第40話 「法廷」
【5日目・潤視点】
冷たい空気が法廷の廊下を支配していた。私は一度足を止め、窓の外に広がる鉛色の空を見上げた。五日目。裁きの日が来た。昨夜の騒動が別世界の出来事のように思えるほど、裁判所の内部は厳粛な静寂に包まれていた。
ネクタイを整えながら、気持ちを引き締める。今日は二つの民事裁判が続けて行われる。西原詩彩の不貞慰謝料請求事件、そして長谷川恵の離婚慰謝料請求事件。原告と被告の立場は違えど、法廷に立つべき罪人はただ一人、伊藤直樹だ。
廊下の向こうから、見慣れた二人の姿がこちらへ歩いてくるのが見えた。長谷川恵と西原詩彩。示し合わせたかのように黒いスーツを身にまとっている。昨夜の混乱と疲労がまだ残っているはずの顔だったが、その瞳には以前とは違う、揺るぎない強さが宿っていた。
彼女たちはもう、伊藤直樹という過去に縛られた被害者ではない。自らの人生を取り戻すために法廷という戦場に立つ戦士だ。私は二人に無言で軽く頷いた。言葉を重ねるよりも、その確かな信頼を宿した視線の方が、はるかに力になると感じていた。
法廷の入口へ向かう途中、横の廊下が騒がしくなり、護送官に連れられて一人の男が現れた。手錠をかけられ、憔悴しきった伊藤直樹。彼は私たちを見つけると、その場で足を止めた。そこにあったのは昨夜の狂気じみた怒りではなく、すべてを失った者の空虚さと卑屈さだった。
彼は何か叫ぼうと口を開いたが、護送官に制止され、ただ口をぱくぱくと動かすだけだった。私は彼を憎悪や同情で見ることもなく、ただ法廷で扱うべき一つの「事件」として見た。感情は不要だ。ここを支配するのは、法と証拠のみである。
重い法廷の扉が開く。中には冷たい空気と張り詰めた緊張だけが満ちていた。私は二人の依頼人を弁護人席へ案内し、自分も席に着く。――幕が上がる。
すべてが停止したかのような静寂。法廷で判決が読み上げられる瞬間、その場にいるすべての視線が彼に集まった。最初の事件は、伊藤直樹が西原詩彩に対して提起した、あまりにも不条理な「不貞慰謝料請求訴訟」だった。
原告席に座る直樹は、拘置担当の警察官の横で落ち着かず体を揺らしていた。昨夜の狂気は影もなく消え、そこにあるのは焦りと卑屈さだけだった。被告席の詩彩は背筋を伸ばし、正面を見据えていた。私は彼女の隣で、準備した書類を整然と並べた。すべての準備は整っていた。
💬裁判長|「原告、伊藤直樹。氏名と職業を述べよ。」
裁判長の声が法廷に低く響いた。直樹は立ち上がり、周囲を見回しながらもごもごと口を開いた。
💬直樹|「い、伊藤直樹です…職業は…その…」
彼が言葉を詰まらせた瞬間、私は立ち上がった。裁判長の許可を求める視線を送り、冷たく明瞭な声でその言葉を代弁した。
💬潤|「裁判長、私が代わりに申し上げます。“無職”です。」
私の声は法廷に鋭く響いた。傍聴席が小さくざわつく。直樹の顔は瞬時に赤く染まり、怒りに震えながら私を睨みつけた。
💬直樹|「おい、このクソ野郎が…!竹山、このクソ弁護士が今…!」
💬裁判長|「静粛に!原告、発言を慎みなさい!もう一度騒げば退廷させる!」
裁判長の厳しい声に、直樹はようやく口を閉じた。しかしその目は依然として私を殺すように睨みつけていた。私はその視線を無視し、裁判長へと語りかけた。ここからが私の領域だった。
私は直樹が詩彩にどのように接近したかを、法廷の誰もが理解できるように一つずつ明確に説明していった。
💬潤|「尊敬する裁判長。原告伊藤直樹は、被告西原詩彩に対し、自身を“未婚”と偽り、意図的に接近しました。これは明白な詐欺および欺罔行為です。」
私は準備した証拠資料──直樹が詩彩に送った数々の虚偽のメッセージ──を提出した。それらがスクリーンに映し出されるたび、直樹の顔は青ざめていった。
💬潤|「さらに彼は被告に対し継続的に精神的慰謝を求めながらも、関係に対する一切の責任を負いませんでした。これは人の善意を利用した明白な精神的搾取です。彼は彼女を愛したのではなく、ただ自らの空虚を埋めるための都合の良い“感情のゴミ箱”として扱ったに過ぎません。」
“感情のゴミ箱”。その言葉が法廷に響いた瞬間、詩彩の肩がわずかに震えたのが分かった。私は一瞬彼女を見て、大丈夫だという無言の合図を送った。これは彼女の傷をえぐるためではなく、真実を正すための過程だ。
💬潤|「そして最も悪質なのは、自身の結婚生活の破綻の責任を被告に転嫁し、逆に被告を“不貞女”として訴えを起こした点です。裁判長、これは被害者を二度殺す行為です。」
私は主張の第一段階を終え、冷たい目で原告席の男を見下ろした。まだ始まりに過ぎない。私はこの男の犯したすべての罪を、一つ残らず解剖し、法の場に晒し尽くすつもりだった。
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