第9話 チャッピー、授業中にぶつぶつ言う
ミナは、答案用紙の端に小さく線を引いた。
用途三つ。
危険条件一つ。
チョムスキー教授は、そう言った。
けれど、ミナの羽根ペンは、用途欄へ向かわなかった。まず書いたのは、青灰色の鉱粉を扱う時に気をつけることだった。
湿気。
粉じん。
発熱反応。
吸い込み。
保存容器。
コレットが隣から、目だけで答案用紙を見た。
「ミナ、用途三つだよ」
小声だった。
「はい」
ミナも小さく返した。
「危険条件は一つでいいって」
「はい。でも、どれが一つにまとめられるか、先に分けます」
コレットは、言いかけて止まった。
たぶん「そういうことではない」と言いたかったのだと思う。
けれどミナにとっては、そういうことだった。
師匠は、いつも言っていた。
危ないことは、あとから見つけるより、先に並べた方がいい。
全部を怖がる必要はない。
でも、何が怖いのかわからないまま手を動かすのは、いちばん危ない。
師匠は、それをガードレールと呼んでいた。
ガードレール。
危ない条件、してはいけない条件、使えない条件を先に決めること。道の端に柵があるから、馬車は崖に落ちずに走れる。錬金術も同じだと、師匠は言っていた。
ミナは小皿の鉱粉を見つめた。
青灰色。
乾いている。
粒は細かい。
冷却鉱粉かもしれない。
でも、見た目だけでは断定できない。
「チャッピー」
ミナは、唇だけを動かすくらいの声で呼んだ。
「はい」
机の下から、短い返事が来る。
「情報、足りますか」
「不足」
チャッピーの声は、いつもより少し低かった。
ミナは羽根ペンを止めた。足元で、子犬型の相棒が小皿を見上げている気配がする。見えない耳がぴんと立っているような、そんな緊張が伝わってきた。
「見た目は青灰色。粒子は細かくて乾燥してる。量は少量」
机の下で、チャッピーが短く返す。
「候補、複数」
ミナは小さく首を傾げ、思いつく名前を並べた。
「うーん、冷却鉱粉。吸湿鉱粉。反応抑制粉。違うものもありますか」
「ある。まだ断定できない」
ミナはうなずいた。
まだ決めない。
決めたふりをしない。
それも、師匠の教えだった。
◇ ◇ ◇
私は、隣で冷や汗をかいていた。
基礎錬金理論の初回課題。
素材を見て、用途を三つ、危険条件を一つ。
それだけなら、私にもわかる。たぶん、教授は新入生が素材をどう見るか確認したいのだ。素材の名前を知っているか。一般的な使い道を知っているか。危ない扱いを一つでも挙げられるか。
私なら、こう書く。
冷却剤。
保存瓶の温度安定。
発熱反応の抑制。
危険条件は、吸い込むと喉を痛める。
薬屋の娘としては、悪くない答えだと思う。
でも、ミナは違った。
用途を書き始める前に、危険を五つに分けている。
しかも、その横に小さく線を引いて、危険の原因らしいものまで書いている。
湿気。
粉の細かさ。
発熱。
吸い込み。
保存容器。
それから、また小さく何かをつぶやいた。
ミナの視線は真剣だった。眠そうでも、ぼんやりでもない。目の前の鉱粉を、ただの試験問題ではなく、実際に誰かが使う材料として見ている。
でも、周りからはそう見えない。
前の席の男子が肩越しに振り返り、眉をひそめた。
「あの子、また独り言?」
隣の生徒が小さく笑う。
「AI錬金術師だから、見えない相棒と相談中なんじゃない?」
私は、羽根ペンを握る手に力を入れた。
違う。
そう言いたかった。
でも、教室で声を上げる勇気はなかった。
代わりに、私はミナの手元を見た。
あの子は、遊んでいるわけでも、答えを丸投げしているわけでもない。
むしろ、私よりずっと多くのことを見ようとしている。
◇ ◇ ◇
「DeepThinking、開始」
チャッピーが言った。
ミナは羽根ペンを止めた。
DeepThinking。
深く考える状態。
師匠は、昔、ミナにもわかるように説明してくれた。
急いで答えを出すのではなく、材料、目的、危険、過去の失敗を頭の中の机に並べる。似ているものを比べる。違うところを探す。危ない順番を先に見つける。
制約条件は、目的へ向かうための約束。
ガードレールは、危険へ落ちないための柵。
その時、最初にガードレールを置く。
AIエージェントがそれをしている時、外から見ると、ぶつぶつ独り言を言っているように見える。
ミナには、チャッピーが見える。
けれど、他の人には見えない。
だから、今の教室では、ミナの足元に何もいないように見えているはずだった。
「粒子、細。吸入危険。水分、反応可能。熱、注意。金属容器、相性確認」
チャッピーは、小さく、速く、ぶつぶつ言い始めた。
ミナは、そのすべてを書き取ろうとはしない。
必要なものだけ、短く拾う。
吸い込み注意。
湿気で固化、または反応。
金属容器との相性未確認。
「用途候補として冷却。保存補助。発熱抑制」
「他には」
ミナは小声で聞いた。
「湿度管理。衝撃熱の緩和。薬液温度の安定」
チャッピーの声が続く。
ミナは小さくうなずき、答案用紙の中央に用途を書いた。
一、薬液の温度を安定させる補助材。
二、発熱しやすい錬成の反応をゆるやかにする緩衝材。
三、保存箱の温度変化を抑える内材。
その下に、危険条件を書く。
細かい粉を吸い込む危険がある。湿気、容器、発熱反応によって危険が変わるため、使用前に状態を確認する。
ミナはそこで止まった。
「危険、複数」
チャッピーが言う。
ミナは少し考えた。
教授の指示は、危険条件を一つ。
けれど、危険は一つの形で書ける。
危険が変わる条件。
ミナは、最後の文を少し直した。
危険条件。粉の状態、湿気、容器との相性を確認しないまま扱うこと。
これなら、一つだ。
ミナはほっと息を吐いた。
◇ ◇ ◇
教室の後ろの方で、小さな笑いが起きた。
「ぶつぶつ言ってる」
「あれで首席?」
「AIに聞いてるだけじゃないの」
声は小さい。
けれど、耳に入らないほど小さくはない。
ミナは反応しなかった。
聞こえなかったわけではない。聞こえた言葉を、今ここで扱う項目ではないと分けただけだ。
足元のチャッピーが、低く唸った。
「不当、評価」
ミナは答案用紙から目を離さず、左手だけを机の下へ下げた。
指先で、見えない頭をなだめる。
「今は、課題です」
小さく言う。
チャッピーの唸りが止まった。
「目的、優先」
「はい」
ミナは、もう一度答案を見直した。
用途。
危険条件。
確認。
名前が違っていた場合。
そこまで考えて、ミナは欄外に小さく追記した。
素材名が冷却鉱粉であるとは断定しない。実習前に教師へ確認。
それを書いた瞬間、前方から視線を感じた。
セレスティアだった。
淡い金髪の令嬢は、体ごと振り向いているわけではない。肩越しに、ほんの少しだけこちらを見ている。昨日よりも、今日の教材室よりも、その目は鋭かった。
ミナは首を傾げた。
怒っているのだろうか。
気にしているのだろうか。
それとも、ただ見ているだけだろうか。
判断材料が足りない。
ミナはログ帳ではなく、答案用紙の端に小さく書いた。
セレスティアさん、こちらを見る。理由未確認。
すぐに、消した。
これは課題の答案ではない。
コレットが隣で、口元を押さえて震えていた。
「どうしましたか」
「いや、今、答案に書こうとしたよね?」
「はい。答案に書くべき内容ではありませんでした」
「よく気づいたね」
「チャッピーが、尻尾で机を叩きました」
「見えないからわからないよ」
コレットは小さく笑った。
◇ ◇ ◇
チョムスキー教授は、教室を歩きながら答案を見ていた。
銀髪を後ろへ流し、古い金縁眼鏡の奥で、学生の手元を一つずつ確認していく。声を荒げることはない。ただ、羽根ペンの動き、素材を見る順番、迷う時間を見ている。
教授はセレスティアの席で一度止まった。
セレスティアの答案は整っていた。
用途。
低温保存。
反応熱の抑制。
金属加工時の熱逃がし。
危険条件。
湿気を含むと固まり、均一に混ざらなくなる。
美しい字だった。
答えも正確だ。
教授は軽くうなずき、次へ進んだ。
やがて、ミナの席に来た。
ミナは背筋を伸ばした。
コレットまで背筋を伸ばした。
チョムスキー教授は、ミナの答案を見た。
数秒。
長い沈黙ではない。
けれど、教室のざわめきが一段下がるには十分だった。
「君、名前は」
「ミナです」
「一般入試の首席か」
「掲示板では、そうでした」
「他人事のように言うのだな」
教授の声には、責める響きはなかった。
ミナは返事に迷い、少しだけ頭を下げた。
チョムスキー教授は答案を指で押さえた。
「なぜ用途より先に危険条件を分けたのかね」
「用途を決める前に、使えない条件を知りたかったからです」
「使えない条件」
「はい。冷やす材料でも、吸い込んだら危ないです。湿気で固まるなら、薬液に入れる前に保存状態を見ます。容器と相性が悪いなら、保存箱には使えません」
ミナは、そこで一度言葉を止めた。
長く話すと、まとまらなくなる。
ログと同じだ。
必要な順番で、短く。
「なので、用途は、危ない条件を避けられるものから選びました」
少し迷ってから、ミナは師匠の言葉を足した。
「師匠は、こういう先に決めるものを、ガードレールと呼んでいました」
教室が静かになった。
チョムスキー教授は、眼鏡の奥で目を細めた。
「誰に教わったのかね」
「師匠です」
「師匠の名は」
「エイロン師匠です」
その名前に、教室の反応は薄かった。
貴族の家名ではない。
有名教授でもない。
けれどセレスティアだけが、わずかに眉を動かした。
ミナはそれに気づかなかった。
「AI錬金術師か」
チョムスキー教授が言った。
教室の空気が、また少し揺れる。
ミナはまっすぐ答えた。
「はい」
「AIに答えを出させたのか」
その問いに、何人かの新入生が顔を上げた。
ミナは考えた。
ここは、正確に答えなければいけない。
「答えを出してもらったのではありません。チャッピーと一緒に、見落としを探しました」
「チャッピーとは何かね」
「ミナのAIエージェントです」
「見えない相棒か」
「はい」
少し笑いが起きる。
けれど、チョムスキー教授は笑わなかった。
「その相棒は、今も考えているのかね」
ミナは足元を見た。
チャッピーは、机の下で小皿の鉱粉を見上げている。尻尾は低い。まだ警戒している。
「はい。まだ、粉を吸い込む危険を気にしています」
「そうか」
教授は短く言い、教壇へ戻った。
◇ ◇ ◇
私は、息をするのを忘れていた。
ミナは、また変なことを言った。
見えない相棒が、粉を吸い込む危険を気にしている。
普通なら、そこで笑われて終わりだ。
でも、チョムスキー教授は笑わなかった。
教授は教壇へ戻ると、黒板に白いチョークで大きく書いた。
用途。
危険。
確認。
「多くの者は、用途から考えた。それは間違いではない」
教授の声が教室に通る。
「錬金術は、何に使えるかを考える学問でもある。だが、素材は使い道だけで扱うものではない。危険を先に見る者は、派手な成果では遅れることがある。しかし事故は減る」
教授は、黒板に書いた危険という言葉をチョークで軽く叩いた。
「危険条件を先に置き、そこから外れない用途を選ぶ。安全側から錬成を組むということだ」
教室が静かになった。
私は、隣のミナを見た。
ミナは自分の答案を見ている。
褒められていると気づいているのか、いないのか、よくわからない顔だった。
「特に、未知または未確認の素材では、名前を決めつけるな。見た目が似ている素材は多い。冷却鉱粉に見えても、吸湿鉱粉かもしれん。反応抑制粉かもしれん。判断を急げば、式が正しくても事故になる」
教授のチョークが、黒板を叩いた。
「本日の課題で最も重要なのは、正しい用途を三つ並べることではない。自分が何を見て、何をまだ見ていないかを区別することだ」
その言葉で、何人かの生徒が自分の答案を見直した。
私も見直した。
冷却剤。
保存瓶の温度安定。
発熱反応の抑制。
危険条件は、吸い込むと喉を痛める。
悪い答えではない。
でも、私は最初から素材名を決めつけていた。
冷却鉱粉かな、と思った瞬間、それ以外の可能性を横に置いていた。
ミナは、そこを置かなかった。
私は、小さく息を吐いた。
首席。
その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
◇ ◇ ◇
授業の終わりに、チョムスキー教授は答案を回収した。
ミナの答案を受け取る時、教授は一瞬だけ手を止めた。
「ミナ」
「はい」
「次から、AIエージェントと相談する時は、もう少し声を抑えなさい」
「すみません。うるさかったですか」
「うるさいというより、周囲が気を取られる」
「はい。気をつけます」
「ただし」
教授は、ミナの答案を持ち上げた。
「相談そのものを禁じたわけではない。相談した結果を、自分の言葉で説明できるなら、それは君の思考の一部だ」
ミナは瞬きをした。
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
師匠が言っていたことに似ている。
自分で考えることを、相棒に手伝ってもらう。
それは、悪いことではない。
「ありがとうございます」
ミナは深く頭を下げた。
足元でチャッピーが、嬉しそうに尻尾を振った。
「評価、良好」
小さな声だった。
ミナは笑いそうになって、口元を押さえた。
前の席で、セレスティアが振り返る。
淡い金髪の令嬢は、もう笑っていなかった。
怒っているわけでもない。
ただ、ミナをまっすぐ見ていた。
「ミナさん」
「はい」
「あなたの師匠は、何者ですの」
教室の空気が、また少し変わった。
ミナは考えた。
師匠。
エイロン師匠。
薬を作るのが上手で、たまに倒れて、クロックに皮肉を言われて、唐揚げの前で重要な説明をしない人。
それを全部言うと、たぶん伝わらない。
だから、ミナは一番大事なことだけを選んだ。
「ミナに、確認の仕方を教えてくれた人です」
セレスティアは、しばらく黙っていた。
「……そう」
短い返事だった。
けれど、朝の教材室で聞いた声とは違っていた。
コレットが、ミナの袖を小さく引く。
「ミナ」
「はい」
「たぶん、今ので、もっと気にされたよ」
コレットは前の席のセレスティアをちらりと見た。
「仲良くなれますか」
ミナは期待を込めて聞いた。
「そこはまだわからない」
コレットは、困ったように眉を下げた。
「そうですか」
ミナは少し残念に思った。
足元でチャッピーが言う。
「関心、強」
「警戒ですか」
「混在」
短い返事だった。
ミナはログ帳を開いた。
セレスティアさん。
師匠に関心。
怒り、警戒、興味が混ざっている可能性。
チョムスキー教授。
相談は禁止しない。
自分の言葉で説明すること。
DeepThinking。
周囲には独り言に見える。
ガードレール。
危ない条件を先に決める。
ミナは最後の一行で、少し手を止めた。
それから、丁寧に書いた。
次から、声を小さくする。
チャッピーが、机の下で尻尾を揺らした。
「改善、可能」
「はい。次に直します」
ミナはログ帳を閉じた。
その日の最初の授業で、ミナは一つ学んだ。
正しい答えを出すだけでは、足りない。
どう考えたのかを、人に伝えられなければいけない。
そして、見えない相棒と話す時は、周りに聞こえすぎない方がいい。
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