一センチの日本 ―風鷹の国―

シハオン

あと少しの国

第1話 残り三キロの日本

 平日の午後、街の足が少しだけ止まっていた。


 東京駅前の大型ビジョンにも、名古屋の地下街にも、大阪・道頓堀のたこ焼き屋の横に置かれた小型テレビにも、同じ映像が流れている。ロードレースだ。学校の体育館では自転車競技部の生徒たちが画面の前に集められ、職場の休憩室では上司が「五分だけな」と言いながら、もう二十分も中継を見ていた。


 豊田市の小さな喫茶店にも、カウンターの隅にテレビがあった。


 店の入口脇には、一台のロードバイクが立てかけられている。黒いフレームのダウンチューブには、翼を広げた鷹の意匠が入っていた。


 KAZETAKA。


 風鷹。


 この国のロードレースを少しでも知る者なら、その名を知らない者はいない。


 残り三キロで、日本はまだ前にいた。


 パリの空は、白く乾いていた。

 舗装路の照り返しが選手たちの脚を焼き、街路樹の影が途切れるたびに、ロードバイクのホイールが鋭く光った。カメラは先頭集団を横から捉えている。フランス、ベルギー、イタリア、オランダ、イギリス。そして、その中に日本がいた。


 日の丸の入ったジャージが、集団の前から三番手に見えた。


 その瞬間、日本中の空気が少しだけ変わった。


 喫茶店のマスターが、湯気の立つポットをカウンターに置いた。

 新聞を読んでいた老人が、眼鏡を外す。

 奥の席にいた作業着姿の男たちが、箸を止める。


 カウンター席の端で、ひとりの青年がアイスコーヒーのストローを噛んでいた。


 グラスの中の氷は、ほとんど溶けていた。

 彼は画面を見たまま、瞬きもしなかった。


 こういう展開は、何度か見たことがある。


 逃げに乗った日本人。

 山岳で粘った日本人。

 残り十キロまで夢を見せた日本人。

 残り五キロで画面の端に消えた日本人。


 そのたびに、実況は言った。


 惜しかった。

 よくやった。

 次につながる。


 青年は、その言葉を何度も聞いてきた。


 テレビの音量が、少しだけ上がる。


『日本、まだ先頭集団に残っています。残り三キロを切りました。日本代表、ここまで非常に粘り強い走りです』


 NHKの実況は、冷静であろうとしていた。

 だが、語尾のほんのわずかな震えまでは隠せていなかった。


『現在、先頭集団は七名。フランス、ベルギー、イタリア、オランダ、イギリス、スペイン、そして日本です。日本が、オリンピックロードレース終盤、勝負圏内に残っています』


 解説者が短く息を吸う。


『これは、初めて見る景色です』


 店内の誰かが、小さく声を漏らした。


「いけるか」


 隣の老人が言った。


「いや、まだ早い。まだ三キロある」


 マスターが言う。


「でも、残ってるぞ」


 その言葉に、店内の客が誰も返事をしなかった。


 誰もが知っていた。

 ロードレースの残り三キロは、短いようで長い。


 ここから位置取りが始まる。

 牽制が始まる。

 スプリントの列車が組まれる。

 一瞬の判断で、前に出られなくなる。

 風を受けすぎれば脚が終わる。

 後ろに下がれば閉じ込められる。


 集団は生き物だ。


 強い者だけが前に残るのではない。

 残るべき場所を、残るべき瞬間に掴んだ者だけが、最後の白線を見る。


 日本は、そこにいた。


 日の丸が、画面の中で揺れている。


『日本、前に出ます。日本が前に出る。ここで先頭交代に加わります』


 実況席の声が一段上がった。


『日本が牽きます。日本が、世界の強豪たちの前で風を受けます』


 喫茶店の中で、誰かが小さく「おお」と声を漏らした。


 マスターは、ポットを握ったまま動かなかった。


 青年の横顔に、画面の光が反射していた。

 彼は何も言わない。


 ただ、カウンターの下で、右足の爪先がわずかに動いていた。

 ペダルを探すように。

 踏む場所を、身体が勝手に思い出すように。


 残り二キロ。


 フランスが動いた。


 大きなアタックではない。

 だが、確実にペースが上がった。

 日本は反応する。

 イタリアも反応する。

 ベルギーが横に出る。

 一列だった集団が、少しだけ崩れる。


『フランスがペースを上げました。日本、反応しています。日本、まだついている』


 豊田の喫茶店で、老人が拳を握った。


「残れ」


 マスターが、低い声で言った。


「残れ」


 青年はまだ黙っていた。


 画面の中の日本代表の肩が、わずかに揺れた。

 それは限界の前触れだった。


 ロードレースを知らない者には分からない。

 だが、知っている者には分かる。


 上半身が揺れる。

 呼吸が乱れる。

 ペダリングの円が少しずつ潰れる。

 踏めているように見えて、脚の中から火が消えていく。


 日本代表は、それでも下がらなかった。


『日本、苦しい。しかし粘っています。日本、まだ粘る』


 残り一キロ。


 フラムルージュをくぐる直前、ベルギーが右から上がった。

 フランスが反応する。

 イタリアが続く。

 スペインが外へ開く。

 集団の速度が跳ね上がった。


 日本が、一瞬だけ遅れた。


 ほんの一車身。


 だが、その一車身は、世界と日本の距離そのものに見えた。


『日本、少し離れた! 日本、ここで少し離されます!』


 喫茶店の空気が止まった。


 青年が、初めて小さく息を吐いた。


「まだだ」


 彼の声は、誰に向けたものでもなかった。


 画面の中で、日本代表は必死に踏んでいた。

 前との差は一車身半。

 二車身。

 また少し詰まる。


 しかし前の五人は、さらに加速する。


 残り五百メートル。


 画面の中心から、日の丸が少しずつ外れていく。


 実況の声が、痛いほど冷静になった。


『日本、懸命に追いますが、先頭のスプリント争いからはわずかに遅れます』


 解説者は何も言わなかった。


 残り三百メートル。


 フランスとベルギーが並ぶ。

 イタリアが外から伸びる。

 観客席が沸騰する。

 カメラは勝者を追う。


 日の丸は、もう画面の端にも映っていなかった。


 数秒後、先頭の選手が両手を上げた。


 パリの空に、歓声が弾けた。


『フランス、金メダル! 地元フランス、見事な勝利です!』


 喫茶店のテレビは、勝者の顔を映していた。


 その後ろで、日本代表が遅れてゴールする。

 画面下の順位表示。


 十九位。


『日本は十九位。メダルには届きませんでしたが、残り三キロまで先頭交代に加わる素晴らしい走りでした。これは日本ロードレースにとって、間違いなく歴史的な一日です』


 店内の誰かが、力の抜けた拍手をした。


 それにつられるように、二人、三人と手を叩いた。

 マスターも、小さく拍手した。


「よくやった」


 老人が言った。


「ようやったな」


 別の客が言う。


「十九位でもすごいわ。昔なら考えられん」


 テレビでは、スタジオのアナウンサーが興奮気味に話していた。


『日本代表、惜しくもメダルには届きませんでした。しかし、残り三キロまで先頭集団で展開し、世界の強豪相手に堂々と戦いました。これは次につながる十九位と言ってよいのではないでしょうか』


 次につながる。


 惜しかった。


 歴史的快走。


 よくやった。


 その言葉を、青年は黙って聞いていた。


 グラスの中の氷は完全に溶けていた。

 薄くなったコーヒーを、彼は一口飲む。


 苦味はなかった。


 ただ、水っぽかった。


 店内には、まだ余韻が残っていた。

 画面には、日本代表がインタビューを受ける様子が映っている。汗だくの顔で、悔しそうに、それでもどこか誇らしげに笑っていた。


『最後、あと少しでした』


 インタビュアーが言う。


『はい。でも、今の自分にできることは出し切りました。日本が世界の前で戦えることは見せられたと思います。次は、もっと上を目指したいです』


 店の客たちは頷いた。


 次だ。

 次がある。

 次につながった。


 そう言えば、今日は美しい一日になる。


 日本は初めて、世界の先頭に立った。

 日本は初めて、残り三キロまで夢を見た。

 十九位は敗北ではない。

 歴史的前進だ。


 そういうことに、できる。


 青年は、グラスを置いた。


 カラン、と氷のない音がした。


「また」


 誰にも聞こえないくらいの声だった。


 マスターだけが、わずかに目を向けた。


 青年はテレビを見ていた。

 画面の中では、先頭でゴールしたフランスの選手が国旗をまとって笑っている。

 その後ろに、日本代表の姿はもうなかった。


 青年は、もう一度言った。


「また、“あと少し”かよ」


 店内の拍手が、遠くなった。


 マスターは何も言わなかった。

 ただ、新しい豆をミルに入れた。

 低い音が、カウンターの内側で鳴り始める。


 青年は立ち上がった。


 会計を済ませ、店を出る。

 豊田の空は、夏の終わりの色をしていた。

 道路の向こうには、工場の煙突が見える。

 熱を持ったアスファルトの上を、トラックがゆっくり通り過ぎていく。


入口脇に立てかけられた風鷹のフレームが、午後の光を受けて鈍く光っていた。


 青年はボトルの水を一口飲み、ヘルメットを被った。


 信号の向こうで、風が吹いた。


 彼はサドルに跨り、片足をペダルに乗せる。


 そして、小さく笑った。


「次につなげるために走ってるんじゃねえよ」


 ペダルを踏む。


 ロードバイクが、夏の道路へ滑り出した。


「勝つために走ってるんだ」


 その背中は、すぐに豊田の坂道へ消えていった。


 百年分の「あと少し」を、一センチだけこちら側へ。

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