第1章 第6話:日常の輪郭、カウントダウンの足音


内示から二週間が経とうとしていた。

ロンドン赴任へのカウントダウンは、俺のスマートフォンの中に保存されたスケジュール帳の中で、冷酷に、そして確実に一日ずつ進んでいる。


人事部での事前準備はいよいよ本格化し、現地の労務管理システムに関する英語の仕様書が、毎日のように俺のメールボックスを埋め尽くしていた。

「相馬さん、海外事業部から、渡航前健康診断の案内が届いています。今週中に予約を完了させてくださいね」

同僚の女性社員が、他意のない事務的なトーンでリマインダーをくれる。

「ありがとう。今日の午後にでも予約を入れておくよ」


俺は努めて冷静に答え、周囲に悟られないよう画面を切り替えた。

このオフィスにいる誰もが、俺が「あと2週間足らずでこの席を離れる男」だとは気づいていない。そしてその秘密の重さは、日々俺の肩にのしかかっていた。


その日の16時、俺は資料の差し替えのために、社内の複合機が集まるプリンタールームへ向かった。

重い電子音が響く部屋のドアを開けると、先客がいた。


「――あ、相馬さん。お疲れ様です」


複合機から出てくる大量のカラーパンフレットを整えていたのは、千歳だった。

手元には広報部が発行する社内報の最新号が山積みになっている。


「お疲れ様です、如月さん。そちら、かなり枚数がありますね。手伝いましょうか」

「いえ、大丈夫です。もうすぐ終わりますので。……あ、もしよろしければ、この新しい社内報、一部お持ちになりますか? 今回は新入社員の特集なんです」


千歳は流れるような所作で、刷り上がったばかりの冊子を俺に差し出してきた。

完璧なビジネススマイル。その瞳には、親しい幼馴染としての甘えも、昨夜俺の部屋で「仕事辞めたい~」と愚痴っていた気配も一切ない。

本当に、ただの「親切で優秀な広報部員」がそこにいた。


「ありがとうございます。人事部でも拝見させていただきます」


俺は冊子を受け取り、その表紙に目を落とした。

『未来へ繋ぐ、我が社のグローバル戦略』

そんな大見出しが躍っている。偶然とはいえ、今の俺にはあまりにもタイムリーすぎるワードだった。


千歳は自分の資料を綺麗にファイリングすると、「では、失礼します」と小さく一礼して部屋を出ていこうとした。

そのすれ違いざま。


トントン、と俺の靴のつま先を、千歳が自分のヒールで軽く小突いた。


周囲に他の社員はいない。完全に死角になった一瞬の、本当に悪戯のような接触。

俺が驚いて顔を上げると、千歳はすでにドアのノブに手をかけていた。振り返った彼女の顔には、会社用の仮面の隙間から、ほんの一瞬だけ、いつもの悪ガキのようなニヤリとした笑みが覗いていた。


ドアが閉まり、静寂が戻る。

手元に残された社内報の温もりと、靴に残ったかすかな衝撃。


(あいつは、本当に何も知らないんだな……)


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

こんな風に、社内の目を盗んで小さな秘密を共有することに、千歳はささやかな楽しさを感じているのかもしれない。このスリリングで、だけど絶対的に安全な「幼馴染の二重生活」が、これからもずっと続いていくと信じているからこそ、そんな悪戯ができるのだ。


もし、この生活がもうすぐ強制終了すると知ったら。

千歳は、どんな顔をするだろう。あの完璧な笑顔を保っていられるだろうか。


その夜。

俺の部屋のダイニングテーブルには、コンビニの惣菜と、千歳が途中で買ってきたというデパ地下の焼き鳥が並んでいた。


「ねえ蓮、今日のプリンタールームのやつ、びっくりした?」

千歳はビール缶を片手に、嬉しそうに足をバタバタさせている。

「当たり前だろ。誰かに入ってこられたらどうするんだ。お前、たまに大胆すぎるんだよ」

「いーじゃん、誰も来なかったんだから。スリルがあって楽しかったよ? 蓮のあの、一瞬フリーズした顔、傑作だったなぁ」


ハハ、と笑う千歳の横顔を、俺はただじっと見つめていた。


「……千歳」

「んー? なに?」

焼き鳥のネギマを頬張りながら、千歳がこちらを向く。


「お前さ。もし、俺が急に遠いところに行くって言ったら、どう思う?」


また、同じような質問をしてしまった。

内申を伝えるわけにはいかないという理性が、千歳の反応を確かめたいという本能に負けそうになっていた。


千歳はもぐもぐと口を動かし、しばらく考えた後、ふっと笑った。

「遠いところってどこよ。また出張? 大阪? それとも福岡?……まさか、北海道に移住してカニでも捕るの?」

「いや、そうじゃなくて。もっとこう……飛行機で何時間もかかるような、言葉も通じないような場所だ」


俺のトーンが少し真剣だったせいか、千歳は焼き鳥の串を皿に置いた。

彼女の瞳から、少しずつ冗談の色の気配が消えていく。


「何よ、急に。不吉なこと言わないでよ」

「……不吉ってわけじゃない。ただ、人生何があるか分からないだろ」

「変な蓮。そんなの、寂しいに決まってるじゃん。私の飲み相手がいなくなったら、誰が広報部の愚痴を聞いてくれるのよ。だから、どこにも行っちゃダメ。男友達のくせに、私を置いていくなんて許さないからね」


千歳はそう言って、少し無理を作るようにして、いつもの「男友達」としてのツンとした笑顔を浮かべた。

だけど、そのグラスを持つ指先が、ほんの少しだけ震えているのを、人を見るプロである俺の目は見逃さなかった。


「……冗談だよ。そんな予定、あるわけないだろ」

俺は嘘をついた。

千歳を安心させるための、そして、残された短い日常をこれ以上壊さないための、最低な嘘。


「もう、脅かさないでよ。心臓に悪いんだから」

千歳はホッとしたように息を吐き、またビールを口にした。


部屋の中に、テレビのバラエティ番組の笑い声だけが虚しく響く。

お互いに、それ以上はその話題に触れようとしなかった。

迫り来るタイムリミットを告げる時計の針の音が、俺の耳の奥で、カチ、カチ、と大きく鳴り響いていた。

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