第9話 悪魔の発生条件は、湿気と段ボールと使っていない農機具

教会の裏庭の草むしりは、想像以上に過酷だった。


十月に入ったばかりだというのに、日差しにはまだ夏の名残がしつこく居座っている。

抜いても抜いてもきりがない雑草を前に、カルロの体力は容赦なく削られていった。


「ふぅ……っ、はぁ……っ」


泥と汗にまみれたTシャツ姿で、カルロは軍手をはめた手を膝につき、肩で息をする。


その隣では、六十九歳の佐藤が涼しい顔で鍬を片付け、首に掛けたタオルで汗をぬぐっていた。

体力の次元が違いすぎた。


「よし、終わったな。カルロ、トメさんち行くぞ」


「は、はい……!」


佐藤の軽トラ――エアコンのガスが抜けたままのハイゼット――に揺られること十分。

たどり着いたトメさんの家は、これまた絵に描いたような日本の古い農家だった。


出迎えてくれたトメさんは、約束どおり、立派な葉っぱ付きの大根をひと箱、すでに軽トラの荷台へ積んでくれている。


「勘太郎さん、悪いねえ。物置はあっちだから」


「おう、すぐ終わらせるわ」


案内されたのは、敷地の隅に建つ、色あせたトタン屋根の木造物置だった。

佐藤の言ったとおり、裏手が竹林になっているせいで日当たりが悪く、空気はじっとりと湿っている。


佐藤が錆びついた引き戸をガラガラと開けた瞬間、かび臭い空気とともに、ひやりとした不快な気配が流れ出してきた。


「う……」


カルロは本能的に身構えた。


間違いない。

悪魔の気配だ。


バチカンで何度も叩き込まれた、魂を逆撫でするような、あの忌まわしい波動。

祈りの言葉より先に、皮膚が総毛立つ。


「ギギ……ギギギ……ッ」


音は物置の奥から聞こえた。

山積みにされた古い段ボールと、埃をかぶった手押し車の隙間。

暗がりの中に浮かび上がったのは、体長三十センチほどの、ネズミにトカゲの尾を継ぎ足したような醜悪な生き物――が、三匹。


「下級悪魔……! マルファスの眷属、あるいはスコースの変異種……!」


カルロは即座にポケットからロザリオを取り出し、正統なるラテン語の祈祷を紡ごうとする。


「天にまします我らの父よ、願わくは御名が――」


「おいカルロ、うるせえ。狭いとこで大声出すな。耳がキーンとするだろ」


「えっ」


佐藤はカルロを容赦なく押しのけると、ポケットから、例のハッカ油入りポカリが詰まったスプレーボトルを取り出した。


そして、まるで台所の隅に出たゴキブリでも始末するかのような、完全に虚無の目で、何のためらいもなくトリガーを引く。


シュッ。

シュシュッ。


「ギェ!?!?!?」


霧状のハッカポカリ聖水をまともに浴びた悪魔が一匹、信じられないような悲鳴を上げてのけぞった。


「ほら、やっぱ段ボールの裏に溜まってやがった。カルロ、そっち行ったぞ。叩け」


「た、叩けって、何をですか!?」


「何でもいいよ。そこにあるやつで」


佐藤が顎で示した先には、物置の壁に立てかけられた『コメリの端材(太めの角材)』があった。


「これを……悪魔に……!? ラテン語の詠唱は!?」


「そんなもん打率下がるだけだろ! 動く的なんだから、さっさと潰せ!」


神学の敗北だった。


シュッ、シュッ!


佐藤は手際よく別の悪魔にもハッカポカリを浴びせ、怯んだところを、愛用の『木工用ボンドで留めた樫の木十字架』で――


――ペシッ!!!


「ギミュッ」


あまりにも気の抜けた断末魔とともに、悪魔が黒い霧となって消滅する。


その一連の動きは、完全に、田舎のおじいちゃんが居間のハエをハエ叩きで仕留めるそれだった。


「ギギギギッ!」


残る一匹が、甲高い声を上げながらカルロの足元へ這い寄ってくる。


バチカンの天才と謳われたカルロの脳裏に、これまで学んだ膨大な悪魔学、階級図、儀式の作法、聖座の歴史が一瞬で駆け巡り――


(――ああ、もう知るか! 神様ごめんなさい!!)


カルロは半ばやけくそでコメリの端材を両手で掴み、迫り来る悪魔めがけて思い切り振り下ろした。


――ドゴォッ!!!


「ギャンッ!?」


鈍い音とともに、最後の悪魔が綺麗さっぱり消滅する。


物置の中に、再び静寂が戻った。

残ったのは、かび臭さと、佐藤が容赦なく撒き散らしたハッカの刺激臭だけだった。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


息を荒くし、角材を握ったまま呆然と立ち尽くすカルロに、佐藤は「おう、筋がいいな」と感心したように頷いた。


「やっぱ若いのは馬力があっていいわ。俺も最近、腰が痛くて下の方叩くのきつかったんだよな。これからは下担当な」


「アンダー担当……!?」


悪魔祓いに「上」と「下」の持ち場があるなど、バチカンのどの機密文書にも書かれていなかった。


「勘太郎さーん、終わった? 冷たい麦茶淹れたわよー」


外から、トメさんののんきな声が飛んでくる。


佐藤は「おう、今行くわ」と応じると、ポカリボトルをポケットにしまい、何事もなかったかのように物置を出ていった。


あとに残されたカルロは、手垢のついた角材を見つめながら、ぽつりと呟く。


「……おじいちゃん家の、ネズミ捕り……」


そう。

バチカンが世界を揺るがす脅威として定義し、数多の聖職者が命を懸けてきた『悪魔祓い』。


その極東における実態は、どうやら――

ちょっと手強いネズミを、湿気た物置で叩き潰す作業にかなり近かった。


カルロは静かに角材を元の位置へ戻し、自分の手についた埃を払った。


もう、驚く気力すら残っていない。

ただ、トメさんが淹れてくれたという冷たい麦茶だけが、今は猛烈に恋しかった。

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