第6話「帰れない駅」
時雨の身体は、
雨に滲むインクみたいに薄れていた。
輪郭が崩れ、
向こうの景色が透けて見える。
湊は立ち止まる。
目の前には柚葉。
後ろには時雨。
海風が吹き抜ける。
現実の路地はもう消えかけていた。
夕焼け。
波の音。
赤い空。
世界そのものが、
“向こう側”へ変わり始めている。
柚葉が微笑む。
『おいで』
その声は、
昔と同じだった。
高校の帰り道に聞いた声。
名前を呼ぶ時の優しい響き。
忘れたはずなのに、
身体が覚えている。
湊は唇を噛む。
「……なんで」
声が震えた。
「なんで消えたんだよ」
柚葉は少しだけ目を伏せる。
『忘れられなかったから』
波が揺れる。
黒いノイズが、
砂浜みたいに広がっていく。
『怖かったの』
『未来が』
その言葉に、
湊の胸が締め付けられる。
柚葉は昔から、
少し壊れそうな人だった。
笑っていても、
どこか寂しそうだった。
将来の話になると、
いつも黙っていた。
『このまま大人になるの嫌だな』
あの日、
海辺で彼女はそう言った。
湊は思い出す。
三年前の夏。
最後のデート。
夕焼けの海。
そして——。
『もし私が消えたら』
柚葉は笑っていた。
泣きそうな顔で。
『ちゃんと忘れてね』
頭痛が走る。
記憶が繋がっていく。
時雨が叫ぶ。
「思い出しすぎちゃダメ!!」
だが、
もう止まらなかった。
世界がノイズに侵食される。
ザザッ——。
空がひび割れる。
遠くで踏切が鳴っている。
カン、カン、カン——。
気づけば、
海は消えていた。
代わりに。
夕焼けの駅が広がっていた。
誰もいないホーム。
止まったままの電車。
古いベンチ。
そして、
大量の人影。
みんな、
ホームで誰かを待っている。
恋人。
家族。
友達。
帰ってこない誰かを。
その顔は曖昧だった。
輪郭が崩れ、
ノイズに溶けている。
ここが——向こう側。
時雨が苦しそうに呟く。
「帰れない駅……」
湊は呆然と周囲を見る。
現実感がない。
なのに。
妙に懐かしい。
放課後の匂い。
夕焼けの色。
青春だった頃の空気。
“戻りたい”と思ってしまう。
それが危険だった。
ホームにいた人影たちが、
一斉にこちらを見る。
空洞みたいな目。
そして。
『見つけた』
『やっと来た』
『帰ろう』
無数の声。
頭の中に直接響く。
湊は後退る。
すると、
柚葉がそっと手を握った。
冷たい。
でも優しかった。
『大丈夫』
『ここなら、
もう苦しくないから』
その瞬間。
ホームの奥のベンチに、
一人の少女が座っているのが見えた。
白いシャツ。
長い黒髪。
夕焼けを見つめる横顔。
湊の呼吸が止まる。
——本物だ。
今まで現れていた“柚葉”とは違う。
ノイズがない。
ちゃんと存在している。
柚葉は静かに振り返る。
そして、
少し困ったように笑った。
「……来ちゃったんだ」
涙が溢れそうになる。
湊は駆け出した。
「柚葉!!」
だが。
途中で、
時雨が湊の服を掴む。
「ダメ……!」
振り返る。
時雨は泣いていた。
「そこ行ったら、
本当に戻れなくなる」
「でも柚葉が……!」
「違う!!」
時雨の声が、
駅中に響く。
「それが本物でも、
ここは“過去”なの!」
夕焼けの風が吹く。
電車は来ない。
時間も進まない。
ここは、
忘れられなかった人間の墓場。
柚葉はベンチから立ち上がる。
そして静かに言った。
「時雨ちゃん」
時雨が息を止める。
柚葉は、
優しく笑った。
「……まだ残ってたんだ」
その言葉に、
時雨の瞳が揺れる。
まるで。
二人は、
昔から知り合いみたいだった。
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