第1章 第5話:すれ違う視線、重なる沈黙
「――相馬さん、これ、先ほど営業部から回ってきた来期の人員配置に関する要望書です」
「あ、ありがとう。デスクに置いておいてくれ」
オフィスに差し込む午後の光は、どこか白々としていて、俺の目の奥をじりじりと刺激する。
内示を受けてから一週間。ロンドン赴任へ向けた極秘の引き継ぎ資料作成や、現地での住居・ビザに関する手続きの確認など、水面下のタスクは確実に増え始めていた。
仕事に没頭している間だけは、余計なことを考えずに済む。
だが、ふとした瞬間に、頭の片隅にあの「タイムリミット」が顔を覗かせるのだ。
(あと、3週間か……)
正式に社内公表されれば、嫌でもすべてが動き出す。当然、広報部である千歳の耳にも入るだろう。
その時、俺は彼女にどんな顔をして向き合えばいいのか、まだ答えは出ていなかった。
「あ、如月先輩。お疲れ様です! 今日の新プレスリリースの件、確認お願いできますか?」
「ええ、もちろん。見せてちょうだい」
オフィスの入り口付近から、聞き覚えのある凛とした声が聞こえた。
書類をめくる手を止め、無意識に視線を向ける。
そこには、広報部の後輩を引き連れて歩く千歳の姿があった。
ネイビーのジャケットをスマートに着こなし、背筋をピンと伸ばして歩く姿は、まさに会社の「顔」そのものだ。手元のタブレットを確認しながら、的確に後輩へ指示を出している。
その時、千歳がふと顔を上げ、人事部側のフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスの喧騒を挟んだその空間で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
普通の幼馴染なら、あるいは社内公表されている関係なら、ここで小さく手を振ったり、苦笑いを交わしたりするのだろう。
だが、俺たちは「完璧な他人のフリ」のプロだ。
千歳は、俺と目が合っても全く動じることなく、ただの「人事部の相馬さん」を見るビジネスライクな瞳のまま、コクリと一瞬だけ、事務的な会釈を送ってきた。
俺もまた、感情を一切表に出さず、同じように小さく頭を下げて返す。
時間にして、わずか一秒に満たないやり取り。
周囲の社員たちは、誰もその一瞬の視線の交差に気づいていない。
(……本当に、大した演技力だよ)
俺は心の中で自嘲気味に呟き、パソコンの画面へと視線を戻した。
夜になれば、あの女は俺の部屋でストッキングを脱ぎ捨て、ビールを煽りながら「広報部マジ疲れる!」と管を巻くのだ。そのギャップに、俺の心はいつも奇妙な浮遊感を覚える。
だが、今日のその「他人のフリ」は、いつもより少しだけ胸の奥をチクリと刺した。
もしロンドンに行けば、この昼間の「秘密のアイコンタクト」さえも、完全に失われてしまうのだ。
その日の夜。
いつも通り、俺の部屋の鍵が開き、千歳が滑り込んできた。
「はー、今日も一日やりきった! 蓮、冷たいお水! もしくは麦茶!」
「はいはい、麦茶な」
冷蔵庫からピッチャーを取り出し、グラスに注いで手渡す。
千歳はそれを受け取ると、一気に飲み干して「ぷはっ」と息を吐いた。
「生き返る~。あ、そういえばさ、今日の昼、オフィスですれ違ったじゃん?」
「ああ、一瞬目が合ったな」
「そうそう。あの時さ、営業部の山下さんが後ろにいたから、マジで心臓バクバクだったんだよ? 『あ、如月さん、人事部の相馬さんと知り合いですか?』とか聞かれたらどうしようって」
千歳はソファに転がり込みながら、ケラケラと笑った。
「でも、私のあの完璧なスルー技術、見た? 完全に『あ、そこに社員がいるな』くらいのテンションで会釈したもんね。我ながらプロの広報部員だわ」
自慢げに胸を張る千歳を見て、俺は小さく息を吐きながら、彼女の隣に腰を下ろした。
「……お前、本当に他人のフリが上手いよな」
「ん? まあね。社会人の基本だし、何より蓮と社内で変な噂になったら面倒じゃん。お互い仕事しにくくなるのは嫌だしさ」
千歳はテレビのリモコンをいじりながら、事も無げに言った。
その言葉は、極めて合理的で、大人の判断として正しい。
「……もしさ」
「ん?」
「もし、その『他人のフリ』をしなくてよくなる日が来たら、お前はどうする?」
俺の問いに、千歳のリモコンを操作する手がピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、不思議そうな、どこか探るような瞳で俺を見つめてくる。
「何それ。蓮、会社辞めるの? もしかして転職活動でもしてる?」
「いや、そういうわけじゃない。ただの仮定の話だ」
「ふーん……。仮定ねぇ」
千歳は少しだけ目を細め、いつもと違う俺の空気を敏感に察知したようだった。
だが、彼女はすぐにいつもの「男友達」の笑みを浮かべて、俺の背中をバシバシと叩いた。
「辞めないならいいじゃん! 変な仮定してないで、ほら、今日のご飯。私、お腹空きすぎて倒れそうなんだけど」
「分かったよ。今から準備する」
俺は立ち上がり、キッチンへと向かった。
千歳はテレビに目を戻したが、その横顔は、さっきまでの底抜けた明るさが少しだけ影を潜めているように見えた。
言えない秘密が、二人の間に静かな、しかし確かな溝を作っていく。
日常という名の薄氷の上を、俺たちは一歩ずつ、タイムリミットに向かって歩いていた。
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