15-1 ボート遊び

 湖の岸辺に停められた白い手漕ぎボート。アーサー様は手を差し出した。

「足元に注意してね」

 私は彼の手を掴んで慎重にボートに乗り込む。不安定で少し怖かったけれど、彼が支えてくれたおかげで何とか乗ることができた。

 私が座ったのを確認すると、彼は物怖じすることなくボートに乗った。彼の体重が加わると、ボートはゆらゆらと左右に揺れて、私は咄嗟にへりを掴んだ。

 彼が座ると、次第に水面の揺らぎは収まった。

「それじゃ、行くよ」

 彼はそう言うと、オールを持った手を動かした。ボートはゆっくりと進んでいく。


 なんの気なしに湖の中を覗き込んだら、澄んだ水の中を魚たちが泳いでいた。

「わぁ」

 私は湖面に手を伸ばし、そっと水の中に手を入れてみる。春の初めということもあって、水はひんやりとして冷たかった。

「落ちないように気をつけてね」

「はい」

 アーサー様の言う通り、落ちてしまったら大変だ。私は手を引っ込めて姿勢を正した。


「私、ボートに乗るの、初めてなんです」

 前世も今世も、ボートに乗るのは初めてだった。

 映画や小説の中の人物がしていた遊びを今、私が体験しているだなんて、とてもワクワクする。

 浮かれた気持ちのまま、目の前のアーサー様に視線をやると、彼は私を見てはにかんだ。


「そうか。それなら、不安にならないように気をつけていくね」

「そんなに気張らなくても大丈夫ですよ」

「そうかい?」

 怖かったのはボートに乗り込んだ時だけ。今は風も弱いし、彼の漕ぎ方が上手なおかげで全く揺れない。


 穏やかに進んでいくボートの上で、私達は他愛もない話をした。

 湖沿いの道に生える木の名前。アーサー様の学生時代の思い出話。ローズ王女殿下も舟遊びが好きで、彼はよくこうやって一緒にボートに乗っていたというエピソード。

 話題が移り変わるうちに、ボートはイアンがいた芝生の前を通ろうとしていた。

 湖を描いていたイアンは、私達に気がつくと大きく手を振ってくれた。それに応えて私も手を振った。


「あの様子だと、彼の絵は滞りなく進みそうだね」

「そうですね」

 アーサー様のオールを持つ手が止まった。

「少し疲れたから、休ませてもらうよ」

「ここで止まったら、彼の邪魔にならないでしょうか」

「そうかな? 下書きにボートも描かれていたから大丈夫だと思うけど」

 ボートなんか描かれていたかしら? 思い出そうとしても、そもそも細かいところまで見ていなかったことに気がついた。


「すごいですね。私は、そんなの見逃していましたよ? アーサー様は細かいところまで見ていらっしゃるんですね」

「イアン卿の絵が上手だったからだよ。知りたいと思ったことや興味のあるものは、自然とよく観察してしまうものだし、記憶に残るから」

 彼はそう言った後、小さく「君みたいにね」とつぶやいた。


「……あの、どういう意味ですか?」

「え?」

「私みたいって」

「あ、ああ。……聞こえてたのか」

 追及してはいけないことだったのかしら? もしかして、私に対する苦言を、うっかり漏らしてしまったの?


「そんな顔をしないで。決して悪い意味で言ったわけじゃないんだ」

 彼は目をキョロキョロと左右に動かしている。

「俺が、その……。君に興味があるから見てしまうし、覚えてしまうってことだよ」

「え?」

「そんなに驚くことかな?」

「驚きますよ。アーサー様は私のどこに惹かれたのです?」

 ずっと前から気になっていたことを、思い切って聞いてみた。

 私は特別容姿に恵まれているわけでも、素晴らしい才能を持ち合わせているわけでもない。強いて言うなら、生まれた家柄が良かっただけ。そんな私のどの部分を、彼は気に入ってくれたのだろう。


「前にも言ったけど、魔導列車に乗ってとても嬉しそうに喜んでいたところだよ。君のことは『品位と教養のある女性だ』と噂に聞いていたのだけれど……。かわいらしい一面もあるのだと知って驚かされたよ」

「かわいらしいだなんて、そんな……」

 落ち着きを取り戻していた心臓が、ドクン、ドクンと脈打った。


「それからね。あの時、俺はエレノア嬢が公爵に『魔導列車によって時代が変わる予感がする』と話しているのを聞いていたんだ。それで、君は物の価値を分かる人だと思った。そんな評価をして絶賛してくれた女性はエレノア嬢以外にいなかったから……。俺は自分と同じ視点を持てそうな君に惹かれたんだ」

 私をまっすぐに見つめる彼は、気づいているのだろうか。自分の耳が赤くなっていることに。そういう私だって━━

 私は桜色になった自分の手を、ぎゅっと太ももの上に押し当てた。

「俺はね、きっと君が思っている以上に真剣なんだ。だから、その……。俺はこれからも色々なエレノア嬢の姿を見たいと思っているよ」

 彼ははにかみながら視線を落とした。

 返事をしないといけない。けれど、私はただ頷くことが精一杯だった。

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