第5話「海辺のノイズ」
ガンッ!!
ショーウィンドウが内側から叩かれる。
無数の黒い手。
ノイズでできた指先が、
ガラスを掻きむしる。
周囲の通行人たちは、
まるで見えていないみたいに歩き続けていた。
誰も気づかない。
いや。
“認識できない”のだ。
湊だけが、
その異常を見ている。
「っ……!」
後ずさる。
するとガラス越しの柚葉が、
ゆっくり笑った。
『湊くん』
その声だけが、
やけに鮮明だった。
『迎えに来て』
バキッ。
ガラスにヒビが入る。
次の瞬間。
誰かが湊の腕を掴んだ。
「走って!」
時雨だった。
彼女は湊を引っ張り、
人混みの中へ飛び込む。
後ろで、
ガラスが砕け散る音。
ザァァァッ——!!
振り返る。
黒いノイズが、
煙みたいに街へ溢れ出していた。
人々の隙間を縫いながら、
こちらへ伸びてくる。
時雨は必死に走る。
「見ちゃダメ!」
「見るほど引っ張られる!」
二人は細い路地へ飛び込んだ。
息が切れる。
雨上がりのアスファルト。
湿った空気。
遠くでサイレンが鳴っている。
時雨は壁に手をつき、
苦しそうに肩で息をした。
湊は混乱したまま叫ぶ。
「なんなんだよあれ……!」
「……向こう側」
「向こう側って何なんだよ!」
時雨は少し黙る。
それから、
静かに答えた。
「過去に飲まれた人たちがいる場所」
風が吹く。
路地の奥に、
古い自販機が並んでいた。
色褪せた看板。
消えかけたネオン。
全部、
どこか古い。
まるで時間から置き去りにされた空間。
時雨は俯いたまま言う。
「ノスタルジア汚染ってね、
病気じゃないの」
「現実から、
“過去”へ転落する現象なの」
湊は黙って聞いていた。
「強く思い出した人ほど、
向こう側に近づく」
「最初は幻覚だけ」
「でもそのうち、
過去と現実の境界が壊れる」
時雨の声は、
どこか震えていた。
「最後には、
帰れなくなる」
湊は思い出す。
ニュースで見た失踪者たち。
昔を繰り返し語っていた人間。
思い出に執着していた人たち。
みんな、
“向こう側”へ行ったのか。
「……柚葉も?」
その問いに、
時雨は目を伏せる。
沈黙。
それが答えだった。
湊は拳を握る。
「でも俺、
柚葉が死んだって聞いた」
「事故だったって……」
時雨は小さく首を振る。
「違う」
「柚葉さんは、
消えたの」
その瞬間。
湊の頭に、
ノイズみたいな記憶が流れ込んだ。
夏。
踏切。
泣いている柚葉。
『ごめんね』
世界が歪む。
頭痛。
耳鳴り。
時雨が慌てて肩を掴む。
「思い出しすぎちゃダメ!」
だが止まらない。
脳の奥に、
封じ込められていた記憶が浮かび上がる。
海。
夕焼け。
柚葉の背中。
『私ね』
振り返る笑顔。
でも次の瞬間、
その輪郭が崩れる。
黒い粒子になって。
砂みたいに。
消えていく。
湊は息を呑んだ。
「あ……」
膝から崩れ落ちる。
思い出した。
柚葉は事故で死んだんじゃない。
あの日。
自分の目の前で、
消えた。
ノイズになって。
世界から。
「……うそ、だろ」
手が震える。
時雨は静かに言った。
「現実は、
都合の悪い記憶を上書きする」
「じゃないと人は壊れるから」
だから湊は、
“事故死”だと思い込まされていた。
耐えられるように。
忘れられるように。
でも。
忘れきれなかった。
だから今、
また侵食が始まっている。
その時だった。
路地の奥から、
波の音が聞こえた。
ザァ——……
海なんて近くにない。
なのに。
潮の匂いがする。
時雨の顔色が変わる。
「まずい……」
路地の先。
夕焼けが見えた。
ありえない。
今は昼間だ。
なのに空が赤い。
そして。
そこに、
柚葉が立っていた。
白いワンピース。
裸足。
長い髪を風に揺らしている。
三年前のままの姿。
湊の呼吸が止まる。
「……柚葉」
彼女は静かに笑った。
今度は、
ノイズじゃない。
ちゃんと、
そこにいる。
『やっと来てくれた』
涙が出そうになる。
声も。
表情も。
全部、
本物だった。
湊は無意識に一歩踏み出す。
だが。
時雨が叫んだ。
「行っちゃダメ!!」
次の瞬間。
柚葉の足元から、
黒い波が広がった。
海水みたいなノイズ。
そこから、
無数の人影が浮かび上がる。
泣いている人。
笑っている人。
誰かを呼び続けている人。
みんな、
過去に囚われた顔をしていた。
柚葉は、
その中心で静かに微笑む。
『湊くん』
彼女が手を伸ばす。
『もう現実、
苦しいんでしょ?』
胸が痛む。
図星だった。
何も楽しくない毎日。
空っぽの部屋。
忘れられない喪失感。
柚葉は優しく囁く。
『こっちは、
寂しくないよ』
その言葉に、
心が揺れる。
一歩。
また一歩。
湊は海へ近づいていく。
すると。
時雨が、
震える声で呟いた。
「……湊くん」
振り返る。
彼女は泣きそうな顔をしていた。
「そっち行ったら、
私もう——」
言葉が途切れる。
時雨の身体が、
透け始めていた。
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