8章

作者不明

 サイン会の告知を見つけたのは、その三日後だった。

『新人賞受賞記念 雨宮蓮サイン会』

 大型書店。 日曜日。

 午後二時開始。


 透はその画面を、しばらく無言で見つめていた。

 行かなければならない気がした。

 理由は分からない。 問い詰めたいのか。

 確かめたいのか。


 それとも、自分が壊れていないと証明したいのか。

 透自身にも分からなかった。

 日曜日。 空は曇っていた。

 透は開始三十分前に会場へ着く。

 人は多くない。


 新人作家だからか、静かな空気だった。

 平台には『夜の底で、君を待つ』が積まれている。

 その光景だけで、未だに吐き気がした。

 やがて、会場がざわつく。


 雨宮蓮が現れた。

 若い男だった。 二十代後半くらい。

 黒いシャツ。 細い指。

 眠そうな目。


 どこにでもいそうな人間だった。

 透は少し拍子抜けする。

 もっと異常な何かを想像していた。

 でも違う。 本当に普通の男だった。

 サイン会が始まる。


 一人ずつ、本を渡していく。

 笑顔。 定型文。

 静かな会話。

 透は列の最後尾で、それを見ていた。


 そして思う。

 この人は、本当にこの作品を書いたのか?

 やがて透の番になる。

 机の前へ立つ。 雨宮が顔を上げる。

 一瞬だけ、目が合った。


 その瞬間。 なぜか雨宮の表情が止まった。

 本当に一瞬だけ。

 でも確かに。「……お名前は?」

 雨宮が言う。 透は答えなかった。

 代わりに静かに言う。

「第七章の視点、途中でズレてますよね」

 雨宮のペンが止まる。 周囲の音が遠くなる。

「駅ホームの場面。本来、一人称だったはずなのに、途中だけ主人公を外側から描写してる」


 透は続ける。

「あそこ、わざと残したんですか」

 雨宮は何も言わない。 透は雨宮を見る。

「……あのズレ、自分で書いてたなら気づくはずだ」


 沈黙。 数秒。

 やがて雨宮は、小さく笑った。

「熱心な読者ですね」 それだけだった。

 認めない。


 否定もしない。

 ただ、その目だけが妙に冷たかった。

 透は唇を噛む。「あなた、誰なんですか」


 雨宮は答えない。

 代わりに、本へサインを書き始める。

 さらさらと。 迷いなく。

 そして本を閉じ、透へ差し出した。


「ありがとうございました」

 もう会話は終わりだった。

 透は本を受け取る。

 その瞬間。 ページの隙間から、何かが落ちた。

 一枚の紙。 透は反射的に拾う。

 そこには、短くこう書かれていた。

『その一文、絶対消さないで』


 透の呼吸が止まる。

 顔を上げる。

 雨宮は、もう次の客を見ていた。

 何事もなかったみたいに。


 透は会場を出る。 外は雨だった。


 人の声。 車の音。

 濡れたアスファルト。


 世界は普通に動いている。

 でも透だけが、現実から少しずれてしまったみたいだった。

 手の中の紙を見る。

 見覚えのある文字。


 紗奈の字だった。 透はゆっくり目を閉じる。 

 思い出す。


 終電間際のホーム。

 雨の匂い。 深夜三時。

 あの一文。

 そして、紗奈の声。

『君の文章、嫌いじゃないよ』


 雨音が強くなる。 透は静かに空を見上げた。

 結局最後まで。

 紗奈が何者だったのかは分からなかった。

 雨宮が盗んだのかどうかも。


 全部、自分の妄想だったのかもしれない。

 でも。

 たった一つだけ、確かなことがある。

 あの夜を知っているのは。

 あの一文を書いた瞬間を覚えているのは。


 自分だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『夜の底で、君を待つ』 偽善者 @gizensha

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る