第7話 AI錬金術師の新入生

 正式な合格発表の日、王立錬金魔法学園の正門前は朝から人で埋まっていた。


 白い石造りの門柱には、金色の蔦模様が彫られている。門の奥には、尖った屋根の校舎がいくつも並び、窓ガラスが朝の光を細かく返していた。制服姿の上級生、荷物を抱えた新入生、付き添いの家族、家名入りの馬車。広い前庭なのに、空気だけがぎゅっと狭い。


 ミナは、革の肩掛け鞄を両手で抱えて立っていた。


 薄灰色の新しい制服は、まだ少し体に馴染んでいない。胸元のリボンを結ぶのに時間がかかったせいで、襟のあたりを何度も指で確かめてしまう。栗色の髪は、下町の仕立屋のおばさんが「学園に行くなら、ちゃんとしておきな」と言って整えてくれた。肩の下でゆるく揺れる髪を、ミナは落ち着かない手つきで撫でた。


 足元では、子犬型のチャッピーが尻尾を小さく振っている。


 もちろん、周りの人には見えていない。


「ミナ。呼吸、浅いです」


「はい。吸います」


「吐く、長め」


「ふう……」


 言われた通りに息を吐くと、胸の奥で跳ねていたものが少しだけ静かになった。


 掲示板の前に、人だかりができている。


 合格者番号。


 入寮手続き。


 クラス分け。


 そして、成績優秀者。


 ミナは人の隙間から覗き込んだ。


 二百十七番。


 自分の番号は、合格者一覧の中にあった。


「ありました」


「確認。合格」


 チャッピーが短く言った。


 ミナは胸元を押さえた。


「師匠に、報告できます」


「推奨。笑顔」


「はい」


 そこでミナは、ようやく笑った。


 けれど、その笑顔はすぐに固まった。


 成績優秀者の欄。


 学科首席、二百十七番。


 実技首席、二百十七番。


 総合首席、二百十七番。


「チャッピー」


「はい」


「二百十七番が、三つあります」


「同一番号。ミナです」


「ほぇ……」


 声が出かけて、ミナは慌てて口を押さえた。


 驚いた時の癖は、なかなか直らない。


 周囲の新入生たちがざわめいた。


「総合首席って、誰?」


「家名が書いてない」


「一般入試の番号だろ」


「でも、首席なら推薦貴族の誰かじゃないのか?」


 その声のいくつかは、ミナの耳にも届いた。


 ミナは自分の胸元を見た。家名はない。下町で暮らしていた頃から、ミナはただのミナだった。王都の大通りで名乗っても、誰かが振り向く名前ではない。


「名前、ありません」


 ミナは受験票の札を指先で押さえた。そこにあるのは番号だけで、貴族の子たちが持つ長い家名はない。


「番号制です。問題なし」


 足元のチャッピーが、短く答える。


「でも、家名がないと、わかりにくいですか」


 ミナは掲示板の文字と、自分の胸元を見比べた。


「目的。入学。識別。番号で十分」


 チャッピーは落ち着いた声で結論を出した。


 その尻尾だけは、誇らしそうに左右へ揺れていた。


   ◇ ◇ ◇


 私は、掲示板の前でその子に気づいた。


 丸顔にそばかす。赤茶色の髪を肩の上で切りそろえた私は、コレットという。平民出身で、王立錬金魔法学園に一般入試で合格した新入生だ。自分では、たぶんぎりぎりの合格だったと思っている。


 そう思うのは、別に謙遜ではない。


 掲示板で自分の番号を見つけた時、私は喜ぶより先に膝から力が抜けた。ああ、落ちていなかった。家へ帰って、父さんの薬屋を手伝う未来は少しだけ先延ばしになった。そう思って、私はようやく息をした。


 その直後に、成績優秀者の欄を見た。


 二百十七番。


 学科、実技、総合。


 三つとも同じ番号だった。


 正直、意味がわからなかった。


 学科が得意な人は実技で手が震える。実技が得意な人は、理論問題で点を落とす。私たち平民の受験生は、材料費を節約しながら練習するから、どちらも完璧にはならない。


 なのに、その番号は三つ並んでいた。


 どんな怖そうな天才かと思って、私は周りを見回した。


 すると、人だかりの端で、栗色の髪の女の子が胸元の受験票を見下ろしていた。受験票の札には、はっきりと二百十七番と書かれている。


 近くにいた受験生が「あの子じゃないか」と小声で言い、別の子が「まさか」と返した。


 新しい制服に着られているみたいで、鞄を両手で抱えている。背筋は伸びているのに、表情だけがどこか素朴だ。すごい成績を取った人には見えない。


 その子は、自分の受験票と掲示板を何度も見比べて、ぽかんとしていた。


 私は思った。


 あの子、たぶん自分が何をしたかわかっていない。


   ◇ ◇ ◇


 入学手続きは、講堂の隣にある事務棟で行われた。


 長い机の向こうに、濃紺の事務服を着た職員たちが並んでいる。羽根ペンが紙の上を走り、封筒が配られ、名前と番号が何度も読み上げられた。


 ミナは列に並び、自分の番を待った。


「二百十七番。ミナ」


「はい」


 ミナは前へ出た。


 職員の女性が、書類から顔を上げた。きっちり結った黒髪、銀縁の眼鏡、隙のない口調。机の上には、入寮許可証と教科書引換券が重ねられている。


「一般入試、総合首席。寮は東棟二階、二〇六号室です。制服は予備を一着支給。教科書は明日の午前に受け取りなさい」


「はい」


「奨学金の説明は受けていますか」


「少しだけ、です」


「学費の一部免除、実習材料費の補助、成績維持条件があります。書面を必ず読みなさい」


「はい。読みます」


「読んでわからない箇所は、寮監か事務室へ」


「はい」


 ミナは書類を受け取った。


 紙の束は思ったより厚かった。学費。寮費。実習材料費。制服規定。門限。外出届。実習室使用規則。守ることがたくさんある。


「ログ化、推奨」


 足元でチャッピーが言った。


「はい。あとで、記録します」


 ミナが小さく返すと、職員の女性が一瞬だけ眉を動かした。


「今、何か言いましたか」


「あ、すみません。確認することが多いので、あとで記録します、と」


「良い心がけです」


 職員の女性は、少しだけ表情をゆるめた。


「ただし、提出期限を忘れないように。学園では、忘れました、では通りません」


「はい。忘れないようにします」


 ミナは深く頭を下げた。


 師匠は、いつも言っていた。


 人は忘れる。


 頭が悪いからではない。覚えることが多いからだ。


 だから、記録する。


 何を言われたか。何をする必要があるか。いつまでにするか。どこを確認したか。


 それが、ログ。


 あとで見返して、失敗の原因を探せる足跡だ。


 ミナは書類の端に、小さく印をつけた。


 提出期限。


 持参物。


 確認先。


 チャッピーが満足そうに尻尾を振った。


   ◇ ◇ ◇


 東棟の女子寮は、校舎の裏手にあった。


 赤茶色の煉瓦造りで、窓枠は白く塗られている。玄関には磨かれた真鍮の呼び鈴があり、扉の上には「静粛、清潔、時間厳守」と書かれた札が掛かっていた。


 寮監は、背の高い女性だった。


 灰色の髪を後ろでまとめ、黒い長衣の上に白いエプロンを着けている。年齢は四十代くらい。細い目で新入生の荷物と靴の泥を同時に見ているような人だった。


「東棟寮監のマルタです。ここでは家名より規則を優先します。貴族も平民も、門限を破れば廊下掃除です」


 その一言で、玄関にいた新入生たちの背筋が伸びた。


 ミナも伸びた。


「二〇六号室。ミナ、コレット」


「はい」


「は、はいっ」


 ミナの隣で、そばかすのある少女が返事をした。


 赤茶色の髪を肩の上で切りそろえた、丸顔の少女だった。制服の襟元はきっちり留められ、鞄には薬草の刺繍が入った小さな布飾りがついている。


 少女はミナを見て、目を丸くした。


「もしかして、二百十七番の人?」


「はい。ミナです」


「私はコレット。薬屋の娘。えっと、同じ部屋、よろしく」


「よろしくお願いします」


 ミナが頭を下げると、コレットも慌てて頭を下げた。


 寮監のマルタが鍵を渡す。


「二人部屋です。机、寝台、衣装棚は左右で同じものを使いなさい。消灯は十時。火を使う錬成は禁止。水をこぼしたらすぐ拭くこと。妙な実験をしたら、即報告」


「はい」


「はいっ」


 ミナとコレットの声が重なった。


 二〇六号室は、廊下の奥から二番目だった。


 扉を開けると、木の床に午後の光が斜めに入っていた。左右に寝台。窓際に机が二つ。小さな本棚と衣装棚。広くはないが、清潔で、下町の裏路地にあったミナの昔の寝床とは比べものにならない。


「ここで、寝てもいいんですね」


 ミナがつぶやくと、コレットが不思議そうに振り向いた。


「寮だからね」


「はい。寮、すごいです」


「すごい、かな?」


「雨が、入ってきません」


 コレットは一瞬、返事に困った顔をした。


 それから、少しだけ声をやわらげた。


「そっか。じゃあ、窓に近い寝台と、扉に近い寝台、どっちを使いたい?」


「コレットさんが、先に選んでください」


「さんはいらないよ。同じ新入生だし」


「では、コレット」


「うん。ミナ」


 名前を呼び合うだけで、部屋の空気が少しほどけた。


 ミナは荷物を机に置いた。


 鞄の中には、師匠からもらった小さな帳面が入っている。表紙には、エイロンの字で「ログ帳」と書かれていた。


 ミナはそれを机の一番上に置いた。


 コレットがちらりと見た。


「ログ帳?」


「はい。師匠に、記録しなさいと言われています」


「師匠って、錬金術の先生?」


「はい。エイロン師匠です」


「へえ。下町の工房の人?」


「今は、たぶん地方の町へ行く準備をしています。薬を作るのが、とても上手です」


「薬かあ。うちも薬屋だから、ちょっと親近感ある」


 コレットは笑った。


 ミナも笑った。


 だが、その空気は、夕方の新入生説明会で少し変わった。


   ◇ ◇ ◇


 講堂には、新入生が学科ごとに集められていた。


 前方の壇上では、教授たちが順番に挨拶をしている。黒いローブの教師、銀糸の刺繍が入った上級生代表、そして学園長。言葉はどれも立派で、ミナには少し難しかった。


 けれど、最後に行われた自己紹介はわかりやすかった。


 一人ずつ立ち、名前、出身、得意分野を言う。


 貴族の子弟たちは、家名をはっきり言った。


「ヴァルクレイン家の長女、セレスティア・ヴァルクレインです。専門は古典変成術です」


 壇上近くの席で、金髪の令嬢が立ち上がった。


 十五、六歳ほどの少女だ。淡い金髪を縦巻きに整え、制服の上からでも育ちの良さがわかる。背筋は真っ直ぐで、声は鈴のように澄んでいた。


 周囲が小さくどよめく。


「ヴァルクレイン家だ」


「古典錬金の名門」


「推薦入学の筆頭だろ」


 セレスティアは当然のように席へ戻った。


 ミナは、すごい人なのだと思った。


 次々と自己紹介が進み、やがてミナの番になった。


 ミナは立ち上がった。


「ミナです。一般入試で入りました。得意分野は、薬と、確認です」


 少し笑いが起きた。


 確認。


 得意分野として言うには、地味だったのかもしれない。


 ミナは続けた。


「AI錬金術師です」


 笑いが、止まった。


 講堂の空気が、すっと冷える。


 それは怒鳴り声ではなかった。誰かが立ち上がったわけでもない。けれど、あたたかかった部屋で急に窓を開けられたように、周りの視線が変わった。


「AI錬金術師?」


「あの、不安定なやつ?」


「努力しなくても使える補助術だろ」


「総合首席って、本当に?」


 小さな声が、あちこちで落ちた。


 ミナは瞬きをした。


 悪口かどうか、すぐには判断できなかった。


 ただ、師匠が王都で何度も受けていた視線に似ている、と思った。


 足元で、チャッピーが低く唸った。


「不当、評価」


 ミナは小さく首を横に振った。


「まだ、何もされていません」


「発言。偏見、含有」


「でも、ミナは説明できます」


 ミナは、もう一度、前を向いた。


「AI錬金術は、お願いして終わりではありません。目的と制約を決めて、結果を確認して、失敗したら記録します。師匠は、自分で考えることをAIエージェントに手伝ってもらう術だと言っていました」


 講堂は静かになった。


 その説明が伝わったかどうかは、ミナにはわからない。


 ただ、壇上の教師の一人が、羽根ペンを止めてこちらを見ていた。


   ◇ ◇ ◇


 私は、隣の席でミナを見ていた。


 AI錬金術師。


 その言葉を聞いた時、正直、私も少し身構えた。


 薬屋の娘として育つと、AI錬金術の失敗品の話はよく耳に入る。効きすぎる眠り薬。色だけきれいな傷薬。材料を無駄に溶かしただけの液体。どれも「AIが勝手に変な式を出した」という噂つきで、店に持ち込まれる。


 だから、AI錬金術師と聞くと、私は反射的に思ってしまう。


 危ないのではないか。


 手抜きなのではないか。


 でも、ミナの声は違った。


 あの子は、自分を大きく見せようとしていなかった。


 目的と制約。


 結果の確認。


 失敗したら記録。


 言っていることは、父さんが薬を作る時にいつもやっていることと同じだった。ただ、ミナはそれをAI錬金術の中でやると言っている。


 それでも、周りの空気は冷たい。


 貴族の子たちは、名前を名乗っただけで人を納得させる。


 平民の私たちは、結果を出しても疑われる。


 ミナは、たぶんそれをまだ半分くらいしかわかっていない。


 だから私は、少しだけ心配になった。


 あの子、学園でやっていけるのかな。


 その日の夜、私はその心配が別の形に変わることになる。


   ◇ ◇ ◇


 消灯前の二〇六号室。


 コレットは寝台の上で、実家から持ってきた薬草辞典を開いていた。ミナは机に向かい、今日受け取った書類を一枚ずつ並べている。


 ログ帳の最初のページには、今日の日付が書かれていた。


 ミナは羽根ペンを持ち、声に出さない程度の小さな声で整理する。


「入寮書類。提出期限、三日後。奨学金確認、事務室。教科書、明日午前。門限、八時。消灯、十時。火を使う錬成、禁止」


「記録、良好」


 チャッピーが言った。


 ミナはうなずいた。


「ログは、足跡です。あとで見て、どこを歩いたかわかるようにします」


 コレットが顔を上げた。


「ミナ、今の、誰に言ったの?」


「チャッピーです」


「チャッピー?」


「ミナのAIエージェントです」


「え、いるの?」


「はい。ここに」


 ミナは足元を指差した。


 コレットは床を見た。


 床には何もいない。


 コレットは真顔で何度か瞬きをした。


「……ごめん。私には見えない」


「普通は見えないそうです」


「普通は見えない相手と、普通に話してるの?」


「はい」


「そっかあ」


 コレットは薬草辞典を閉じた。


 平民らしい現実的な顔で、何とか受け止めようとしている。


 ミナは少し考えてから、言った。


「見えないと、不安ですか」


「うーん。不安というか、びっくりはする」


「チャッピーは、危ないことを止めてくれます」


「それは、ちょっと安心かも」


 コレットが笑ったので、ミナもほっとした。


 そのあと、ミナは椅子から立ち上がり、寝台の横に膝をついた。


 コレットが首を傾げる。


「何してるの?」


「寝る前の修行です」


「修行?」


「コンテキストウィンドウを広げます」


 コレットの顔が、わかりやすく固まった。


 ミナは慌てて説明を足した。


「えっと、考える時に、机の上に情報を広げます。その机を広くする練習です」


「ああ、机の広さ」


「はい。今日は、入学手続き、寮の規則、自己紹介、周りの反応、提出物、明日の予定を、全部並べます」


「全部?」


「はい」


 ミナは目を閉じた。


 頭の中に、今日の出来事を一つずつ置いていく。


 正門の白い石。


 掲示板の番号。


 職員の女性の説明。


 寮監マルタの規則。


 コレットの赤茶色の髪。


 セレスティアという金髪の令嬢。


 AI錬金術師と名乗った時の、冷えた空気。


 師匠の言葉。


 目的。


 制約。


 確認。


 ログ。


「チャッピー。今日の情報を展開します」


 ミナは膝の上で両手をゆるく握った。声は小さいが、表情は真剣だった。


「受領。分類、開始」


 チャッピーの返事に合わせるように、ミナはログ帳の端へ短い印を足す。


「重要度は、期限があるものを高くします。忘れたら困るので」


「了解。提出物、教科書、門限」


 子犬の尻尾が、見えない床の上で一度だけ揺れた。


「それから、人間関係もお願いします。ミナは、まだ学園の人をよく知りません」


「分類。友好候補、コレット。警戒候補、偏見発言者。高影響人物、セレスティア」


 コレットは自分の名前が出た気がして、寝台の上で背筋を伸ばした。ミナは目を閉じたまま、少し嬉しそうに口元をゆるめる。


「コレットは、親切です。セレスティアさんは、すごそうでした」


「セレスティア。名門。推薦。情報不足」


 チャッピーの声は冷静だったが、「情報不足」のところだけ、少し警戒しているように聞こえた。


「悪い人かは、まだわかりません。決めつけないで、保留にします」


「保留」


 ミナはゆっくり息を吸った。


 頭の中の机が、ぎしぎしと広がる感覚がある。


 師匠と毎晩続けた修行だ。


 最初は、三つの品物を思い浮かべるだけで頭が熱くなった。パン、薬草、銅貨。それだけで混ざった。今は、今日一日の出来事を広げても、まだ端が見える。


 けれど、油断すると情報はこぼれる。


 だから、ミナはゆっくり並べ直す。


 事実。


 感想。


 未確認。


 明日すること。


「疲労、増加」


 チャッピーが止めるように言った。


 ミナはもう少し続けたそうに眉を寄せたが、すぐに息を吐いた。師匠ならここで無理をして、あとで机に突っ伏す。そう思い出したからだ。


「まだ少しできます。でも、今日はここでやめます」


「限界前、終了。良好」


「師匠は、倒れる前にやめるのが上手な人だと言いました」


「訂正。師匠は倒れた後に反省する人」


 チャッピーの短い返答に、ミナは思わず笑った。


「師匠は、たまに倒れます」


「反面教師」


 ミナは小さく笑った。


 コレットは、寝台の上で固まっていた。


   ◇ ◇ ◇


 私は、自分の目を疑った。


 ミナはただ座っているだけに見える。


 でも、違う。


 机の上に広げた書類は、きれいに分類されていた。提出期限、明日の予定、確認が必要なもの、寮の規則。しかも、それだけではない。自己紹介で出た名前、周りの反応、誰が何に反応したかまで、短い言葉でログ帳に書かれている。


 私は薬屋の娘だから、記録の大切さは知っている。


 薬の量を間違えたら、人に怪我をさせる。湿気の多い日に乾燥薬草を扱うなら、保存瓶を変えなければいけない。だから記録する。


 でも、ミナのそれは、薬の記録だけではなかった。


 今日という一日そのものを、材料みたいに分解している。


 この子は、AIに丸投げしているわけではない。


 むしろ、私が見逃したものまで拾っている。


「ミナ」


 私は思わず声をかけた。


 ミナが目を開ける。


「はい」


「それ、毎日やるの?」


「はい。寝る前に」


「いつから?」


「師匠に教わってから、ずっとです」


「ずっと」


 私は、掲示板の三つの首席を思い出した。


 学科。


 実技。


 総合。


 あれは、急に出た結果ではない。


 この子は毎晩、誰も見ていないところで、頭の中の机を広げ続けてきたのだ。


 AI錬金術師は努力しない。


 今日、講堂で誰かがそう言っていた。


 私は、その言葉を思い出して、少し腹が立った。


「ミナ」


「はい」


「明日の教科書受け取り、私も一緒に行っていい?」


「もちろんです」


 ミナは、ぱっと笑った。


 足元の見えない何かに向かって、嬉しそうに言う。


「チャッピー。友好候補、更新です」


「更新。コレット、友人候補」


「候補ですか」


「確定には、追加観測」


「では、明日、追加観測します」


 私は、思わず吹き出した。


 変な子だ。


 でも、たぶん、悪い子ではない。


 そして、たぶん。


 この学園は、まだこの子のことを何も知らない。


   ◇ ◇ ◇


 消灯の鐘が鳴った。


 ミナはログ帳を閉じ、机の端にそっと置いた。


 明日すること。


 教科書を受け取る。


 奨学金の説明を読む。


 コレットと一緒に行動する。


 AI錬金術について聞かれたら、怒らず説明する。


 師匠へ手紙を書く。


 最後の一行を書いた時、ミナの胸が少し温かくなった。


 師匠は今頃、王都を離れる準備をしているはずだ。


 下町の工房で、薬瓶を木箱に詰めているかもしれない。クロックが肩の上で「分類、雑。破損確率、高」と皮肉を言い、師匠が「わかってる」と返しているかもしれない。


 想像すると、少し寂しい。


 でも、ミナは一人ではない。


 チャッピーがいる。


 コレットがいる。


 それに、師匠の教えは、ログ帳の中にある。


「チャッピー」


 布団の中で小さく呼ぶと、足元からすぐに返事があった。


「はい」


 ミナは天井を見つめた。昼間の冷たい視線を思い出すと、胸の奥が少しだけ重い。


「ミナは、学園でやっていけますか」


「予測。困難あり」


 はっきりした答えに、ミナは苦笑した。チャッピーは、慰めるために嘘をつかない。


「はい」


「ただし、対処可能」


 今度は、尻尾を振る気配がした。ミナは安心して、布団の端を握る力をゆるめる。


「どうしてですか」


「ミナは、記録する。確認する。学ぶ。助けを求める。これらは強い」


 ミナは布団の中で、少しだけ笑った。


「師匠みたいです」


「師匠より、睡眠管理は良好」


「それは、ミナの勝ちです」


「勝利」


 チャッピーの尻尾が、暗い部屋でかすかに揺れた気がした。


 ミナは目を閉じる。


 明日から、授業が始まる。


 AI錬金術師への視線は冷たい。


 けれどミナは、師匠に教わった通りに、一つずつ確認していくつもりだった。


 目的。


 制約。


 確認。


 ログ。


 そして、失敗したら、次に直す。


 それだけでいい。


 そう思いながら、ミナは新しい寮の寝台で、静かに眠りに落ちた。

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