第2話 二重生活(デュアル・ログ)の崩壊

 カズの日常は、常に二つの窓で構成されている。

 一つは私に向けられた「被害者・カズ」の窓。

 もう一つは、彼が誰に見られているかも知らずに開いている「狩人・カズ」の窓だ。


 出逢った当初、彼は自分を「運の悪い男」として定義していた。元妻に不倫されて心身ともにズタズタにされた――それが彼の語る物語。私はその哀愁に満ちた横顔を見て、可哀想な人だと信じ込んだものだ。


 だが真実は、もっと底が浅かった。


 彼は元妻に裏切られたその傷を、あろうことか「不倫という同じ過ち」で癒やそうとしていたのだ。結果――彼は加害者として訴えられ、今まさに慰謝料を支払う身分に成り下がっている。


 被害者から加害者へ。


 因果応報のバトンを、わざわざ自ら受け取りに行ったのだ。


 ――深夜、スマホが震える。通知画面には彼からのLINEが並ぶ。


『慰謝料の支払いが本当にキツくて。俺、今すごく追い詰められてるんだ。お前だけだよ、こんな俺の話を聞いてくれるのは……』


 ……滑稽すぎて、笑うことすら忘れる。


 彼は自分が犯した罪を、まるで天災か何かのように語る。被害者として同情を買い、加害者としての重圧を他人に肩代わりさせようとするその図太さ。

 しかも、その「追い詰められた生活」の実態といえばアプリのスキマバイトを転々とする自転車操業だ。

 先日も、コインパーキングの精算機の前で「悪い、今手持ちがなくて……」と小銭を乞われ、そのあまりの無様さに言葉を失った。


 駐車場代すら即座に払えない男が、SNSでは「俺、頑張ってるのに運がないんだ」と悲劇のヒーローを気取っている。

 私はその通知を既読にすることなく、ブラウザの別タブへ切り替える。


 そこにあるのは、彼が運営しているSNSアカウントの公開ページだ。


 画面を更新すると、ほんの二分前に投稿されたばかりの新しい呟きが悪意のない笑顔で私を迎えた。


『誰か癒やしてw最近マジで辛いこと多すぎて、心細いんだよね。誰か優しい人、構ってくれませんか?』


 すごい。指先一つで、彼は見事な変身を遂げる。

 私には「悲劇の主人公」を演じ、SNSという大海原では「傷ついた心を持て余す、可哀想な独身男」を演じる。

 タイムラインを遡れば、過去に別の女性へ送ったであろう「テンプレ」の残骸が散らばっていた。


『慰謝料のせいで、自分を殺して生きる毎日だよ』

『射精はできないけど、君の心には触れたいんだ』


 ……アップデートが一行も入っていない。


 彼は不倫をしたことさえ忘れ、慰謝料という罪の対価さえも「不幸な俺という物語」のスパイスに変換している。

 まるで、OSが90年代で止まったままの化石PCが最新のOSを積んだつもりでネットの海を漂っているようなもの。

 駐車場代にも困るような生活を送っておきながら、自分を大きく見せるための虚飾だけは一丁前だ。


 なんだろう。コイツ――恥ずかしくないのか?という疑問すら、もう湧かない。


 あるのは、泥の中に落ちたおもちゃを眺めるような静かな冷笑だけ。


 私は、LINEの入力欄に一文字も打ち込むことなくスマホを裏返した。


 君が支払っているのは、罪の償いじゃない。ただ、自分という虚像を維持するための管理費だ。

 彼がどれだけ滑稽に全裸で踊り狂おうと、私はもうその舞台の観客席から立ち上がる準備ができている。

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