第2話「過去にいる少女」
雨はまだ降っていた。
窓ガラスを伝う雫が、
ゆっくり逆流していく。
まるで世界そのものが、
壊れ始めているみたいだった。
湊は言葉を失ったまま、
目の前の少女を見つめる。
白いワンピース。
濡れた黒髪。
細い肩。
どこか現実感がない。
輪郭が、
少しだけ滲んで見える。
「……誰なんだよ、お前」
喉が乾いていた。
少女は首を傾げる。
「それ、本気で聞いてる?」
「ふざけんな。勝手に人の部屋入ってきて……」
「入ったんじゃないよ」
彼女は静かに笑った。
「湊くんが、“思い出した”から来れたの」
意味が分からない。
でも。
さっきから胸の奥がざわついている。
本能が警告していた。
——関わるな。
この少女は危険だ、と。
少女は部屋を見回した。
棚のマグカップ。
古い本。
机の端に残った映画の半券。
その全部を見て、
少し寂しそうに笑う。
「まだ残ってるんだ」
湊は反射的に半券を隠した。
「見るな」
「それ、柚葉さんと行った映画でしょ」
空気が止まった。
「……なんで知ってる」
少女は答えない。
代わりに、
窓の外を見つめる。
「ねぇ湊くん」
彼女は小さく呟く。
「最近、昔の夢ばっかり見てない?」
心臓が跳ねる。
図星だった。
ここ数ヶ月、
同じ夢を見る。
夏の帰り道。
踏切。
夕焼け。
そして、
振り返る柚葉。
夢の中の彼女は、
いつも何かを伝えようとしていた。
だが、
声だけが聞こえない。
「……お前、何者だよ」
少女は少し黙ってから、
静かに言った。
「私は時雨(しぐれ)」
「時雨……」
「“向こう側”から来たの」
また意味の分からない言葉。
だが、
嘘をついている感じはしない。
むしろ、
この部屋の空気そのものが異常だった。
時計はまだ逆回転している。
冷蔵庫の音が途切れ、
代わりに遠くの踏切音が聞こえる。
カン、カン、カン——
ここはマンションの四階だ。
近くに踏切なんてない。
湊の背筋に寒気が走る。
時雨は、
その音を懐かしそうに聞いていた。
「もう近いんだ」
「……何が」
「過去が」
その瞬間。
部屋の照明が落ちた。
真っ暗になる。
湊は息を呑む。
数秒後。
テレビだけが、
勝手についた。
砂嵐。
ザーッというノイズ。
そして。
映像が映る。
夕暮れの駅だった。
誰もいないホーム。
止まった電車。
赤く染まる空。
画面の奥で、
誰かが座っている。
柚葉だった。
三年前と同じ姿。
白いシャツ。
長い髪。
笑っている。
『湊くん』
テレビの中の柚葉が、
こちらを見る。
『迎えに来て』
湊は立ち上がった。
「柚葉……!」
だが、
時雨が腕を掴む。
冷たい手だった。
死人みたいに。
「行っちゃダメ」
「離せ!」
「今行ったら戻れない」
その瞬間。
テレビ画面が大きく歪む。
柚葉の顔が、
ノイズみたいに崩れ始めた。
目が溶ける。
口が裂ける。
黒い粒子が、
画面の中を舞っていく。
それでも彼女は笑っていた。
『ねぇ』
壊れた音声。
『まだ、私を——』
ブツン。
映像が消えた。
静寂。
湊はその場に立ち尽くす。
呼吸が乱れていた。
時雨は小さく呟く。
「……もうかなり侵食されてる」
「侵食?」
「ノスタルジア汚染は病気じゃないの」
彼女は、
ゆっくり湊を見る。
「“過去”に引っ張られる現象」
「強く思い出した人から、
現実に居られなくなる」
雨音だけが響く。
湊は震える声で聞いた。
「……柚葉は、生きてるのか」
時雨は答えなかった。
ただ、
少しだけ悲しそうに目を伏せる。
その沈黙が、
答えだった。
そして彼女は、
静かに言う。
「湊くん。あなた、最近——」
一瞬、
言葉を止める。
「自分の記憶、
抜け落ち始めてない?」
湊は何も言えない。
あった。
確かに。
昨日の昼を思い出せない。
高校時代の友達の顔も曖昧だ。
そして何より。
柚葉との“別れ方”だけが、
どうしても思い出せない。
まるでそこだけ、
切り取られたみたいに。
時雨は、
そんな湊を見て呟く。
「始まってる」
「現実から、
消える準備が」
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