第4話 豊田の異物

 眠れなかった朝は、脚がよく回る。


 榊颯真は、そういう自分の身体を、あまり信用していなかった。


 机の上に、メモ帳が開いたままになっていた。

 その隣に、飲みかけのコーヒー。すっかり冷めて、表面に薄い膜が張っている。

 スマートフォンの画面には、昨夜マスターから送られてきた古い記事の写真が、まだ残っていた。


 風鷹、パリを制す。


 勝ったのは、日本人ではなかった。


 窓の外では、豊田の朝が始まっていた。工場へ向かう車。遠くの幹線道路。坂の方から、湿った風が降りてくる。


 颯真はメモ帳を閉じ、ウェアに袖を通した。


 心拍計をつけた。パワーメーターも、サイクルコンピューターに表示されている。練習メニューも、一応はある。


 一応は。


 アップのはずだった。だが信号が青に変わった瞬間、脚が勝手に踏んでいた。出力が三百ワットを超える。心拍が跳ねる。颯真は、それを止めなかった。


 通勤のクロスバイクを一台、抜く。抜くだけでよかったのに、抜いてから、なぜか加速した。


 緩い登りで、昨夜のパリの映像が頭をよぎる。残り三キロ。日の丸。十九位。


 気づくと、メニューより二枚重いギアを踏んでいた。


 待てない。


 昔から、そうだった。


 坂を登りきると、豊田の街が朝の光の中に広がった。工場の屋根。住宅地。遠くの山並み。


 この坂を、颯真は、子どもの頃から知っている。



 豊田は、車の街だ。


 広い道路。大きな工場。少し走れば、山がある。休日になると、ロードバイクの集団が、列を作って山へ向かっていく。


 子どもの颯真は、集団というものが、苦手だった。


 学校の整列。部活の号令。みんなで合わせるテンポ。


 待て。

 勝手に動くな。

 空気を読め。


 その言葉が、どうしても身体に馴染まなかった。なぜ、いま踏んではいけないのか。なぜ、いま行ってはいけないのか。理由を聞くと、たいてい大人は、困った顔をした。


 でも、自転車は違った。


 踏めば、進む。

 止めれば、止まる。

 道は、嘘をつかない。

 脚が足りなければ、遅れる。

 脚があれば、前に出られる。


 誰の顔色も、関係なかった。


 自転車は、颯真にとって初めて、空気を読まなくていい場所だった。


 先生に怒られても、心のどこかでは、こう思っていた。


 でも、速かったし。


 暗い子どもではなかった。むしろ、うるさいくらい前向きだった。叱られた帰り道、友達に「お前、よく怒られるな」と言われて、颯真はけろっと笑った。


「だって、道に聞いたら、行けって言ったし」



 その性分は、ジュニアになっても、何ひとつ変わらなかった。


 全日本ジュニアロード中部予選。豊田山岳ステージ。


 地元の、レースだった。


 スタート前、監督が颯真の肩を叩いた。


「今日は残れ。勝ちに行くな。最後まで集団にいろ」


 正しい指示だった。相手は強豪校。颯真はまだ脚だけの一年で、経験がない。集団に残り、最後まで脚を温存する。教科書通りの、正しい走り方だ。


「はい」


 颯真は、返事をした。


 ただ、目が笑っていた。


 隣で、チームメイトの拓海が、呆れた顔をした。


「お前、絶対聞いてねえだろ」


「聞いてる」颯真は言った。「守るとは言ってない」


「最悪だ」


 豊田山岳ステージは、距離だけ見れば、大したことはない。八十キロ。獲得標高、千五百メートル。一発の超級山岳があるわけでもない。


 だが、休める平坦が、ほとんどない。足助のローリング。香嵐渓の人混み。奥の登坂。テクニカルな下り。終盤の、小刻みな登り返し。


 脚を削られ、リズムを乱され、補給のタイミングを狂わされ、最後に判断力が残っている者だけが、勝負できる。


 地元では、こう言われていた。


 豊田山岳は、脚より先に頭が切れる。



 序盤、颯真は、珍しく我慢した。


 市街地を抜け、足助へ向かう登り基調の道。集団はまだ大きく、強豪校が前を固めている。颯真は番手を上げすぎず、中ほどに身を置いた。


 監督は、チームカーで小さく頷いた。よし、今日は聞いている。


 だが、颯真は、我慢していたのではなかった。


 見ていた。


 誰が、登りで口を開けたか。

 誰が、下りの入口でブレーキを早く握ったか。

 誰が、補給のあと、列に戻るのにもたついたか。

 誰が、強いふりをしているか。


 香嵐渓の手前。観客が増える。橋の上、川沿い、古い店の前。川面の光。橋の欄干に並ぶ観客。学校名の旗。地元の子どもたち。


 拓海が、横に並んだ。


「榊、まだ行くなよ」


「行かねえよ」


「今の返事、お前の中で一番、信用できないやつだぞ」


 颯真は笑った。


 けれど、目は、もう笑っていなかった。


 足助の奥。メインの登坂に入った。


 六キロ。林の中。湿気。荒れた路面。観客が、消える。


 強豪校が、ペースを上げた。集団が、みるみる削られていく。三十人が、二十人になり、十五人になる。


 無線で、監督の声がした。


『榊、ここは耐えろ。絶対に前へ出るな。頂上まで残れ』


 颯真は、耐えた。


 珍しく、前に出なかった。


 ただ、苦しい顔は、していなかった。


 彼は、前の選手の呼吸を、聞いていた。


 先頭で牽く強豪校のエースが、肩を揺らし始める。別の一人が、ボトルを戻すのに、わずかに手間取る。そして、頂上が見えてきたとき――牽いていた選手が、ほんの少しだけ、緩めた。


 誰もが、ほっとした、その瞬間だった。


 頂上を越えれば、下り。みんな、呼吸を整えたい。削られた脚を、少しだけ休めたい。


 つまり、誰も、行きたくない場所だった。


 颯真が、シフトを上げた。


 立ち上がる。ダンシング。斜度が緩んだ、その一瞬で。


「おい、榊!」拓海が叫んだ。


 無線が、割れた。


『まだだ! 榊、まだ行くな!』


 颯真は、振り返らなかった。


 ここで行くから、意味がある。

 誰でも行けるところで行って、何が違うんだよ。


 頂上を越えた。


 下りが、始まる。


 八キロの、テクニカルダウンヒル。連続するカーブ。広すぎない道幅。木陰で、路面の色が変わる。一部だけ、濡れている。


 颯真は、突っ込んだ。


 ブレーキが、遅い。

 だが、無茶ではない。


 出口を、見ている。路面の色を、読んでいる。湿った部分を、ラインで避ける。車体が寝る。立ち上がる。また寝る。継ぎ目を、踏まない。


 後ろを追う選手たちが、カーブのたびに、わずかに離れていく。


 中継バイクのカメラが、颯真を捉えた。


 チームカーの中で、若いスタッフが、画面を覗き込んで、声を漏らした。


「……あいつ、笑ってます」


 監督は、画面を見なかった。前を向いたまま、低く言った。


「知ってる。だから、怖いんだ」


 下りきったとき、颯真は、単独で前にいた。


 差は、二十秒。


 だが、ここからが、地獄だった。


 平坦と、小刻みな登り返し。単独走は、風を全部、自分で受ける。後ろでは、強豪校が二校、列車を組んで追ってくる。


 残り十キロ。差、二十秒。

 残り七キロ。差、十五秒。

 残り五キロ。差、十二秒。


 削られていく。


 颯真の上半身が、揺れ始めた。ペダリングの円が、潰れる。太腿の奥で、火が、消えかけている。


 戻れば、楽になる。後ろに下がって、スプリント勝負に賭ける手もある。


 でも、戻ったら――普通になる。


 残り三キロ。差、八秒。

 残り二キロ。差、五秒。


 沿道の声が、迫ってくる。


「逃げろ!」

「残れ!」

「後ろ、来てるぞ!」


 颯真は、後ろを見なかった。


 見たら、終わるから。


 最後は、緩い登り基調の、直線だった。


 下りのスペシャリストが、最後に、登りで耐える。


 ゴールゲートが見える。後ろから、強豪校のエースが、猛烈に伸びてくる。


 颯真の視界が、狭くなった。耳鳴り。呼吸。太腿が、焼ける。


 最後の三十メートル。横に、後ろの選手の前輪が、見えた。


「残れよ、俺!」


 誰に言うでもなく、自分に、叫んだ。


 ハンドルを、投げる。


 半車輪。


 榊颯真が、白線を、先に越えた。


 ゴールの先で、颯真は崩れ落ちた。バイクごと、芝の上に転がる。水をかけられる。拓海が駆け寄ってくる。観客が、沸いていた。


 しばらくして、監督が来た。


 颯真は、寝転んだまま、笑った。


「勝ちましたよ」


「普通は、負ける走りだ」と、監督は言った。


「普通なら、負けるんですよね」


「褒めてない」


「でも、勝ちました」


 監督は、何か言いかけて、やめた。ただ、長いため息をついて、颯真の頭に、タオルを一枚、放った。



 もし、勝ちだけなら、ただの天才だった。


 颯真は、壊れた。


 次のレース。颯真は、また同じように、行った。


 だが、今度は、世界が、彼に合わせてくれなかった。


 相手は、颯真を警戒していた。彼が動いた瞬間、集団がすぐに反応する。下りで、差が思ったほど開かない。向かい風。補給は、失敗した。


 それでも、颯真は引いた。意地で、踏み続けた。逃げ続けた。


 残り十キロで、吸収された。

 残り六キロで、千切れた。

 残り三キロで、脚が、攣った。


 DNF。


 颯真は、ガードレールに、座り込んでいた。


 靴が、脱げない。ボトルを持つ手が、震えている。胃の底が、ひっくり返りそうだった。観客の拍手が、やけに、遠い。


 拓海が、タオルをかけてくれた。


「惜しかったな」


「惜しくない」


颯真は言った。


「いや、あれだけ逃げたんだから」


「勝ってない」


 拓海は、何も言えなくなった。


 颯真にとって、「惜しかった」は、慰めではなかった。


 負けを、きれいに包む言葉だった。



 その勝利と、そのDNFで、颯真の評価は、決まった。


 計算できない。

 放っておけない。

 彼が動くと、レースが壊れる。

 才能はある。だが、代表向きではない。

 ――でも、勝つなら、あいつかもしれない。


 専門誌の見出しが、それを、ひと言にした。


 “榊颯真、またもDNF リタイアか、優勝か”


 その記事を、颯真は、スマホで見た。


 拓海が、隣から覗き込んで、笑った。


「悪口だろ、これ」


「優勝って入ってるから、セーフ」


 颯真は、軽く流した。


 その夜、一人になってから、彼は新しいメモ帳を開いた。


 一ページ目に、二行だけ書いた。


 優れるな。

 異なれ。


 優れる、は、みんなと同じ強さを、もっと高くすることだ。正しい選手に、なることだ。


 でも、それでは、勝てない。少なくとも、自分は。


 だから――異なれ。


 馴染めないことを、欠陥のままにするな。それを、武器にしろ。


 誰にも、見せるつもりのない言葉だった。



 その記事が出て、しばらく経った頃。


 早朝練習の帰り、颯真は、いつもの喫茶店に寄った。


 マスターが、黙ってコーヒーを出す。


「また、寝てない顔しとる」


「寝てない時の方が、脚回るんすよ」


「早死にするぞ」


「勝ってから、にします」


 マスターが、小さく笑った。


 そのとき、テーブルの上で、スマートフォンが震えた。


 英語の、メールだった。


 差出人は、英国の名門ワールドチーム。その、スカウト部門。


 件名。


 Regarding your future


 本文の、最初の一行。


 We have been watching your races.


 颯真は、しばらく、画面を見ていた。


 マスターが、カウンターの向こうから聞いた。


「なんだ」


「見てたらしいです」


颯真は、顔を上げた。


「何を」


 颯真は、笑った。少し、間を置いて、言った。


「俺が勝ったやつと――盛大に、死んだやつ」


 マスターが、声を出して笑った。


 颯真は、コーヒーを、一口飲んだ。


 苦かった。


 でも、目は、笑っていた。


 失敗を恐れない走りは、海の向こうにも、届いていた。

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一センチの日本 ―風鷹の国― シハオン @shihaon

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