわかるんですか」
「付き添いの従者がいるし、鞄が高そう。あと、歩き方が慣れてる」
ミナは言われた方を見た。
たしかに、何人かの生徒は新品の制服を着ているのに、校舎の中で迷っていない。後ろには控えめな従者らしき大人がいて、教科書を持つための布袋まで用意している。
「コレットは、よく見ています」
「平民はね、見ておかないとぶつかるんだよ。物理的にも、社会的にも」
「社会的にぶつかる」
「うん。偉い人の機嫌とか、触っちゃいけない話題とか」
ミナは真剣にうなずいた。
「ログに書きます」
「そこも書くんだ」
「はい。大事そうです」
コレットは困ったように笑った。
教材室の前には、長い列ができていた。入口横の机では、上級生が名簿を見ながら新入生へ教科書の束を渡している。
基礎錬金理論。
素材学入門。
古典変成術基礎。
実習安全規則。
魔力測定と保存。
手渡される本はどれも厚く、革表紙の角が硬そうだった。
ミナは一冊ずつ題名を確認し、ログ帳の小さな紙片に印をつけた。
「基礎錬金理論、受領。素材学入門、受領。古典変成術基礎、受領。実習安全規則、受領」
「ミナ、声に出てる」
「すみません」
「いや、たぶん悪くはないんだけど、目立つ」
コレットが小声で言う。
その時だった。
「ずいぶん几帳面なのね」
涼しい声が、列の横から落ちてきた。
ミナが振り向くと、淡い金髪を縦巻きに整えた少女が立っていた。制服の着こなしは乱れがなく、襟元のリボンも見本のように美しい。背筋は真っ直ぐで、手には白い手袋をしている。昨日、講堂で名乗った令嬢だ。
セレスティア・ヴァルクレイン。
名門錬金術師家の長女。
その後ろには、同じ推薦入学組らしい生徒が二人立っていた。
コレットの肩が、わずかに固くなる。
「おはようございます」
ミナは丁寧に頭を下げた。
「おはよう。あなた、昨日の自己紹介でAI錬金術師だと言っていた方ね」
「はい。ミナです」
「家名は?」
「ありません」
ミナが答えると、後ろの生徒の一人が小さく息を漏らした。
セレスティアは微笑んだままだった。
笑っているのに、目だけは冷静にミナを測っている。
「そう。一般入試の首席だと聞きましたわ」
「はい。掲示板には、そう書いてありました」
「ずいぶん他人事のように言うのね」
「まだ、少し不思議です」
ミナは正直に答えた。
コレットが隣で、こっそり息を吸う。たぶん、何かを心配している。
セレスティアは、ミナの手元の紙片へ視線を落とした。
「教科書を受け取るだけでも記録するの?」
「はい。受け取り忘れがあると困ります」
「そんなこと、普通は自分の目で見ればわかるでしょう」
「はい。なので、自分の目で見て、記録します」
ミナはうなずいた。
セレスティアの後ろで、誰かが小さく笑った。
コレットの顔が少し青くなる。
ミナは、なぜ笑われたのかわからなかった。
◇ ◇ ◇
私は、教材室の列で凍りついていた。
セレスティア・ヴァルクレイン。
その名前は、平民の私でも知っている。ヴァルクレイン家は古典錬金術の名門だ。王都の薬屋にも、あの家の名前がついた調合書や保存瓶が置かれている。高い。とても高い。うちの店では、棚の一番上に飾って、ほとんど売れない。
その令嬢が、ミナに話しかけている。
しかも、笑顔で。
笑顔なのに、怖い。
貴族の言葉は、刃物みたいに直接刺してこない。布で包んで、香水を振って、それから差し出してくる。受け取ったあとで、手が切れていることに気づく。
でも、ミナはたぶん気づいていない。
「そんなこと、普通は自分の目で見ればわかるでしょう」
これは、ただの確認ではない。
あなたは普通ではない、と言っている。
なのにミナは、
「はい。なので、自分の目で見て、記録します」
と、まっすぐ返した。
私は心の中で頭を抱えた。
違う。そうじゃない。
でも、もしかすると、そう返すしかないのかもしれない。
ミナは言葉の棘を拾わず、事実だけを拾っている。だから、セレスティアの嫌味が空中で少し迷子になった。
◇ ◇ ◇
セレスティアは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「あなた、面白い方ね」
「ありがとうございます」
「褒めたつもりではなかったのだけれど」
「そうでしたか。すみません」
ミナはもう一度、丁寧に頭を下げた。
足元でチャッピーが低く唸る。
「侮蔑、含有」
ミナは視線を落とさないまま、靴のつま先だけを少し動かした。チャッピーへ落ち着くように合図するためだ。
「今は教材室です。目的は、教科書を受け取ることです」
小さな声でそう言う。
コレットには聞こえたらしく、隣でさらに固まった。
セレスティアは首を傾げた。
「どなたとお話しになっているの?」
「チャッピーです」
「チャッピー?」
「ミナのAIエージェントです。見えないと思います」
セレスティアの後ろにいた生徒たちが、今度ははっきり笑った。
「見えないお友達ですって」
「AI錬金術師らしいわ」
コレットが一歩、前に出かけた。
ミナはそれに気づき、そっと手を横に出して止めた。
「大丈夫です」
声は小さかったが、落ち着いていた。
セレスティアは笑わなかった。
ただ、ミナの顔をじっと見ている。
「AI錬金術というものは、目的を言えば式を出してくれるのでしょう? 便利ですわね。伝統錬金術では、基礎式を何年も書き写し、素材の性質を暗記し、反応の順番を体に覚え込ませますのに」
丁寧な言葉だった。
けれど、廊下の空気が少し変わった。
周りの新入生が聞き耳を立てている。
ミナは、セレスティアの言葉を頭の中で分けた。
目的を言えば式を出す。
便利。
伝統錬金術では努力する。
つまり、AI錬金術には努力がないと思われている。
昨日のログに似た項目があった。
AI錬金術について聞かれたら、怒らず説明する。
ミナは息を吸った。
「AIエージェントは、式の案を出してくれます。でも、その前に、目的と制約を決めます。材料を確認します。危ないことを避けます。できたものも確かめます」
「それは、あなたがしているの?」
「はい。チャッピーと一緒にします」
「つまり、ひとりではできないということかしら」
セレスティアの声は柔らかかった。
でも、コレットの指が鞄の紐をぎゅっと握る。
ミナは少し考えた。
「ひとりでは、見落とすことがあります」
周りが静かになる。
「だから、手順を決めて、チャッピーに確認してもらいます。師匠は、見落としを減らすために道具と相棒を使うのは、悪いことではないと言いました」
セレスティアの後ろの生徒が、また笑いかけた。
だが、今度はセレスティアが片手で制した。
「……見落としを減らす、ね」
「はい」
「では、あなたは自分の腕を信用していないの?」
「信用しています。でも、確認もします」
ミナは教材室の机の上に置かれた教科書の束を見た。
「唐揚げも、見た目だけで火が通ったと思うと、たまに中が冷たいです」
「から……何?」
「唐揚げです。鶏肉に衣をつけて、油で揚げます。外がいい色でも、中まで火が通っているか確認します」
廊下の空気が、妙な方向に揺れた。
コレットが顔を片手で覆う。
セレスティアは、初めて完全に言葉を失ったようだった。
「あなた、いま、錬金術の話をしていたのではなくて?」
「はい。確認の話です」
ミナは真面目に答えた。
「見た目だけでは、わからないことがあります」
セレスティアは数秒、黙った。
それから、白い手袋の指先で自分の教科書を整えた。
「……覚えておきますわ。その、揚げ鶏のたとえの方を」
「はい。おいしいです」
「味の話ではありません」
「そうでしたか」
足元でチャッピーが、低く唸るのをやめた。
代わりに、少しだけ尻尾を振った。
◇ ◇ ◇
教材室を出たあと、コレットはしばらく黙っていた。
廊下の角を曲がり、人の少ない窓辺まで来てから、ようやく口を開く。
「ミナ」
「はい」
「さっきの、半分くらい喧嘩だったよ」
「そうなのですか」
「そうなの」
コレットは両手で教科書の束を抱え直した。
「セレスティア様は、あなたを見下してた。AIに任せてるだけで、自分では努力してないって思ってるんだよ」
「それは、違います」
「うん。私も、昨日の夜を見たから違うと思う」
コレットはそこで少し声を落とした。
「でも、見てない人にはわからない。あの人たちは、あなたが毎晩何をしてるか知らないから」
ミナはログ帳を開いた。
廊下の窓から入る光の下で、今日の欄に短く書く。
セレスティア。
AI錬金術を便利な補助術と思っている。
見落としを減らす説明には反応。
唐揚げのたとえは、貴族には伝わりにくい。
「最後のいる?」
コレットが覗き込んで言った。
「大事です」
「何が?」
「唐揚げで説明しても、伝わらない人がいます」
「それは、まあ、そうだね」
コレットは苦笑した。
ミナはさらに書き足す。
怒らず説明できた。
チャッピー、少し怒った。
コレット、助けようとした。
書いてから、ミナはコレットを見た。
「ありがとうございます」
「え?」
「コレットは、前に出ようとしてくれました」
「見えてたの?」
「はい」
ミナがうなずくと、コレットは耳まで赤くなった。
「あれは、その、平民同士だからっていうか、同じ部屋だからっていうか」
「はい。同じ部屋です」
「そうだけど、そうじゃなくて」
コレットは困ったように視線を泳がせた。
ミナは、その反応をどう分類するか迷った。
友人候補。
追加観測。
たぶん、少し進展。
チャッピーが足元で言った。
「友人候補、信頼上昇」
「はい」
「何が、はい?」
コレットが聞く。
「チャッピーが、コレットを信頼してよいと言っています」
「そんなことまで言うの?」
「はい」
「……チャッピー、見る目あるじゃない」
コレットは小さく笑った。
チャッピーの尻尾が、誇らしそうに揺れる。
◇ ◇ ◇
私は、ミナのログ帳を見て、少しだけ考え込んだ。
ミナは怒らない。
少なくとも、すぐには怒らない。
たぶん、悪意に気づくのが遅いからだ。昨日まではそう思っていた。でも今は、少し違う気がしている。
ミナは、言葉をすぐ感情に入れない。
いったん、事実として置く。
誰が言ったか。
何を言ったか。
自分は何を確認したか。
相手は何に反応したか。
それを、ログ帳に書く。
だから、セレスティア様の嫌味も、ミナの前ではただの悪口で止まらない。相手が何を誤解したのか、どこで反応したのか、次に何を確かめるのか。そういう記録項目に変わっていく。
もちろん、それで全部うまくいくわけではない。
貴族の世界では、正しい説明だけでは足りないことがある。相手の面子、家名、空気、派閥。そういうものを読まないと、知らないうちに踏んではいけない床を踏む。
ミナは、たぶんそこが弱い。
でも、私は思った。
この子は、学べる。
そして、学んだことを残せる。
それは、平民がこの学園で生き残るには、とても強い武器なのかもしれない。
問題は、本人がそれを武器だと思っていないことだ。
たぶんミナにとっては、師匠に教わった普通のことなのだ。
◇ ◇ ◇
その日の午前は、初回の基礎錬金理論だった。
教室は階段状になっていて、前方には大きな黒板と実演台がある。黒板の横には、簡易錬成釜、秤、魔力測定器、素材皿が並んでいた。
ミナとコレットは、真ん中より少し後ろの席に座った。
前方では、セレスティアが推薦入学組の生徒たちと静かに話している。背筋は相変わらず真っ直ぐで、教科書の置き方まで美しい。
やがて、銀髪の教授が教室へ入ってきた。
長いローブに、古い金縁眼鏡。
チョムスキー教授だった。
教室の空気が引き締まる。
「新入生諸君。基礎錬金理論を担当するチョムスキーだ」
低く、よく通る声だった。
「この授業では、錬金術を才能や家名ではなく、式、素材、手順、確認によって扱う。伝統を軽んじる者も、伝統に甘える者も、ここでは等しく失敗する」
ミナは、思わず背筋を伸ばした。
式。
素材。
手順。
確認。
師匠の言葉に少し似ている。
足元でチャッピーが小さく言った。
「重要人物」
ミナはログ帳の端に、短く書いた。
チョムスキー教授。
確認を重視。
セレスティアが、前の席からちらりと振り向いた。
ミナが何を書いているかまでは見えないはずだ。
けれど、その視線は、朝の教材室よりも少しだけ鋭かった。
ミナは気づかず、教授の言葉を聞き続けた。
「初回は、各自の錬金術への姿勢を見る。高等な式は使わない。机上の素材を見て、用途を三つ考え、危険条件を一つ書き出しなさい」
知識量だけを問う課題ではない。素材を見る順番、使い道の広げ方、そして危険を先に拾えるかを見る課題だった。
教室がざわめいた。
ミナの前に置かれた小皿には、乾いた青灰色の鉱粉が少量入っている。
コレットが小声で言った。
「これ、冷却鉱粉かな。うちの店にも少しある」
「用途三つ、危険条件一つ」
ミナは繰り返した。
チャッピーが足元で、短く息を吸うような音を立てる。
「情報、整理」
チャッピーは、急がず並べろと言うように短く告げた。
「まだ、考え始めるだけです」
ミナは鉱粉を見つめた。
朝のログ。
セレスティアの言葉。
教授の言葉。
確認。
見落としを減らすこと。
ミナは羽根ペンを持った。
そして、まず答案用紙の端に小さく書いた。
目的。
用途候補を出す。
制約。
危険条件を見落とさない。
確認。
見た目だけで判断しない。
前の席で、セレスティアがもう一度振り向いた。
今度は、ミナも気づいた。
目が合う。
セレスティアはすぐに前を向いた。
ミナは首を傾げる。
「チャッピー」
「はい」
「セレスティアさんは、ミナを見ています」
「観測。関心、上昇」
「仲良くなれますか」
「不明」
チャッピーの返事は短かった。
けれど、尻尾は警戒するように低く揺れている。
ミナは答案用紙へ視線を戻した。
仲良くなれるかは、まだわからない。
でも、確認はできる。
記録もできる。
怒らず、急がず、一つずつ。
ミナは、青灰色の鉱粉をもう一度見た。
外見だけでは、わからないことがある。
唐揚げも、錬金術も、たぶん人も。
だから、ミナは書き始めた。
危険条件は一つでいい。
それなのにミナは、三つの用途を書く前に、危険の分岐を先に並べ始めていた。
その答案が、また教室を少しざわつかせることになるとは、まだ知らないまま。
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