『ノスタルジア汚染』

黒宮 ノア

第1話 「思い出した人から消えていく」


雨の日だった。


駅前のアーケードには、

古い音楽が流れていた。


二〇一〇年代に流行った失恋ソング。


誰かが「懐かしい」と呟いた瞬間、

通行人たちが一斉に顔をしかめる。


店員が慌てて曲を止めた。


空気が凍る。


——今の時代、

“懐かしい”は危険な言葉だった。


朝倉湊は、

コンビニの袋を片手にその光景を見ていた。


誰も口にはしない。


でも皆、

知っている。


過去を強く思い出した人間は、

消える。


それが“ノスタルジア汚染”。


三年前から広がり始めた、

原因不明の精神感染。


最初は夢を見るだけ。


次に、

昔の声が聞こえる。


最後には、

現実より過去を選ぶようになる。


そして人は、

ある日突然いなくなる。


痕跡も残さず。


まるで最初から存在していなかったみたいに。


「……帰るか」


湊は目を逸らし、

歩き出した。


イヤホンはしていない。


昔の曲を避けるためだ。


アルバムも全部捨てた。


高校の卒業写真も、

元恋人とのトーク履歴も。


この世界では、

忘れることが生存本能だった。


なのに。


どうしても捨てられなかったものが、

一つだけある。


帰宅した湊は、

暗い部屋の電気をつける。


ワンルーム。


静かな部屋。


冷蔵庫の低い音だけが響く。


その棚の端に、

白いマグカップが置かれていた。


花柄の、

少し欠けたマグカップ。


柚葉が使っていたものだ。


「……また置きっぱなしか」


捨てればいい。


何度も思った。


でも触れるたびに、

胸が苦しくなる。


湊は視線を逸らし、

ソファへ倒れ込んだ。


スマホを開く。


SNS。


流れてくるのは、

“記憶対策”の話ばかり。


【昔の写真を見ない習慣】


【思い出依存を防ぐ五つの方法】


【ノスタルジア汚染セルフチェック】


湊は無意識にスクロールを止める。


そこに、

一枚の画像広告が流れてきた。


海だった。


夕暮れの砂浜。


見覚えがある。


——柚葉と最後に行った場所。


心臓が跳ねた。


指先が止まる。


波の音。

潮風。

夏の匂い。


忘れたはずの記憶が、

頭の奥から浮かび上がってくる。


『湊くんさ』


あの日の声。


『もし私が消えたら、ちゃんと忘れてね』


「……っ」


呼吸が浅くなる。


ダメだ。


思い出すな。


湊は慌ててスマホを閉じた。


だが。


——ピコン。


通知音。


画面が点灯する。


非通知メッセージ。


送り主不明。


本文は一行だけだった。


『ねぇ、まだ私を思い出してる?』


湊の全身が凍りつく。


その瞬間。


部屋の電気が、

一瞬だけ明滅した。


ジジッ——と、

ノイズが走る。


壁掛け時計を見る。


秒針が逆回転していた。


「……は?」


カチ。


カチ。


カチ。


時間が、

巻き戻っていく。


すると突然、

部屋の奥から声がした。


「やっと反応した」


知らない女の声。


湊は勢いよく振り返る。


誰もいないはずの部屋。


なのに。


窓際に、

少女が立っていた。


白いワンピース。


濡れた黒髪。


裸足。


夜の雨みたいな瞳。


そして——


どこか、

柚葉に似ていた。


少女は静かに笑う。


「こんばんは、湊くん」


「……誰だよ、お前」


「忘れちゃった?」


彼女はゆっくり近づいてくる。


足音はしない。


まるで幽霊みたいに。


湊は後ずさる。


「入ってくんな……!」


「でも、もう遅いよ」


少女は、

少し悲しそうに笑った。


「湊くん、感染してるから」


その言葉と同時に。


窓の外を歩いていた通行人が、

突然ノイズみたいに崩れた。


砂みたいに。


黒い粒子になって。


そして、

消えた。


世界から。


湊は息を呑む。


少女は静かに囁く。


「思い出した人から、消えていくの」


その瞬間。


湊のスマホ画面に、

再び通知が表示される。


『迎えに来て』


添付画像。


夕暮れの駅。


誰もいないホーム。


そして、

ベンチに座る柚葉が、

こちらを見て笑っていた。

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