第2話 鉄の馬
豊田の坂道は、夕方になると少しだけ匂いが変わる。
昼の熱を吸ったアスファルト。
工場から流れてくる油の匂い。
山の方から降りてくる湿った風。
信号待ちのトラックが吐き出す排気。
どれも、彼には馴染みのあるものだった。
ロードバイクのタイヤが、白線の上をかすめる。
喫茶店を出たばかりの青年は、まだ下ハンドルには手をかけなかった。
市街地の細い道を抜けるまでは、上体を起こしたまま流す。
ペダルを回すたびに、さっきまで店内に響いていた実況の声が、少しずつ遠ざかっていく。
また、“あと少し”かよ。
その言葉だけが、胸の奥に残っていた。
信号が青に変わる。
彼は少しだけ踏み込んだ。
KAZETAKAのフレームは、遅れて反応することがない。
踏んだ分だけ進む。
踏みすぎれば、脚に返ってくる。
その正直さが、彼は好きだった。
自転車は、ずっとそういう乗り物だった。
人の脚でしか進まない。
だが、脚があればどこへでも行ける。
最初にそれを見た人々は、自転車を「鉄の馬」と呼んだ。
明治の初め、西洋から入ってきたその奇妙な機械は、高価で、扱いにくく、何より速かった。
馬より静かで、馬より細い道を抜け、餌を食わない。
新聞は面白がって書いた。
鉄の馬、帝都を駆ける。
最初に飛びついたのは、物好きな学生たちだった。
書生帽を被った青年が、洋装のまま自転車に跨る。
帝都の通りをよろめきながら進み、曲がり角で転び、見物人に笑われる。
それでも起き上がる。
泥を払う。
もう一度、ペダルを踏む。
当時の記録には、そういう姿がいくつも残っている。
青年は、緩い坂へ入った。
ふくらはぎに、少しずつ重さが溜まる。
呼吸が深くなる。
ハンドルを握る手のひらに、汗がにじむ。
カーボンのフレームが、路面の細かな震えを脚へ返してくる。
彼はギアを一枚落とした。
昔の学生たちも、きっと同じだったのだろうと思う。
速く走れるなら、競いたくなる。
遠くへ行けるなら、どこまで行けるか試したくなる。
坂を登れるなら、誰が一番早く登れるか知りたくなる。
それだけのことだった。
最初の競走は、今のロードレースとは似ても似つかなかった。
河川敷の直線。
学校の運動場。
神社の参道。
舗装もろくにされていない道を、学生たちが鉄の車輪で走った。
転べば笑われた。
抜けば沸いた。
泥だらけの青年が両手を上げれば、また沸いた。
自転車は、遅い人間を速くする機械ではない。
速くなりたい人間の欲を、そのまま地面に伝える機械だった。
青年は息を吐いた。
坂の勾配が、ほんの少しだけきつくなる。
太腿の奥に熱が溜まり始める。
視界の端で、工場のフェンスがゆっくり後ろへ流れていく。
そのうち、自転車競技は学校へ入り込んだ。
最初は、陸上部の片隅だった。
野球部の足腰作りだった。
通学用の自転車を持ち寄った生徒たちの、勝手な校外走だった。
教師たちは眉をひそめた。
危ない。
道路を使うな。
転んだらどうする。
それでも、生徒たちは走った。
朝練で走る。
放課後に走る。
川沿いを走る。
峠を走る。
隣町まで行って、帰ってくる。
やがて、学校対抗戦が始まった。
トラック競技は、管理しやすかった。
競技場の中で完結し、観客席から見え、タイムで勝敗が決まる。
だが、人気に火をつけたのはロードだった。
学校の外へ出る競技。
街を抜け、川を渡り、峠を越え、海沿いを走る競技。
選手が一度、観客の視界から消える競技。
次に姿を現した時、誰が先頭にいるか分からない。
その分かりにくさに、観客は最初怒った。
そして、すぐに夢中になった。
青年は、道路脇の古い看板を横目に見た。
色褪せた文字が残っている。
全日本ロードシリーズ
豊田山岳ステージ
歓迎
何年も前の大会の看板だった。
この国では、ロードレースは生活の中にある。
日曜日の昼に中継を見る。
高校生が部活で峠を登る。
会社員が好きなチームのジャージで通勤する。
商店街の喫茶店で、老人が山岳賞の話をする。
子どもが、好きな選手のスプリントフォームを真似する。
それなのに、世界の頂点だけが遠い。
信号が青になる。
スマートフォンをポケットに戻し、彼は再びペダルへ足を乗せた。
踏む。
フレームが進む。
この国のロードレースは、百年以上「次」を信じてきた。
その「次」の積み重ねが、今日の十九位だった。
少し登ると、道は広くなった。
夕方の光が、路面を斜めに照らしている。
向かい風が、胸元のジャージを軽く叩く。
汗が首筋を流れ、顎の下で一度止まり、フレームへ落ちた。
彼はギアを一段落とした。
この坂を、彼は何度も登っている。
中学生のころ、初めてここで脚が終わった。
高校生のころ、先輩に千切られた。
国内リーグに出始めたころ、同じ坂で下りのラインを覚えた。
自分の脚が覚えている。
肺が覚えている。
掌が覚えている。
ブレーキレバーにかけた指が、怖かった日の下りを覚えている。
日本のロードレースは、我慢を教えてきた。
仲間のために脚を使うこと。
エースを守ること。
落車せず、完走し、次につなげること。
全部、大事なことだ。
だが、それだけでは勝てない。
勝つには、どこかで壊さなければならない。
集団を。
予定を。
相手の呼吸を。
そして、自分の中にある「このくらいでいい」という声を。
青年は坂の頂上へ向かって踏み込んだ。
呼吸が荒くなる。
視界の端が少し暗くなる。
それでも踏む。
ポケットの中で、薄いメモ帳が揺れた。
いつから書いていたのか、自分でも覚えていない。
一ページ目に、同じ言葉がある。
優れるな。
異なれ。
誰かに見せるための言葉ではなかった。
集団に馴染めなかった自分を、ただの欠陥にしないための言葉だった。
頂上手前で、彼は下ハンドルを握った。
前方に車はいない。
路面は乾いている。
夕方の風は、少し向かい風。
ちょうどいい。
彼は笑った。
「優れるな」
踏む。
「異なれ」
坂の頂上を越えた瞬間、視界が開けた。
豊田の街が、夕方の光の中に広がっている。
工場の屋根。
住宅地。
道路。
遠くの山並み。
そのすべてが、少しだけ赤く染まっていた。
彼はブレーキレバーに指をかける。
下りが始まる。
ロードレースでは、登った者だけが下れる。
そして、下りで休む者もいれば、下りで仕掛ける者もいる。
彼は後者だった。
重心を落とす。
視線を出口へ置く。
風を聞く。
路面の色を見る。
最初のカーブへ入る直前、彼はもう一度だけ、パリの画面を思い出した。
残り三キロ。
日の丸。
先頭交代。
十九位。
あと少し。
彼は、その言葉を振り切るように車体を倒した。
風鷹が、下りへ入る。
その夜、喫茶店のマスターから一枚の画像が送られてきた。
店の壁に貼られている、古い新聞記事の写真だった。
黄ばんだ紙面。
掠れた活字。
白黒写真の中で、ひとりの外国人選手が両手を上げている。
その下に、日本語の見出しがあった。
風鷹、パリを制す。
一九八三年。
日本の機材が、初めて世界を獲った日。
青年は、その画面をしばらく見つめていた。
勝ったのは、日本人ではなかった。
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