第12話 新たな火種

 そこへ、新しい客がふたり入ってきた。


 下町の靴職人のおじさんと、魚屋のおばさんだ。

 どっちも顔見知りになってきた常連である。


「おっ、いたいた」

「兄ちゃん、もう動いて大丈夫なのかい」


「まあ、なんとか」


「さすがは四天王相手に立った男だねぇ」

「いやほんと、あの日はたまげたよ」


 うん、その話になるよな。

 そりゃなる。


 でもその次に、魚屋のおばさんが少し声をひそめた。


「ところでさ、今日はその話じゃなくてね」


「ん?」


「最近、夜がちょっと変なんだよ」


 皿を洗う手が止まった。


 おばさんは眉をひそめて、続けた。


「うちの甥っ子がね。昨日の夜、誰かと“遊んだ”って言うんだけど」


「遊んだ?」


「それが、相手の顔も、どこで遊んだかも、よく覚えてないんだよ。ただ、朝起きたら“なんか変”だって泣いててね」


 靴職人のおじさんも頷いた。


「うちの近所の配達屋も似たようなこと言ってたな。“道が変だ”とかなんとか」


「道が変?」


「いつもの帰り道なのに、急にわからなくなったらしい」


 少しだけ、店の空気が静かになった。


 ミリィも、レオンも、客たちも、なんとなく顔を見合わせる。


「……酔っ払いとかじゃなくて?」


 俺が言うと、おばさんは首を振った。


「違うんだよ。そういうふざけた感じじゃないの。なんていうか……何かを、ちょっとだけ取られたみたいな」


 何かを取られた。


 その言葉が、妙に引っかかった。


 レオンが腕を組んだ。


「最近、騎士団のほうにも似た話がいくつか来ている。軽い悪戯として流されているが……」


「おいおい、そういうの早く言えよ」


「お前は寝ていただろ」


「それはそうだけど」


 ミリィは少しだけ不安そうな顔をしたあと、すぐいつもの調子で笑った。


「でもまあ、夜に変な遊びに乗らなきゃいいだけでしょ?」


「そうとも限らん」


 レオンの声は硬かった。


「人を誘い込む類の魔法や術なら、単純な話では済まないかもしれん」


 魔法。術。

 そういう言葉が出ると、一気にファンタジーっぽくなるな。


 ……いや、ここ異世界だから当たり前なんだけど。


「なお兄?」


「ん?」


「なんか難しい顔してる」


 ミリィに言われて、俺は気づいた。


 たしかに、少し考え込んでいた。


 勝負ではない。

 遊び。

 夜。

 何かを取られる。


 前までの俺なら、「やばそうだから近寄らない」で済ませたかもしれない。

 でも今は、木皿亭に住んで、ここの人たちと顔を合わせて、ジンたちのバカ騒ぎも知ってしまっている。


 もし本当に変なことが起きているなら。

 それがこの店やミリィたちに近づくなら。


 ……たぶん、無視はできない。


「なお兄?」


「いや。なんでもない」


 俺はそう言って、また皿を洗い始めた。


 しゃこ、しゃこ、しゃこ。


 泡立つ水の中に、自分の顔が少しだけ歪んで映っている。


 英雄なんてやる気はない。

 目立ちたくもない。

 できればこのまま、静かに皿洗いして、飯食って、寝たい。


 ほんとに、それだけなんだ。


 なのに。


「そういや、昨夜その甥っ子が言ってたんだよ」


 魚屋のおばさんが、ふと思い出したように言った。


「“あれは勝負じゃない、遊びだよ”ってさ」


 ぴたりと、俺の手が止まった。


 嫌な予感がした。


 ものすごく、嫌な予感がした。


 勝負じゃない。


 遊びだ。


 その言い方が、どうにも引っかかった。


 まるで誰かが、最初から俺の能力の穴を知っていて、そこだけを避けて近づいてきているみたいで。


「……なお兄?」


 ミリィの声で我に返る。


 俺は慌てて皿をすすいだ。


「いや、ほんとになんでもない」


 たぶん。


 たぶん、まだ偶然だ。


 でももし違ったら。


 もし“勝負をしない敵”なんてものが本当にいるなら。


 俺の異世界生活は、たぶんまた、面倒な方向に転がっていく。


 せっかく皿洗いという平和を手に入れたばかりだっていうのに。


 ほんと、勘弁してほしかった。

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