【小説】田舎で“次”を信じるな

Aki Dortu

田舎で“次”を信じるな

 関東の大学に通う森下健太もしした けんた藤田拓也ふじた たくやは、夏休みの旅行で長野に遊びに来ていた。


 新幹線で長野方面の大きな駅まで来るまでは、拍子抜けするほど簡単だった。駅には土産物屋もコンビニもあり、観光客も多い。タクシー乗り場には車も並んでいて、運転手に宿の名前を告げるだけで、山あいの温泉ホテルまで連れていってくれた。


「なんだ、普通に何とかなるじゃん」


 藤田がそう言った時、森下も同じことを思っていた。


 その油断が、翌日きっちり返ってくることになる。


 ホテルのロビーは、外よりずっと涼しかった。


 森下は、チェックインの用紙を書きながら、首の後ろに残った汗を手でぬぐった。隣では藤田が、ソファに沈み込むように座っている。


「新幹線降りて、タクシー乗っただけでこれかよ」


 藤田が言った。


「夏の旅行、なめてたな」


 森下が返すと、フロントの女性が笑った。


「明日、どちらか行かれるんですか」


「あ、はい。近くの観光地に行こうかなって」


「でしたら、駅から電車ですね。ただ、この辺りは本数が少ないので、お出かけの前に時刻表を見てくださいね」


「大丈夫です」


 藤田が、スマホを軽く振った。


「調べれば出ますから」


「そうですね」


 女性はそれ以上何も言わなかった。


 森下も、その時はただの親切な案内だと思った。


 翌朝。


 二人はホテルを出た。


 空は、腹が立つほど晴れていた。道の向こうには田んぼが広がり、遠くでセミが鳴いている。ホテルから駅までは徒歩七分。地図で見た時には、ほとんど隣みたいな距離だった。


「駅近いじゃん」


 藤田が言った。


「これなら楽勝だな」


「昨日タクシーだったし、今日ぐらい電車で行くか」


 二人は軽い気分で歩いた。


 七分後。


 駅は、本当に小さかった。


 駅前にコンビニも、売店もなかった。ロータリーらしきものはあるが、タクシーは一台も止まっていない。日差しの下に、自販機だけが立っていた。


「駅前って、普通なんかあるだろ」


 藤田が言った。


「普通って何だよ」


「コンビニとか、カフェとか」


「ここ、そういう駅じゃなさそう」


 駅舎に入ると、さらに静かだった。


 改札機や電光掲示板はなく、駅員もいない。壁に紙の時刻表が貼ってあるだけだった。


 藤田はスマホを取り出して、入口付近できょろきょろした。


「え、ここSuica使えないの?」


「改札機がないんだから、使えないんじゃない?」


「いや、なんかあるじゃん。ピッてするやつ」


「その“なんか”がないんだよ」


 二人は券売機の前に立った。


「切符買うの、久しぶりすぎる」


「現金ある?」


「たぶん」


 藤田が財布を開けた時、遠くから低い音が聞こえた。


 線路の向こうで、電車が近づいてくる。


「あ、来た」


 森下がホームを見た。


 一両だけの電車が、ゆっくり入ってくるところだった。


「ケンちゃん、走る?」


 藤田が聞いた。


 森下は、券売機と財布と、真夏のホームを順番に見た。


「タクちゃんが走るなら走るけど」


「いや、暑いし。次でよくない?」


「まあ、次でいいか」


 二人は小銭を入れ、切符を買った。


 その間に電車のドアが閉まった。短い音が鳴って、一両だけの電車は何事もなかったように走り去っていった。


「のどかだな」


 藤田が言った。


「急がない旅って感じだな」


 森下も、その時はそう思った。


 五分後。


「……次、遅くない?」


 藤田が言った。


「まあ、田舎だし」


「田舎だしって、何の説明にもなってないけど」


 さらに三分待った。


 風はある。けれど熱い。ベンチは屋根の下にあるのに、空気そのものがぬるかった。


 森下は、ふと駅舎の壁を見た。


「ていうか、次の電車って何分?」


「スマホで見る?」


「いや、あそこに時刻表ある」


 二人は壁に貼られた紙の前に立った。


 十二時十八分。


 その下。


 十三時二十六分。


 森下はスマホの時計を見た。


 十二時二十六分。


「……」


「……」


「タクちゃん」


「何?」


「次、一時間後」


「え?」


「一時間後」


 藤田は時刻表を二度見した。


「何で今の見送ったんだよ!」


「タクちゃんが次でいいって言ったんだろ!」


「止めろよ!」


「止める前にタクちゃんが普通に切符買ってただろ!」


「ケンちゃんだって、まあ次でいいかって言ったじゃん!」


「俺は流されたんだよ!」


「流されるなよ、電車は流れていったぞ!」


 二人は黙った。


 セミの声だけが、やけに大きく聞こえた。


「一時間、ここ?」


 藤田が言った。


「ここ」


「暑くない?」


「暑い」


「なんかないの? タクシーとか」


 森下はスマホで調べ、タクシー会社に電話した。


 短いやり取りのあと、通話を切る。


「三十分くらいかかるって」


「三十分?」


「うん」


「三十分待つなら、もういいか……」


「来る頃には、電車まであと三十分だしな」


「タクシー呼ぶかどうかで悩んでるこの時間が一番無駄じゃない?」


 タクシーはやめた。


「じゃあコンビニ」


 藤田が検索した。


「一番近いコンビニ、片道二十分」


「往復四十分じゃん」


「行って帰ってきたら電車来るじゃん」


「しかも暑いじゃん」


「コンビニ行って電車逃したら、もう何しに来たか分かんないな」


 コンビニもやめた。


 残った選択肢はひとつだった。


「ホテル戻るか」


 森下が言った。


「徒歩七分だしな」


「冷房あるし」


「着替えもできるし」


「最初からそれでよかったな」


 二人は駅を出た。


 七分。


 たった七分。


 なのに、来た時より長く感じた。道にはほとんど日陰がない。田んぼの上を吹く風は涼しそうに見えて、実際にはぬるい。背中に汗が流れていく。


「七分って、こんな長かった?」


 藤田が言った。


「日陰がない七分は、七分じゃない」


「何分?」


「気持ち的には二十分」


「じゃあコンビニ行けたじゃん」


「行けてない」


 ホテルに戻った時には、二人とも汗だくだった。


 ロビーに入った瞬間、冷房の空気が体に当たる。


「あー……」


 藤田が声をもらした。


「生き返る……」


 その時、フロントの女性と目が合った。


「あ、お戻りですか?」


 森下は少しだけ背筋を伸ばした。


「あ、はい。ちょっと……忘れ物で」


「着替えを……」


 藤田も謎の補足をした。


「そうでしたか」


 女性はにこやかにうなずいた。それだけだった。


 けれど、二人には分かった。


 時刻表、見なかったんだな。


 そう思われている気がした。


 部屋に戻ると、二人は汗を拭き、Tシャツを着替えた。冷房の効いた部屋にいたい。できれば、このままベッドに倒れ込みたい。


 けれど、時計は残酷だった。


「そろそろ出ないと、また逃す」


 森下が言った。


「もう一本逃したら終わるな」


「人として?」


「旅行として」


 二人は再び外へ出た。


 また七分歩いた。


 着替えたはずなのに、駅に着く頃にはまた汗ばんでいた。


「着替えた意味、あった?」


 藤田が言った。


「気持ちの問題」


「その気持ち、もう汗で流れたけど」


 二人は今度こそ、壁の時刻表の前に立った。


 森下は、ホテルの人の言葉を思い出した。


 電車の本数が少ないので、お出かけの前に時刻表を見てくださいね。


「あれ、案内じゃなかったな」


「何が?」


「時刻表を見ろってやつ」


 藤田も、壁の紙を見上げた。


「ああ」


「警告だったな」


「命綱だったな」


 二人は無言でうなずいた。


「帰りの電車も見とこう」


 森下が言った。


「そうだな。行けても帰れないとか、普通にありそう」


「観光地より先に、帰れるかどうか確認する旅行って何なんだよ」


「田舎旅行」


「重いな」


 それから二人は、電車が来るまでホームを離れなかった。


 自販機で買ったぬるくなりかけのスポーツドリンクを飲みながら、日陰のベンチに座った。もう誰も「次でいい」とは言わなかった。


 やがて、線路の向こうから音がした。


「来た」


 藤田が立ち上がった。


「乗るぞ」


 森下も立ち上がった。


「今度は絶対見送るな」


「切符持った?」


「持った」


「時刻表見た?」


「見た」


「心は?」


「折れてる」


 電車のドアが開いた。


 二人は、今度は迷わず乗り込んだ。


 車内は涼しかった。


 さっきまでの暑さが嘘みたいだった。冷房の風が、汗の引いた肌に当たる。二人は並んで座席に座り、同時に息を吐いた。


「あー、助かった……」


 藤田が言った。


「冷房って、こんなにありがたかったんだな」


「文明だな」


「文明って、冷たいんだな」


「たぶん違う」


 窓の外で、田んぼが流れていく。


 ホテルまで戻り、着替えて、また駅まで歩いた疲れが、急に体へ戻ってきた。


「もう時刻表はなめない」


 森下が言った。


「次でいいでしょ、なんて二度と言わない」


 藤田も言った。


 その十数分後。


 二人は寝ていた。


 電車が止まった振動で、森下は目を覚ました。


「……着いた?」


 隣を見ると、藤田も半分だけ目を開けていた。


「ん……どこ?」


 二人は窓の外を見た。


 駅名の看板があった。


 知らない名前だった。


「タクちゃん」


「何?」


「ここ、どこ?」


「目的地じゃないの?」


「たぶん違う」


 二人は同時にスマホを見た。


 目的地は、一駅前だった。


「……」


「……」


「寝るなよ!」


「タクちゃんも寝てただろ!」


 ドアが閉まりかけた。


 二人は慌てて電車を降りた。


 そこも無人駅だった。


 駅前には、さっきの駅より何もなかった。


 自販機すらなかった。


 二人は黙って、壁に貼られた時刻表を見た。


 戻りの電車。


 一時間後。


 藤田が、乾いた声で笑った。


「田舎で“次”って言葉、軽く使っちゃだめだな」


 森下は空を見上げた。


 セミが鳴いていた。


「まず、起きてろよ」


「お前もな」

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