第3話「消えた恋人」
翌朝。
目が覚めた瞬間、
湊は違和感に気づいた。
静かすぎる。
雨は止んでいた。
窓から朝日が差し込んでいる。
なのに。
部屋の空気だけが、
夜の続きを引きずっていた。
湊はゆっくり身体を起こす。
ソファで寝落ちしていたらしい。
首が痛い。
「……夢、か?」
昨夜の出来事を思い返す。
逆回転する時計。
テレビに映った柚葉。
そして、
時雨という少女。
だが。
部屋には誰もいなかった。
白いワンピースの少女も、
異常なノイズもない。
時計も普通に動いている。
全部幻覚だったのか。
ノスタルジア汚染による、
初期症状。
そう考えた瞬間。
机の上に、
見覚えのないものを見つけた。
濡れた足跡。
裸足のまま歩いたような、
小さな水跡。
それが窓際まで続いている。
湊の背筋が冷えた。
夢じゃない。
スマホが震える。
メッセージアプリ。
大学時代の友人、
高瀬春斗からだった。
『おい、今日ニュース見たか?』
続けてURL。
湊は開く。
ニュース映像。
【昨夜未明、大阪市内で男性一名が失踪】
【現場からは大量の古い写真が発見され——】
映像に映った部屋を見て、
湊は息を止めた。
壁一面に貼られた写真。
カセットテープ。
古いゲーム機。
“思い出”だらけの部屋。
そして。
その部屋の壁に、
黒い染みみたいなものが広がっていた。
ノイズに似ている。
レポーターが言う。
【近隣住民によると、男性は最近——】
『昔は良かった』と繰り返していたそうです』
画面が切り替わる。
専門家コメント。
【ノスタルジア汚染は、
強い懐古感情によって現実認識が崩壊する現象です】
【現在、“思い出依存症候群”との関連も——】
湊は動画を閉じた。
胃の奥が気持ち悪い。
そこへ、
再び通知が来る。
春斗から。
『お前、大丈夫だよな?』
『最近かなり危なそうだったし』
指が止まる。
危なそう。
その言葉が引っかかった。
湊は返信する。
『俺、最近なんか変だった?』
既読はすぐについた。
だが、
返事は少し遅れた。
そして送られてきたのは、
短い文章。
『お前、柚葉の話ばっかしてたぞ』
湊の呼吸が止まる。
——嘘だ。
ここ数年、
柚葉の名前なんて出していない。
出せなかった。
思い出すのが怖かったから。
なのに。
春斗からさらにメッセージ。
『昨日も飲みながらずっと探してたじゃん』
『“柚葉が消えた日”の話』
『覚えてないのか?』
スマホを持つ手が震えた。
記憶がない。
昨日、
春斗と会った記憶すらない。
湊は急いで通話をかけた。
数回のコール。
春斗が出る。
『お、おい湊?』
「俺、昨日お前と会った?」
『は?』
電話の向こうで、
妙な沈黙。
『何言ってんだよ』
『駅前で飲んだだろ』
「……覚えてない」
『お前マジで顔色やばかったぞ』
雑音が混じる。
ザッ——。
一瞬、
音声が乱れた。
その奥で。
『……湊くん』
女の声が聞こえた。
柚葉の声だった。
湊は立ち上がる。
「春斗、お前今誰かといるのか!?」
『は? 一人だけど』
またノイズ。
そして。
『まだ私を忘れてないんだ』
耳元で囁くような声。
通話が切れた。
ブツン。
部屋が静まり返る。
次の瞬間。
テレビが勝手につく。
また砂嵐。
ザーッ——。
そして、
画面の中に駅が映る。
夕焼けのホーム。
ベンチ。
そこに、
柚葉が座っている。
今度ははっきり見えた。
彼女は泣いていた。
『湊くん』
声が聞こえる。
今度はちゃんと。
『どうして忘れてくれなかったの』
その瞬間。
画面の奥から、
無数の人影が現れる。
ホームに立ち尽くす人々。
みんな、
誰かを探している。
恋人。
家族。
友達。
そして全員、
輪郭が崩れていた。
ノイズみたいに。
柚葉が言う。
『ここ、
寂しいよ』
湊は無意識に、
テレビへ近づいていた。
一歩。
また一歩。
画面の奥から、
潮風の匂いがする。
夕焼けの熱。
電車のブレーキ音。
現実よりも、
そっちの方が鮮明だった。
その時。
後ろから、
強い力で腕を引かれる。
「ダメ!!」
時雨だった。
いつの間にか、
部屋にいた。
彼女は必死な顔で、
湊を引き戻す。
「今行ったら戻れない!」
「離せ……! 柚葉が——」
「それ、本当に柚葉なの!?」
時雨の叫びで、
湊の動きが止まる。
テレビの中の柚葉は、
静かにこちらを見ていた。
でも。
よく見ると。
笑い方が、
少し違う。
目の動きも。
表情も。
まるで、
“柚葉を真似している何か”。
時雨が震える声で言う。
「向こう側は、
人の記憶を使って呼び込むの」
「一番忘れられない姿で」
テレビの柚葉が、
ゆっくり口を開く。
『邪魔しないで』
その瞬間。
画面の中から、
黒い手が伸びた。
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