第1章 第4話:言えない言葉と、いつもの夜
人事部長からの内示を受けてから、丸三日が経過した。
俺の頭の中は、仕事中も、移動中も、常に『ロンドン』という単語と、それに伴う膨大なタスク、そして何より千歳への報告のタイミングのことで占められていた。
「相馬、この前の採用合同イベントのフィードバック、データにまとめておいたから確認よろしく」
「あ、はい。ありがとうございます、先輩」
同僚から渡された書類に目を通しながらも、視線はどこか上空を彷徨ってしまう。
人事部という場所は、社内のあらゆる機密情報が集まる場所だ。誰がいつ異動し、誰が昇進し、誰が会社を去るのか。それを最も早く知る立場にいる。
しかし、まさか自分自身が、その「最大の機密」の当事者になるとは思ってもみなかった。
しかも、その秘密を、毎日顔を合わせる一番身近な人間にだけは絶対に明かせない。
『内示の正式な公表は1ヶ月後。それまでは他言無用だ』
部長の言葉が、脳内で鉄の規律として鳴り響く。
人事部員としてのプロ意識が「口を滑らせるな」と警告する一方で、一人の男としての、あるいは幼馴染としての自分が「今すぐ千歳に話して、その反応を確かめろ」と激しく急かしてくる。
もし話したら、千歳はどんな顔をするだろう。
「えー! マジで!? 寂しくなるじゃん!」と、いつもの男友達のノリで、からかうように笑うのだろうか。それとも――。
(……いや、あいつのことだ。きっと『おめでとう。海外赴任なんて、出世コースじゃん。せいぜい頑張りなよ』って、完璧な大人の幼馴染としてエールを送ってくれるに決まっている)
それが一番想像しやすい反応だったし、同時に、今の俺が最も恐れている反応でもあった。
あいつにとって、俺が生活から消えることは、その程度の「応援」で片付けられるイベントなのか。それを知るのが、どうしようもなく怖かった。
時計の針は21時を回っていた。
今日もいつも通り、俺は自分の部屋へ帰り、スーツのネクタイを外す。
ほどなくして、軽い足取りとともに玄関の鍵が開く音がした。
「おーつーかーれー! 蓮、今日のご飯何?」
ドアを開けて入ってきた千歳は、すでに会社のジャケットを脱いで腕に抱えていた。今日も広報部の業務は忙しかったらしく、少し疲れた顔をしていながらも、その瞳は俺の姿を捉えて嬉しそうに細められる。
「おかえり。今日は、冷蔵庫の余り物で簡単に野菜炒めとスープにした」
「やった! 蓮の野菜炒め、シャキシャキしてて好きなんだよね」
千歳は慣れた手つきでバッグを棚に置き、キッチンに立つ俺の横へとトコトコと歩いてきた。
「ねえねえ、今日の昼さ、広報部の部長が変なギャグ言ってさ。もう職場の空気凍りついちゃって、フォローする私の身にもなってほしいわけ」
「……へえ、そうなのか」
「そうだよ! あ、聞いてる? 蓮、なんか今日元気なくない? 疲れてる?」
千歳の言葉に、俺はハッとして手を止めた。
フライパンを見つめたまま、自分の表情が硬くなっていたことに気づく。
「……いや、別に。上半期の評価シートの締め切りが近くて、ちょっと数字ばっかり見てたから目が疲れてるだけだ」
「ふーん? 人事部も大変だねぇ。ほら、そういう時はこれ!」
千歳は冷蔵庫から手際よく缶ビールを二本取り出すと、一本を俺の目の前に突き出してきた。
「はい、お疲れ様の乾杯。アルコールで脳みそを麻痺させなさい」
「お前な……。ありがとう」
プシュッ、と小気味いい音が二つ重なる。
缶を合わせ、冷たい液体を喉に流し込む。
いつもと変わらない、美味しいビール。いつもと変わらない、千歳の屈託のない笑顔。
だが、俺の胸の奥には、冷たい澱(おり)のようなものが沈殿していた。
この景色は、あと何回見られるのだろう。
この何気ないやり取りは、あと何日、俺の人生に残されているのだろう。
「……なあ、千歳」
「ん? なに?」
ビールを口に含んだまま、千歳が首を傾げて俺を見てくる。その無防備な、完全に「仮面」を脱いだ瞳。
「もし、俺が……」
言葉が、喉の奥でっかかった。
もし俺が、遠くへ行くと言ったら。
もし俺が、お前と会えなくなると言ったら。
「……もし、俺が明日から急に自炊をやめて、全部外食にしたらどうする?」
「はあ? 何それ、急に」
千歳は呆れたように笑い、俺の肩をぽんと叩いた。
「何言ってるの。そんなことしたら、蓮、絶対に一週間で体壊すでしょ。ただでさえ栄養バランス偏りがちなんだから。もしそうなったら、私が毎日ここに監視しに来てあげるよ。男友達の健康管理も、幼馴染の義務ってね!」
「……そうか」
千歳は笑っている。何の疑いもなく、この日常が明日も、明後日も、来月も、ずっと続いていくことを信じて疑っていない。
「男友達」という、彼女が作り上げた完璧な安全地帯の中で、彼女は安心しきっているのだ。
俺はその笑顔が眩しくて、そして少しだけ切なくて、それ以上言葉を続けることができなかった。
「ほら、野菜炒め冷めちゃうよ。早く食べよ!」
「ああ……そうだな」
胸の奥の秘密は、さらに重さを増していく。
カウントダウンの針は、二人の知らないところで、静かに、しかし確実に動き始めていた。
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