第4話「思い出依存症」


黒い手は、

テレビ画面から這い出るように伸びてきた。


ノイズの塊みたいな腕。


輪郭が崩れ、

砂嵐みたいにちらついている。


湊は息を呑んだ。


その手が、

こちらへ向かってくる。


「下がって!」


時雨が湊を突き飛ばす。


次の瞬間。


黒い手が床を掴んだ。


バキ、とフローリングがひび割れる。


ありえない。


映像だったはずなのに。


時雨は震える声で呟く。


「侵食速度が早すぎる……」


テレビの中で、

“柚葉”がゆっくり笑う。


『湊くん』


声が歪んでいる。


ノイズが混じる。


『会いたかった』


その言葉に、

胸が痛む。


本物じゃない。


頭では分かっている。


なのに。


心だけが、

あの声に引っ張られる。


黒い手が再び伸びる。


湊は後ずさった。


その瞬間。


時雨が近くにあったリモコンを掴み、

テレビへ投げつける。


ガンッ!!


画面が割れる。


火花。


ノイズ。


そして——静寂。


テレビは真っ暗になった。


部屋に沈黙が落ちる。


湊はその場に崩れ落ちた。


呼吸が乱れている。


時雨は壁にもたれながら、

苦しそうに息をしていた。


彼女の身体が、

少し透けている。


「……お前」


「平気」


そう言った声は、

全然平気じゃなかった。


輪郭が不安定だ。


砂みたいに崩れかけている。


「無理すると、

存在が薄くなるの」


湊は何も言えなかった。


時雨はゆっくり座り込む。


「向こう側に近づきすぎると、

現実に居られなくなる」


「それがノスタルジア汚染」


窓の外では、

朝が始まっていた。


通勤する人々。


無表情な街。


誰も昔を見ない。


広告モニターには、

政府の警告映像が流れている。


【過去への執着は危険です】


【思い出依存症は重度精神感染へ繋がります】


【古い映像媒体は処分してください】


世界は、

懐かしさを禁止し始めていた。


時雨がぽつりと言う。


「でもね」


「人間って、

忘れたいほど思い出すんだよ」


その言葉が、

妙に胸に刺さった。


湊は視線を落とす。


「……俺、

柚葉を忘れたくない」


時雨は少し黙る。


そして、

小さく笑った。


「うん。知ってる」


その笑顔が、

ひどく寂しそうだった。


昼過ぎ。


湊は外へ出た。


食料を買うためだったが、

本当は部屋に居たくなかった。


歩いているだけで、

現実感が薄い。


街は以前より静かだった。


レコードショップは閉店。


レンタルビデオ店も消えた。


中古ゲーム屋には、

「営業終了」の張り紙。


思い出になるものは、

全部処分されていく。


交差点の大型モニターでは、

ニュースが流れていた。


【若者を中心に“懐古ドラッグ”が流行】


映像が切り替わる。


地下クラブ。


暗い部屋。


古い音楽。


泣きながら笑う若者たち。


【過去の映像や音楽を用い、

強制的にノスタルジア症状を引き起こす違法行為——】


湊は足を止める。


インタビュー映像。


若い男が笑っていた。


『現実より、

昔の方が綺麗だから』


その目は、

どこか壊れていた。


『向こう側は、

痛くないんだよ』


ブツン。


映像が切り替わる。


失踪者一覧。


そして。


その中に、

見覚えのある名前が映った。


——結城 柚葉。


湊の呼吸が止まる。


画面には、

高校時代の写真。


笑っている柚葉。


横には文字。


【三年前失踪】


【ノスタルジア汚染重度感染者】


「……失踪?」


湊は呟く。


違和感。


三年前。


柚葉は、

“事故死”したはずだ。


そう聞かされていた。


なのに。


ニュースでは、

失踪扱いになっている。


記憶が噛み合わない。


頭痛が走る。


その瞬間。


誰かが、

背後で囁いた。


「気づいちゃった?」


振り返る。


誰もいない。


だが。


ガラス越しのショーウィンドウに、

柚葉が映っていた。


白い服。


泣きそうな笑顔。


彼女は口を動かす。


『思い出して』


次の瞬間。


ショーウィンドウ全体に、

黒いノイズが広がった。


そして、

ガラスの奥から、

大量の手がこちらへ伸びてきた。

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