第8話 極東の守護聖人の安息日、悪魔の命は大根より軽い

あの音楽室での、爆音スラッシュメタル事件と、深夜のマジック模写騒動のあと。


バチカン創立以来の天才カルロは、崩壊しかけた自らの神学と精神をどうにか立て直すべく、日本国内にあるカトリック教会や修道施設への挨拶回りに明け暮れていた。


そこは、完璧な世界だった。


ステンドグラスから差し込む、やわらかくも厳かな光。

高い天井に静かに満ちる香の匂い。

整った祭壇。

慎み深く、それでいて美しく響くラテン語の祈り。


それらに触れるたび、カルロのささくれ立っていた心は、少しずつ平穏を取り戻していった。


(そうだ……これが本物の聖性だ)


カルロは、ある修道院の静かな中庭で、固く拳を握った。


(神の御業とは、本来こういうもののはずなんだ。気高く、秩序に満ち、祈りと敬意によって成り立つものだ。サトウ先生の『ポカリにハッカ油』だの、『コメリの端材』だの、『税務署が怖い』だのは、きっと長旅と時差ボケで僕の認識が一時的にバグっていただけなんだ……!)


そう自分に言い聞かせたカルロは、日曜日の朝、佐藤が毎週欠かさず通っているという教会へ足を運んだ。


バチカンからの事前情報によれば、そこは――

『極東の守護聖人が、魂の安息を得る祈りの聖域』。


カルロは、自然と胸を高鳴らせていた。


だが、指定された場所にたどり着いた瞬間、その足がぴたりと止まる。


「……ここ、?」


そこに建っていたのは、バチカンの大聖堂とは似ても似つかない、地方の小さな木造教会だった。


白い壁はところどころ塗装が薄れ、瓦屋根のてっぺんには、申し訳程度に十字架が載っている。

庭先の花壇には季節の花が植えられ、入口脇には手書きで『本日のミサ 午前十時』と書かれた黒板が立っていた。


荘厳というより、近所の公民館に少しだけ神聖さを足したような佇まいである。


「……いや、でも。逆に、そういうこともあるかもしれません。真の聖人ほど、質素な場所を愛するものですし……」


自分にそう言い聞かせながら敷地へ足を踏み入れると、入口の横に、見慣れた後ろ姿を見つけた。


いつものヨレヨレのポロシャツではない。

一応きちんとした、だが明らかに高級品ではない黒いスーツ。

ネクタイも締めている。

それでも漂う生活感までは消えない。


「あ、サトウ先生!」


「おう、カルロか」


佐藤は携帯灰皿に煙草をねじ込んで火を消すと、ぶっきらぼうに振り返った。


「挨拶回りは終わったんか」


「はい! おかげさまで、ようやく心の平穏を取り戻しつつあります!」


カルロは思わず一歩前に出る。


「やはり安息日ですね。先生ほどの偉大な方が、こうして毎週、主の御前で静かに祈りを捧げ、魂を浄化しておられると知り、私は深く感動しております……!」


きらきらした目でそう告げると、佐藤は心底めんどくさそうな顔で眉間にしわを寄せた。


「祈るっていうか、今日のミサのあと、この教会の裏庭の草むしり頼まれててな。道具持ってくるついでに出てるだけだよ。スーツ着てねえと、近所のババアどもが『佐藤さんは礼儀がなってない』ってうるせえし」


「つ、ついで……!?」


カルロの笑顔がぴきりと固まる。


せっかく数日かけて修復しかけていた『極東の守護聖人像』が、またも無慈悲な勢いで音を立てて崩れ始めた。


やがてミサが始まった。


小さな聖堂には、地元の信徒たちが二十人ほど集まっていた。

パイプオルガンの代わりに置かれた古い電子オルガンが、ぽつぽつと素朴な伴奏を奏でる。


都会の大教会のような華やかさはない。

だが、祈りの声は静かで、まっすぐだった。


そして驚くべきことに、佐藤はかなり真面目にミサへ参加していた。


聖書をきちんと開き、立つところで立ち、座るところで座る。

賛美歌もちゃんと歌っている。少し音痴だったが、少なくともサボってはいない。

その姿はどこからどう見ても、ただの熱心で平凡な田舎の信徒だった。


(……あ)


カルロは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


(やっぱりこの人、ちゃんと信徒なんだ。悪魔祓いの方法はめちゃくちゃでも、信仰そのものが嘘ってわけじゃないんだ……)


そう思った、その時だった。


ミサが終わり、信徒たちがぞろぞろとロビーへ出てきたところで、一人の小柄なおばあちゃんが佐藤に近づいてきた。


「あら、勘太郎さん。今日もご苦労さま」


「おう、トメさん。腰はもう大丈夫か」


「ええ、だいぶねえ。……あ、それで、ちょっと相談があるんだけど」


トメさんは周囲を気にするように声を潜めた。


「うちの裏の物置、最近なんだか嫌ぁな空気が溜まっててね。夜中になると『ギギギ……』って、爪で板を引っかくような音がするのよ。これってやっぱり……あの、悪魔、とかかしら」


カルロの背筋がぴんと伸びた。


(悪魔出現案件……!)


バチカンであれば、まず司牧司祭へ相談し、精神医学的・環境的要因の確認を行い、必要に応じて教区司教の許可を得てから、正式な祓魔の手続きに入るところだ。


カルロは反射的に革手帳を取り出し、佐藤の対応を見守った。


佐藤は耳の後ろをがりがり掻きながら、あっさりと言う。


「あー、またあいつらか。トメさんちの物置、湿気多いし暗いからな。雰囲気に釣られて、ネズミみてえな下級悪魔が寄ってきたんだろ」


「わ、分かるんですか!?」


カルロが思わず口を挟むと、佐藤は面倒くさそうに肩をすくめた。


「分かるよ。下級の雑魚は、だいたいジメッとしてて手入れされてない場所が好きなんだ。あと古い段ボールと使ってねえ農機具があると寄りやすい」


「そんな害獣みたいな分類で説明するのですか……!?」


「実際、だいたい害獣みたいなもんだしな」


神学的にも倫理的にも危うい物言いだった。


だがトメさんはすっかり安心した様子で、ぱっと顔を明るくする。


「じゃあ、やっぱり勘太郎さんにお願いしてよかったわぁ。どうしようかと思ってたのよ」


「しょうがねえな。ここの草むしりが終わったら見てやるよ。お駄賃は、トメさんの畑の大根でいいぞ」


「あら、助かるわぁ。今ちょうどいいのが抜けたところなの。あとで軽トラに積んどくね」


「葉っぱ付きのやつ頼むわ」


「もちろんよぉ」


にこにこと笑い合う二人のやり取りを前に、カルロはその場で完全に固まっていた。


(悪魔祓いの予約が……町内会の回覧板くらいの温度感で成立した……!)


しかも報酬が大根である。


バチカンの機密記録に記されていた『極東の奇跡』。

その実態は、日本の片田舎において『ミサのあと草むしりして、そのついでに近所の物置の悪魔も払う便利屋』として運用されているらしい。


あまりにも世俗的で、あまりにも生活感に満ちていた。


「おい、カルロ」


佐藤はすでにスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくっていた。

いつの間にか首にはタオルまで掛かっている。


「何ぼーっとしてんだ。裏庭の草むしり手伝え。終わったらトメさんち行くぞ」


「え、ぼ、僕もですか!?」


「当たり前だろ。見習いなんだから現場に出ろ」


そう言いながら、佐藤は使い古しのポカリボトルを取り出し、そこへ例の『ルルドの泉・小さじ一杯ブレンド』を補充し始めた。


教会の裏庭。

秋晴れの日曜日。

爽やかな青空。

そして、その下で雑に準備されるハッカ油入りポカリ聖水。


あまりにも情緒がちぐはぐだった。


カルロは空を見上げ、肺の奥に溜まったものをゆっくりと吐き出した。


(僕がバチカンで七年間学んだ神学は……いったい何だったのだろう……)


だが、不思議なことに。


完全に間違っているはずなのに、近所の老人たちは皆、佐藤を頼りにしている。

祈る時はちゃんと祈り、働く時は黙って働き、困りごとがあれば面倒くさそうにしながらも結局放っておかない。


その背中は、神学書に載るような荘厳さとは程遠い。

けれど、奇妙なくらい地に足がついていた。


――もしかすると『聖性』というものは、もっと泥臭くて、もっと生活のすぐ隣にあるものなのだろうか。


そんな考えが一瞬だけ脳裏をよぎり、カルロは慌てて首を振った。


(いや、違う。違うはずだ。たぶん違う。違っていてくれ)


天才留学生カルロ、日本に来て三日。


彼の脳のバグは、もはや故障ではなく、新しい環境への適応として静かに定着し始めていた。

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