第8話 「時雨の正体」


気づくと。



湊は駅のホームに、

一人で立っていた。


夕焼けはまだ続いている。


止まった電車。


古びたベンチ。


遠くで鳴り続ける踏切。


カン、カン、カン——。


でも。


柚葉の姿だけが、

どこにもなかった。


「……あ」


胸に、

大きな穴が空いている。


何かを失った。


とても大切なものを。


なのに。


それが何なのか、

思い出せない。


湊は頭を押さえる。


記憶がぼやけている。


涙だけが止まらなかった。


「……なんで泣いてんだ、俺」


自分でも分からない。


ただ、

胸が痛い。


壊れそうなくらい。


その時。


後ろから、

小さな声がした。


「消えちゃったね」


振り返る。


時雨が立っていた。


彼女の身体は、

以前よりずっと薄い。


輪郭が透け、

夕焼けの景色と混ざりかけている。


湊は呟く。


「……時雨」


名前だけは覚えていた。


彼女は少し笑う。


「よかった。

まだ私のこと残ってる」


その笑顔が、

ひどく寂しい。


湊は周囲を見回す。


ホームには、

まだ人影たちがいた。


誰かを待ち続ける者たち。


ずっと帰れない人たち。


みんな静かに、

夕焼けを見つめている。


時雨はその光景を見ながら言う。


「ここにいる人たちね」


「最初はみんな、

普通の人だったんだよ」


恋人を忘れられなかった人。


昔に戻りたかった人。


失った幸せに、

しがみついてしまった人。


現実が苦しくて、

過去へ逃げた人。


「でも、

長くここにいるとね」


時雨は、

ゆっくり自分の胸に触れる。


「自分が誰だったか、

分からなくなるの」


風が吹く。


彼女の髪が揺れる。


その輪郭が、

また少し崩れた。


湊は不安になる。


「お前、

消えそうだけど……」


時雨は困ったように笑う。


「うん」


あまりにも軽く、

そう言った。


「だって私、

最初から“誰か”じゃないもん」


その言葉に、

湊は息を呑む。


時雨はホームの端へ歩く。


夕焼けの向こうには、

終わらない線路。


どこにも繋がっていない。


「私はね」


彼女は背中を向けたまま言う。


「ここに残った人たちの、

“未練”から生まれたの」


「未練……」


「忘れられたくないって気持ち」


「誰かに覚えていてほしいって願い」


「寂しいって感情」


それらが混ざって、

時雨になった。


だから彼女には、

本当の過去がない。


家族も。


名前も。


生まれた日も。


何もない。


あるのは、

“消えたくない”という感情だけ。


時雨は小さく笑う。


「変だよね」


「存在理由が、

寂しいだから」


湊は何も言えなかった。


時雨はいつも、

誰かに置いていかれそうな顔をしていた。


消えそうだった。


泣きそうだった。


全部、

理由があった。


「……怖くないのか」


湊が聞く。


時雨は少し考えてから答えた。


「怖いよ」


即答だった。


その声は震えている。


「すごく怖い」


夕焼けの風が吹く。


「誰にも覚えてもらえなくなったら、

私、本当に消えちゃうから」


その言葉が、

胸に刺さる。


湊は気づく。


柚葉は、

最後に自分を忘れさせた。


湊を現実へ帰すために。


でも。


時雨には、

そんなことをしてくれる人がいない。


彼女はずっと、

この場所で取り残される。


一人で。


永遠に。


時雨は明るく笑おうとした。


「でも慣れてるから平気」


その笑顔が、

痛々しかった。


湊は気づけば、

彼女の手を掴んでいた。


冷たい。


消えかけた温度。


時雨は驚いた顔をする。


「……湊くん?」


湊は、

自分でも驚いていた。


なぜ掴んだのか分からない。


でも。


離したら、

本当に消えてしまいそうだった。


湊は小さく言う。


「忘れたくない」


時雨の瞳が揺れる。


「え……」


「お前まで消えるの、

嫌だ」


その瞬間。


時雨の輪郭が、

少しだけ戻った。


ノイズが静まる。


彼女は目を見開く。


「……うそ」


風が止む。


ホームの人影たちが、

一斉にこちらを見る。


ざわめき。


ノイズ。


そして。


駅のアナウンスが流れた。


『まもなく——』


壊れた音声。


『終電が到着します』


時雨の顔から、

血の気が引く。


「終電……?」


湊は聞き返す。


「なんだそれ」


時雨は震える声で呟く。


「ダメ……」


遠くの闇の中から。


電車のライトが、

ゆっくり近づいてきていた。

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