第4話 豊田の異物
眠れなかった朝は、脚がよく回る。
榊颯真は、そういう自分の身体を、あまり信用していなかった。
机の上に、メモ帳が開いたままになっていた。
その隣に、飲みかけのコーヒー。すっかり冷めて、表面に薄い膜が張っている。
スマートフォンの画面には、昨夜マスターから送られてきた古い記事の写真が、まだ残っていた。
風鷹、パリを制す。
勝ったのは、日本人ではなかった。
窓の外では、豊田の朝が始まっていた。工場へ向かう車。遠くの幹線道路。坂の方から、湿った風が降りてくる。
颯真はメモ帳を閉じ、ウェアに袖を通した。
心拍計をつけた。パワーメーターも、サイクルコンピューターに表示されている。練習メニューも、一応はある。
一応は。
アップのはずだった。だが信号が青に変わった瞬間、脚が勝手に踏んでいた。出力が三百ワットを超える。心拍が跳ねる。颯真は、それを止めなかった。
通勤のクロスバイクを一台、抜く。抜くだけでよかったのに、抜いてから、なぜか加速した。
緩い登りで、昨夜のパリの映像が頭をよぎる。残り三キロ。日の丸。十九位。
気づくと、メニューより二枚重いギアを踏んでいた。
待てない。
昔から、そうだった。
坂を登りきると、豊田の街が朝の光の中に広がった。工場の屋根。住宅地。遠くの山並み。
この坂を、颯真は、子どもの頃から知っている。
*
豊田は、車の街だ。
広い道路。大きな工場。少し走れば、山がある。休日になると、ロードバイクの集団が、列を作って山へ向かっていく。
子どもの颯真は、集団というものが、苦手だった。
学校の整列。部活の号令。みんなで合わせるテンポ。
待て。
勝手に動くな。
空気を読め。
その言葉が、どうしても身体に馴染まなかった。なぜ、いま踏んではいけないのか。なぜ、いま行ってはいけないのか。理由を聞くと、たいてい大人は、困った顔をした。
でも、自転車は違った。
踏めば、進む。
止めれば、止まる。
道は、嘘をつかない。
脚が足りなければ、遅れる。
脚があれば、前に出られる。
誰の顔色も、関係なかった。
自転車は、颯真にとって初めて、空気を読まなくていい場所だった。
先生に怒られても、心のどこかでは、こう思っていた。
でも、速かったし。
暗い子どもではなかった。むしろ、うるさいくらい前向きだった。叱られた帰り道、友達に「お前、よく怒られるな」と言われて、颯真はけろっと笑った。
「だって、道に聞いたら、行けって言ったし」
*
その性分は、ジュニアになっても、何ひとつ変わらなかった。
全日本ジュニアロード中部予選。豊田山岳ステージ。
地元の、レースだった。
スタート前、監督が颯真の肩を叩いた。
「今日は残れ。勝ちに行くな。最後まで集団にいろ」
正しい指示だった。相手は強豪校。颯真はまだ脚だけの一年で、経験がない。集団に残り、最後まで脚を温存する。教科書通りの、正しい走り方だ。
「はい」
颯真は、返事をした。
ただ、目が笑っていた。
隣で、チームメイトの拓海が、呆れた顔をした。
「お前、絶対聞いてねえだろ」
「聞いてる」颯真は言った。「守るとは言ってない」
「最悪だ」
豊田山岳ステージは、距離だけ見れば、大したことはない。八十キロ。獲得標高、千五百メートル。一発の超級山岳があるわけでもない。
だが、休める平坦が、ほとんどない。足助のローリング。香嵐渓の人混み。奥の登坂。テクニカルな下り。終盤の、小刻みな登り返し。
脚を削られ、リズムを乱され、補給のタイミングを狂わされ、最後に判断力が残っている者だけが、勝負できる。
地元では、こう言われていた。
豊田山岳は、脚より先に頭が切れる。
*
序盤、颯真は、珍しく我慢した。
市街地を抜け、足助へ向かう登り基調の道。集団はまだ大きく、強豪校が前を固めている。颯真は番手を上げすぎず、中ほどに身を置いた。
監督は、チームカーで小さく頷いた。よし、今日は聞いている。
だが、颯真は、我慢していたのではなかった。
見ていた。
誰が、登りで口を開けたか。
誰が、下りの入口でブレーキを早く握ったか。
誰が、補給のあと、列に戻るのにもたついたか。
誰が、強いふりをしているか。
香嵐渓の手前。観客が増える。橋の上、川沿い、古い店の前。川面の光。橋の欄干に並ぶ観客。学校名の旗。地元の子どもたち。
拓海が、横に並んだ。
「榊、まだ行くなよ」
「行かねえよ」
「今の返事、お前の中で一番、信用できないやつだぞ」
颯真は笑った。
けれど、目は、もう笑っていなかった。
足助の奥。メインの登坂に入った。
六キロ。林の中。湿気。荒れた路面。観客が、消える。
強豪校が、ペースを上げた。集団が、みるみる削られていく。三十人が、二十人になり、十五人になる。
無線で、監督の声がした。
『榊、ここは耐えろ。絶対に前へ出るな。頂上まで残れ』
颯真は、耐えた。
珍しく、前に出なかった。
ただ、苦しい顔は、していなかった。
彼は、前の選手の呼吸を、聞いていた。
先頭で牽く強豪校のエースが、肩を揺らし始める。別の一人が、ボトルを戻すのに、わずかに手間取る。そして、頂上が見えてきたとき――牽いていた選手が、ほんの少しだけ、緩めた。
誰もが、ほっとした、その瞬間だった。
頂上を越えれば、下り。みんな、呼吸を整えたい。削られた脚を、少しだけ休めたい。
つまり、誰も、行きたくない場所だった。
颯真が、シフトを上げた。
立ち上がる。ダンシング。斜度が緩んだ、その一瞬で。
「おい、榊!」拓海が叫んだ。
無線が、割れた。
『まだだ! 榊、まだ行くな!』
颯真は、振り返らなかった。
ここで行くから、意味がある。
誰でも行けるところで行って、何が違うんだよ。
頂上を越えた。
下りが、始まる。
八キロの、テクニカルダウンヒル。連続するカーブ。広すぎない道幅。木陰で、路面の色が変わる。一部だけ、濡れている。
颯真は、突っ込んだ。
ブレーキが、遅い。
だが、無茶ではない。
出口を、見ている。路面の色を、読んでいる。湿った部分を、ラインで避ける。車体が寝る。立ち上がる。また寝る。継ぎ目を、踏まない。
後ろを追う選手たちが、カーブのたびに、わずかに離れていく。
中継バイクのカメラが、颯真を捉えた。
チームカーの中で、若いスタッフが、画面を覗き込んで、声を漏らした。
「……あいつ、笑ってます」
監督は、画面を見なかった。前を向いたまま、低く言った。
「知ってる。だから、怖いんだ」
下りきったとき、颯真は、単独で前にいた。
差は、二十秒。
だが、ここからが、地獄だった。
平坦と、小刻みな登り返し。単独走は、風を全部、自分で受ける。後ろでは、強豪校が二校、列車を組んで追ってくる。
残り十キロ。差、二十秒。
残り七キロ。差、十五秒。
残り五キロ。差、十二秒。
削られていく。
颯真の上半身が、揺れ始めた。ペダリングの円が、潰れる。太腿の奥で、火が、消えかけている。
戻れば、楽になる。後ろに下がって、スプリント勝負に賭ける手もある。
でも、戻ったら――普通になる。
残り三キロ。差、八秒。
残り二キロ。差、五秒。
沿道の声が、迫ってくる。
「逃げろ!」
「残れ!」
「後ろ、来てるぞ!」
颯真は、後ろを見なかった。
見たら、終わるから。
最後は、緩い登り基調の、直線だった。
下りのスペシャリストが、最後に、登りで耐える。
ゴールゲートが見える。後ろから、強豪校のエースが、猛烈に伸びてくる。
颯真の視界が、狭くなった。耳鳴り。呼吸。太腿が、焼ける。
最後の三十メートル。横に、後ろの選手の前輪が、見えた。
「残れよ、俺!」
誰に言うでもなく、自分に、叫んだ。
ハンドルを、投げる。
半車輪。
榊颯真が、白線を、先に越えた。
ゴールの先で、颯真は崩れ落ちた。バイクごと、芝の上に転がる。水をかけられる。拓海が駆け寄ってくる。観客が、沸いていた。
しばらくして、監督が来た。
颯真は、寝転んだまま、笑った。
「勝ちましたよ」
「普通は、負ける走りだ」と、監督は言った。
「普通なら、負けるんですよね」
「褒めてない」
「でも、勝ちました」
監督は、何か言いかけて、やめた。ただ、長いため息をついて、颯真の頭に、タオルを一枚、放った。
*
もし、勝ちだけなら、ただの天才だった。
颯真は、壊れた。
次のレース。颯真は、また同じように、行った。
だが、今度は、世界が、彼に合わせてくれなかった。
相手は、颯真を警戒していた。彼が動いた瞬間、集団がすぐに反応する。下りで、差が思ったほど開かない。向かい風。補給は、失敗した。
それでも、颯真は引いた。意地で、踏み続けた。逃げ続けた。
残り十キロで、吸収された。
残り六キロで、千切れた。
残り三キロで、脚が、攣った。
DNF。
颯真は、ガードレールに、座り込んでいた。
靴が、脱げない。ボトルを持つ手が、震えている。胃の底が、ひっくり返りそうだった。観客の拍手が、やけに、遠い。
拓海が、タオルをかけてくれた。
「惜しかったな」
「惜しくない」
颯真は言った。
「いや、あれだけ逃げたんだから」
「勝ってない」
拓海は、何も言えなくなった。
颯真にとって、「惜しかった」は、慰めではなかった。
負けを、きれいに包む言葉だった。
*
その勝利と、そのDNFで、颯真の評価は、決まった。
計算できない。
放っておけない。
彼が動くと、レースが壊れる。
才能はある。だが、代表向きではない。
――でも、勝つなら、あいつかもしれない。
専門誌の見出しが、それを、ひと言にした。
“榊颯真、またもDNF リタイアか、優勝か”
その記事を、颯真は、スマホで見た。
拓海が、隣から覗き込んで、笑った。
「悪口だろ、これ」
「優勝って入ってるから、セーフ」
颯真は、軽く流した。
その夜、一人になってから、彼は新しいメモ帳を開いた。
一ページ目に、二行だけ書いた。
優れるな。
異なれ。
優れる、は、みんなと同じ強さを、もっと高くすることだ。正しい選手に、なることだ。
でも、それでは、勝てない。少なくとも、自分は。
だから――異なれ。
馴染めないことを、欠陥のままにするな。それを、武器にしろ。
誰にも、見せるつもりのない言葉だった。
*
その記事が出て、しばらく経った頃。
早朝練習の帰り、颯真は、いつもの喫茶店に寄った。
マスターが、黙ってコーヒーを出す。
「また、寝てない顔しとる」
「寝てない時の方が、脚回るんすよ」
「早死にするぞ」
「勝ってから、にします」
マスターが、小さく笑った。
そのとき、テーブルの上で、スマートフォンが震えた。
英語の、メールだった。
差出人は、英国の名門ワールドチーム。その、スカウト部門。
件名。
Regarding your future
本文の、最初の一行。
We have been watching your races.
颯真は、しばらく、画面を見ていた。
マスターが、カウンターの向こうから聞いた。
「なんだ」
「見てたらしいです」
颯真は、顔を上げた。
「何を」
颯真は、笑った。少し、間を置いて、言った。
「俺が勝ったやつと――盛大に、死んだやつ」
マスターが、声を出して笑った。
颯真は、コーヒーを、一口飲んだ。
苦かった。
でも、目は、笑っていた。
失敗を恐れない走りは、海の向こうにも、届いていた。
一センチの日本 ―風鷹の国― シハオン @shihaon
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