第3話 風鷹、パリを制す

 一九八三年、七月。


 パリの空は、薄く曇っていた。


 シャンゼリゼには朝から人が溢れ、石畳の両側で三色旗が揺れていた。カフェのテラスは満席で、通りに面した窓という窓に、人の顔が並んでいる。


 ツール・ド・フランス、最終日。


 勝者は、ほとんど決まっていた。


 エドワード・“エディ”・グレイヴス。イギリス人。総合首位。


 彼は、観客を熱狂させる種類の選手ではなかった。

 山岳でライバルを置き去りにする怪物でもない。

 スプリントで腕を上げる男でもない。


 ただ、三週間が終わるとき、いつも前にいた。


 遅れない。

 崩れない。

 間違えない。


 山岳では耐え、タイムトライアルでは削り、横風の日は前に残り、雨の下りで一度も破綻しなかった。派手なものは、何もない。だが、削るところも、どこにもなかった。


 そして、彼の脚の下には、一台のフレームがあった。


 黒に近い、深い群青。

 細身のクロムモリブデン鋼。

 装飾は、ほとんどない。


 ヘッドチューブの小さなエンブレムだけが、曇り空の下で鈍く光っていた。


 翼を広げた、鷹。


 KAZETAKA。


 風鷹。


 その名を、欧州の観客の多くは、まだ正しく発音できなかった。


「カゼ……タカ?」


「ジャパニーズ?」


「トヨタの、か?」


 実況も、何度かその名を口に乗せた。


『グレイヴスのこの日本製フレーム、KAZETAKA。今大会、山岳、雨、石畳、横風——あらゆる局面で、信じがたい安定を見せました』


『軽いだけではありません。硬いだけでもない。彼が走っていると、フレームが主張してこない。脚を、邪魔しない。三週間のレースでは、それが効いてくるんです』


 その声は、海を越えた日本にも届いていた。


 時差のため、日本は深夜だった。


 東京の自転車専門店では、店主がシャッターを半分下ろしたまま、常連と小さなテレビを囲んでいた。名古屋の工場の寮では、夜勤明けの技術者が、眠気をこらえて画面を見ていた。


 そして、豊田のある町工場。


 作業台に置かれた白黒テレビの前に、数人の男が立っていた。


 そのうちの一人は、あのフレームの溶接を担当した職人だった。


 画面は粗い。フレームの細部など、見えるはずもない。


 それでも、彼には分かった。


 あれは、自分たちが作ったものだ。


 何度もやり直したラグ。焼け色を確かめた溶接部。塗装前に指でなぞった、細いパイプ。雨のテストで技術者が首を傾げ続けた、下りの安定。工場の奥で、何人もの男が徹夜して出した答え。


 あれが、いま、パリを走っている。


 誰かが、低く言った。


「映っとる」


 誰も、返事をしなかった。


 ツールの最終日は、凱旋だ。


 総合首位が攻撃を受けることは、まずない。シャンパンを飲み、握手を交わし、最後の周回はスプリンターに譲る。


 だが、その年のグレイヴスは、最後まで気を抜かなかった。


 前夜の雨が、石畳にわずかに残っていた。


 彼は後方を確かめ、ライバルの表情を見て、濡れた路面の色を読んだ。ブレーキレバーにかけた指が、ほんの少しだけ動く。


 風鷹は、その入力に、過不足なく応えた。


 速すぎず、遅すぎず。


 自転車が、選手より前に出ようとしない。


 だから、選手は迷わず踏める。


 残り一周。


 シャンゼリゼが沸いた。


 グレイヴスは、集団の十番手あたりにいた。総合は、ほぼ確実。ステージを獲る必要はない。


 それでも、彼は前を見ていた。


 凱旋門。灰色の空。濡れた石畳。観客の旗。


 彼は一度だけ、トップチューブを軽く叩いた。


 感謝だったのか、確認だったのか、自分でも分からなかった。


 最後の直線。


 スプリンターたちが前へ上がる。観客の視線が、そちらへ流れる。


 グレイヴスは、安全な位置でゴールラインを越えた。


 ステージを勝ったのは、別の選手だった。


 だが翌日、世界中の新聞の一面を飾ったのは、両手を上げたスプリンターではなかった。


 群青のフレームに跨ったイギリス人が、チームメイトに囲まれ、シャンゼリゼで泣いている写真だった。


 その足元には、日本製の風鷹があった。


 日本時間、深夜。


 豊田の町工場で、誰かが息を吐いた。


 溶接職人が、椅子に座ったまま、天井を見上げた。


「勝った」


「勝ったな」と、別の男が言う。


 その声を合図にしたように、拍手が起きた。


 絶叫ではない。抱き合うでもない。


 ただ、油の匂いの残る夜の工場で、男たちが手を叩いていた。


 手のひらには、鉄粉の跡が残っている。

 爪の間には、黒い汚れが残っている。


 それでも、彼らは拍手した。


 自分たちの作ったものが、世界で最も過酷なレースを、走り切った。


 しかも、勝った。


 翌朝、日本中の新聞に見出しが並んだ。


 風鷹、パリを制す。

 日本製ロード、ツール総合優勝。

 鉄の馬、ついに世界の頂へ。


 スポーツ紙だけではない。一般紙も、経済紙も、地方紙も、その勝利を報じた。朝の番組では、司会者が慣れない手つきでフレームを指差し、「これが、日本製だそうです」と言った。


 百貨店に、展示車が置かれた。自転車店に、注文が殺到した。競技部に、入部希望が増えた。技術者は、記事を切り抜いて研究室の壁に貼った。


 子どもは群青のフレームを描き、高校生はノートに鷹のロゴを落書きした。大人は、酒の席で言った。


「日本の自転車が、世界を獲った」


 それは、ほとんど正しかった。


 欧州の専門誌は、風鷹をこう評した。


 速さではなく、乱れなさ。


 ある記者が、グレイヴスに尋ねた。


「このバイクの、何が特別だったんですか」


 彼は少し考えてから、答えた。


「忘れられることだ」


 記者が、聞き返す。


「忘れられる?」


「ああ。最高の自転車は、走っているあいだ、自分が乗っていることを忘れさせてくれる。雨でも、下りでも、石畳でも、怖さだけが残らない。脚の中にあるものを、そのまま道へ置ける。KAZETAKAは、そういう自転車だった」


 その言葉は、日本の技術者にとって、どんな表彰状よりも重かった。


 自転車が勝ったのではない。

 選手が、勝ったのだ。


 ただ、選手が勝つために、自転車が邪魔をしなかった。


 それこそが、彼らの求めた答えだった。


 それから、欧州のプロトンに、風鷹のフレームが少しずつ増えた。


 総合系の選手が乗り、雨に強いクラシックの男が乗り、石畳を行くルーラーが、信頼できる一台として選んだ。


 いつしか、欧州のメディアは、風鷹をこう呼んだ。


 沈黙の鷹。


 速いと、叫ばない。軽いと、誇らない。だが、最後に残っている。


 日本人にとって、それは誇りだった。


 同時に、痛みでもあった。


 パリで黄色いジャージを着たのは、エドワード・グレイヴスだった。


 日本のフレーム。日本の職人。日本の工場。日本の技術。


 その上に乗っていたのは、日本人ではなかった。


 その事実を、最初は誰も口にしなかった。


 祝福があり、誇りがあり、達成があった。だから、すぐには言わなかった。


 問いは、小さく始まった。


 新聞の片隅。雑誌の座談会。部室。酒場。工場の休憩室。


「いつか、日本人が乗って勝てばいい」


「機材は証明したんだ。あとは、脚だ」


 あとは、脚。


 その言葉は、最初は希望だった。


 風鷹に乗った日本人が、いつかシャンゼリゼで日の丸を掲げる。誰もが、そう信じた。


 だが、希望は、長く持ちすぎると、形を変える。


 五年。十年。


 逃げに乗る選手はいた。山岳で粘る選手もいた。アシストとして名を残す選手もいた。


 だが、最後の表彰台には、誰も届かなかった。


 風鷹は、何度も勝った。

 日本人は、勝てなかった。


 あの町工場の溶接職人は、それから何度も、風鷹がパリを走るのを見た。


 乗っているのは、いつも外国人だった。


 「あとは脚だ」と、若い頃の自分が言ったのを、彼は覚えていた。あの夜、それは祝福の言葉だった。


 いつからか、同じ言葉が、別の重さを持つようになった。


 機材は、もう、とうに証明した。

 足りないのは、ずっと、脚のほうだ。


 誇りと呼びながら、それは少しずつ、呪いに似てきた。


 その夜。


 豊田の青年は、スマートフォンの画面を閉じた。


 マスターから送られてきた古い記事が、まだ目の奥に残っている。


 風鷹、パリを制す。


 勝ったのは、日本人ではなかった。


 彼は、ベッドの脇のメモ帳を開いた。


 一ページ目には、いつもの言葉がある。


 優れるな。

 異なれ。


 その下に、彼は書き足した。


 風鷹は勝った。

 じゃあ、俺は?


 ペン先が、止まる。


 しばらくして、もう一行だけ書いた。


 脚で勝て。

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