第7話「忘れるためのキス」


夕焼けの駅に、

風が吹き抜ける。


古びた時刻表が揺れ、

錆びたベンチが軋んだ。


それでも電車は来ない。


永遠に。


ここは、

時間が止まった場所だった。


湊は、

柚葉と時雨を交互に見る。


「……知り合いなのか」


時雨は答えない。


唇を噛み、

苦しそうに俯いている。


代わりに、

柚葉が静かに笑った。


「時雨ちゃんはね」


夕焼けの光が、

彼女の髪を赤く染める。


「ここで生まれた子なの」


「……生まれた?」


意味が分からなかった。


時雨は震える声で言う。


「違う……」


だが、

柚葉は優しく続ける。


「向こう側にはね、

忘れられなかった感情が残るの」


「寂しさとか、

後悔とか」


「誰かに覚えていてほしいって気持ち」


その言葉に、

時雨の顔が歪む。


まるで、

触れてほしくない傷みたいに。


柚葉は時雨を見る。


「だからこの子は、

みんなの“未練”からできた存在」


湊は息を呑む。


時雨は、

人間じゃない。


消えていった人たちの、

残された感情。


だから。


いつも寂しそうだった。


いつも、

消えそうだった。


時雨は泣きそうな顔で叫ぶ。


「言わないで……!」


駅にノイズが走る。


ザザッ——。


ホームにいる人影たちが、

ざわめき始める。


柚葉は静かに目を伏せた。


「ごめんね」


その声は、

本当に優しかった。


湊は混乱したまま、

柚葉へ近づく。


「……なんで、

今まで出てこなかったんだよ」


「なんで俺の前から消えた」


柚葉は少し笑う。


悲しそうに。


「消えたかったわけじゃないよ」


彼女は夕焼け空を見上げる。


「最初は、

ただ懐かしかっただけなの」


高校時代。


放課後。


海。


夏祭り。


戻りたいと思った。


“あの頃が一番幸せだった”と、

考えてしまった。


それが始まりだった。


「気づいたら、

未来より過去の方が綺麗に見えてた」


柚葉は自嘲するように笑う。


「だから飲まれちゃった」


向こう側に。


ノスタルジア汚染に。


湊は拳を握る。


「じゃあ戻ろう」


「今ならまだ——」


「無理だよ」


柚葉は静かに首を振った。


「私はもう、

現実を思い出せないの」


その言葉に、

空気が止まる。


柚葉は困ったように笑う。


「家族の顔も、

自分の部屋も、

ほとんど忘れちゃった」


「でもね」


彼女は湊を見る。


「湊くんだけは、

ずっと覚えてた」


胸が痛む。


泣きそうになる。


柚葉は一歩近づく。


白いワンピースが、

夕焼けの風に揺れた。


「だからね」


彼女は、

優しく微笑む。


「もう終わりにしたいの」


その瞬間。


ホームの奥から、

黒いノイズが溢れ始めた。


人影たちがざわめく。


『帰りたい』


『会いたい』


『忘れないで』


無数の声。


向こう側そのものが、

湊を飲み込もうとしている。


時雨が叫ぶ。


「早く戻って!!」


だが、

湊は動けなかった。


柚葉がそこにいる。


やっと会えた。


忘れたくなかった人が、

目の前にいる。


それなのに。


柚葉は涙を浮かべながら笑った。


「湊くん」


「私のこと、

忘れて」


その言葉が、

刃みたいに胸へ刺さる。


「……無理だ」


「無理だよそんなの……!」


柚葉は泣きながら、

そっと湊の頬に触れた。


冷たい手。


でも確かに、

そこに存在していた。


「忘れてくれないと、

湊くんもここに残っちゃう」


「嫌だ……!」


「お願い」


彼女は震える声で言う。


「生きて」


駅の空間が崩れ始める。


夕焼けがノイズに侵食される。


時間が壊れていく。


時雨の身体も、

限界みたいに透け始めていた。


柚葉は静かに目を閉じる。


そして。


最後みたいに、

湊へキスをした。


柔らかくて。


冷たくて。


涙の味がした。


その瞬間。


湊の中で、

何かが崩れる。


記憶。


感情。


思い出。


柚葉と過ごした時間が、

砂みたいに零れ落ちていく。


海。


帰り道。


笑い声。


全部。


全部。


消えていく。


「——っ、やめ……」


湊は必死に掴もうとする。


でも、

思い出せない。


顔がぼやける。


声が遠くなる。


柚葉は涙を流しながら笑った。


「これでいいの」


彼女の身体が、

ノイズになり始める。


黒い粒子が、

夕焼けに溶けていく。


最後に。


柚葉は、

昔みたいに笑った。


「さよなら、湊くん」


そして。


彼女は、

光みたいに消えた。

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