第10話「ねぇ、まだ思い出してる?」
蝉の声が聞こえた。
遠く。
夏の音。
ゆっくり目を開く。
白い天井。
病院だった。
消毒液の匂い。
カーテン越しの朝日。
湊はぼんやりと瞬きをする。
「……ここ」
喉が痛い。
身体も重い。
記憶が曖昧だった。
確か——。
何か大事な夢を見ていた。
でも思い出せない。
病室のドアが開く。
「お、起きたか」
春斗だった。
コンビニ袋を持っている。
安心したように笑った。
「マジで心配したぞお前」
湊はゆっくり身体を起こす。
「……俺、
なんで倒れてたんだっけ」
春斗は少し言葉に詰まった。
「駅で倒れてたんだよ」
「熱中症みたいなもんだって」
駅。
その単語に、
胸が少し痛む。
夕焼け。
踏切。
誰かの笑顔。
何かが頭をよぎる。
でも、
輪郭がぼやけている。
春斗がリンゴジュースを渡してくる。
「最近やばかったからな」
「記憶飛んだり、
変なこと言ったり」
「ほんと、
戻ってこれてよかったわ」
“戻ってこれて”。
なぜかその言葉だけ、
妙に引っかかった。
湊は窓を見る。
夏空だった。
青くて。
眩しくて。
どこまでも、
現実だった。
それなのに。
胸の奥に、
ぽっかり穴が空いている。
大切なものを失った感覚だけが、
ずっと残っていた。
退院後。
湊は久しぶりに、
自分の部屋へ戻った。
静かなワンルーム。
冷蔵庫の低い音。
見慣れたはずの景色。
なのに、
少しだけ違和感がある。
棚を見る。
白いマグカップ。
花柄。
少し欠けている。
「……なんだこれ」
知らない。
でも、
捨てられなかった気がした。
触れた瞬間。
胸が痛む。
理由は分からない。
机の引き出しを開ける。
古い映画の半券。
海の写真。
そして、
一枚のメモ。
そこには、
知らない字でこう書かれていた。
『忘れないで』
湊は眉をひそめる。
誰の字だろう。
どうしてこんなに、
泣きそうになるんだろう。
その夜。
眠れなくて、
湊は散歩へ出た。
夏の風。
人気のない道路。
遠くで、
踏切が鳴っている。
カン、カン、カン——。
気づけば、
駅前まで来ていた。
終電後のホーム。
誰もいない。
静かな夜。
湊はベンチに座る。
風が吹く。
その瞬間。
ふわりと、
懐かしい匂いがした。
潮風。
夏。
夕焼け。
そして。
「……あ」
涙が零れる。
理由も分からないまま。
ただ、
誰かを失った気がした。
その時。
背後で、
小さな声がした。
「まだ泣くんだ」
振り返る。
ホームの端。
街灯の下に、
少女が立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
夜の雨みたいな瞳。
見覚えがある。
でも。
名前が出てこない。
少女は少し困ったように笑った。
「忘れちゃった?」
湊は立ち上がる。
胸が騒ぐ。
心臓が痛い。
どうしてか分からない。
でも。
この子を知っている。
少女は静かに近づいてきた。
風で髪が揺れる。
少しだけ、
身体が透けて見えた。
彼女は寂しそうに笑う。
「……そっか」
「やっぱり、
消えかけてるんだ」
湊は無意識に、
その手を掴んだ。
冷たい。
でも確かに、
存在していた。
少女は驚いた顔をする。
「え……」
湊は言葉を探す。
名前が出てこない。
記憶もない。
でも。
離したくなかった。
だから、
こう言った。
「……どこかで、
会った?」
少女は数秒黙って。
そして。
泣きそうな顔で笑った。
「うん」
ホームに、
夏の風が吹く。
遠くで踏切が鳴る。
カン、カン、カン——。
少女は、
涙を堪えるみたいに目を細めながら。
静かに囁いた。
「ねぇ」
「まだ、
私を思い出してる?」
『ノスタルジア汚染』 黒宮 ノア @iitian
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