第1章 第3話:人事部の秘密、静かなる予兆
翌日の午後。
人事部のオフィスは、キーボードを叩く音と、時折鳴り響く電話の対応の声で満たされていた。
俺は自席で、上半期の評価シートの取りまとめを行っていた。
画面に並ぶ数字と評価コメントをチェックしていると、内線電話が鳴った。ディスプレイに表示されたのは「人事部長」の文字。
「はい、相馬です」
「相馬くん、ちょっといいかね。奥の応接室に来てくれ」
「わかりました。すぐに向かいます」
受話器を置き、小さく息を整える。
部長の声のトーンは、通常の業務連絡にしては少し低く、どこか厳かだった。人事部における「呼び出し」は、良くも悪くも大きな環境の変化を意味することが多い。
応接室のドアをノックし、中に入る。
そこには、人事部長の長谷川(はせがわ)が、いくつかの書類を机に広げて座っていた。
「座ってくれ、相馬くん」
「失礼します」
長谷川部長は、俺が席に着くのを待ってから、眼鏡の奥の目を細めて言った。
「単刀直入に言う。相馬くん、君のこれまでの業績、そして社内での人間関係の構築能力は、上層部からも非常に高く評価されている。そこでだ――」
部長は、机の上に置かれた一通の書類を俺のほうへと滑らせた。
そこには、『海外事業部・ロンドン支社 異動内定通知』という文字が印字されていた。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「ロンドン、ですか……」
「そうだ。我が社は来期から欧州市場への展開を本格化させる。それに伴い、現地法人の人事・労務環境の基盤をゼロから構築できる、若くて優秀な人材が必要になった。期間は、最低でも3年。現地のスタッフと渡り合い、組織をまとめ上げる大役だ。君にとって、キャリアの大きな転機になるはずだ」
3年。ロンドン。
それは、サラリーマンとしての俺にとっては、これ以上ない栄転のチャンスだった。グローバルな環境で人事を経験することは、今後のキャリアにおいて計り知れない価値を持つ。
「内示の正式な公表は、1ヶ月後を予定している。それまでは、絶対に他言無用だ。広報部にもまだ一切情報は流していない。もちろん、君にも心の準備や、私生活での調整が必要だろうから、まずは極秘裏に進めてほしい」
「……わかりました。身に余る光栄です」
「期待しているよ」と部長は俺の肩を叩いた。
応接室を出て自席に戻るまでの廊下、俺の足取りは、どこか現実味を欠いていた。
頭の中を、様々な思考が高速で駆け巡る。
キャリアアップのチャンス。ロンドンでの新しい生活。
そして――。
(千歳……)
脳裏に、真っ先に浮かんだのは、昨夜、俺の部屋でビールを飲んで笑っていた幼馴染の顔だった。
もし俺がロンドンに行けば、あの部屋での日常は完全に消失する。
週に何度も顔を合わせ、他愛のない文句を言い合い、会社での『仮面』の愚痴を叩き合う関係は、物理的な距離によって引き裂かれることになる。
3年という月日は、長い。
その間に、千歳には新しい日常ができ、俺のいない生活に慣れていくかもしれない。もしかしたら、別の男と付き合うことだってあるだろう。
(俺は……それを、受け入れられるのか?)
胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。
仕事では、他人のキャリアや適性を客観的に判断し、「おめでとう」と送り出す立場の人事部員なのに。いざ自分のこととなると、そして、その変化の先に千歳がいるとなると、驚くほど往生際が悪くなる。
「相馬さん、次の役員会議の資料、チェックお願いできますか?」
「あ、ああ、今見るよ」
後輩の声に現実へと引き戻され、俺はパソコンの画面に向き直った。
『極秘裏に準備を進めてくれ』
部長の言葉が重くのしかかる。
千歳に、いつ、どうやって伝えればいい。
いや、そもそも伝えるべきなのか。
海外転勤という、あまりにも重い現実。
それを前にして、俺は自分が、ただの「男友達」という今のぬるま湯のような関係に、どれほど深く執着していたかを、嫌というほど思い知らされ始めていた。
物語の「起」はまだ始まったばかり。
蓮と千歳の、秘密を抱えた二重生活は、ここから少しずつ、しかし確実に歪み始めていく。
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