#25 このままでいるための条件
うーん、と唸りながら律は蓮の部屋のベッドでうつ伏せになってノートにメモ書きをしながら頭を悩ませていた。
蓮はオンラインゲームのレイド戦の真っ最中で、ボイスチャットをオンにしたまま時々スラング英語で喚いている。鼻歌を歌う時といい、オンラインゲームのボイスチャットといい、なぜか蓮は学校の英語の成績がいい訳ではないのに発音はきれいだしコミュニケーションも取れてしまう。ぱたりと顔をノートに伏せて律は賑やかにしている蓮の声を聞く。
「Incoming! I got him!! Aaaaaah!!」
深夜帯のオンラインゲームになると野良でレイドバトルに参加し、臆面もなくすんなりとその場限りのプレイヤーとボス戦を繰り返しては楽しそうにしている蓮の声を聞いていると、律は素直に凄いなと思う。恐らく武道と同じで文法や単語よりも体感で覚えて実践でなんとかなってしまうタイプなのだ。英語の発音がいいのは蓮の母親が英語の歌を歌って聞かせていた影響もあるかもしれない。
「let's gooo!! gg ez!」
ふふん、と得意げにしている声を聞くに、蓮はボスを仕留めたらしい。
ようやく律は突っ伏していた顔を上げた。蓮が好きなゲームの画面を見ていると、律は時々画面酔いをしてしまい気持ち悪くなり、できるだけ見ないようにしている。
「蓮、今日もお手柄?」
「もちろーん」
ベッドの上から律が声をかけると、蓮が律を振り返って上機嫌で返事する。戦闘終了画面のまま両手に持っていたコントローラを手放して、ベッドにぺたりと寄りかかる蓮に律は片手を伸ばして茶色い癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。……本当に大型犬だったらどうしよう、などと律はふと笑う。ゲームのボス戦で手柄を立てたから偉いでしょ。だから撫でて。返事したときの蓮がそんな風に律を振り返ったように思えたのだ。
「蓮ってさ、警戒心とかある?」
ふと律が蓮を撫でながら訊くと「あるよー」と全く警戒心を感じさせない緩い声が返ってきた。言葉と声音が一致していなくて思わず律は本当か? と疑いそうになる。
「もし仮に、僕がこうやって蓮のこと撫でたまま、いきなり殴ったりとか……考えたことないの」
「ない。律はそんなことしないもん」
きっぱりと言い切られてしまうと律はなにも言い返せなくなり、蓮を引き寄せて両手でぎゅっと抱いた。
「うん。しないよ」
どうしてそんなわかり切ったことを訊いてしまったんだろうと考えると、つい数日前に早朝食堂で若い男に連れられてきていた青年のことを思い出した。律よりも少し年上の青年は交際している女性の行動に不安と嫉妬にかられ、酔ったはずみで手を上げてしまったと言っていた。不安や嫉妬は人の心を蝕んでしまうらしい。ならば、いくら乱暴なことがやだと言っていても、律がそうならないと断言もできないのではないかと思う。
「律さー最近、よく難しい顔してんね。なしたん?」
「ちょっと……そろそろ、ちゃんと考えなきゃなんないと思って。進路」
そのことを知らない蓮は率直に疑問を投げかけてくるが、律はまさに直面している問題を答えにした。さっきまで唸っていたノートにはいくつかの箇条書きメモに矢印が引っ張られており、マルとバツのしるしがついている。バツのしるしの下には更にメモが続いていたり、クエスチョンマークで終わっている部分も。
「ふーん。そのノートさーまた色々頭ん中んこと書いてんの? 見せてって言ったら駄目なやつ?」
律にくっついたまま蓮は枕元に無防備に放り出したノートを指した。なにか考え事があるとノートに思いつくことを書き出して整理しようとするのは律の癖で、蓮にはすっかり見抜かれている。
「うん。いまはまだ駄目。ちゃんと纏まったら見てもいいから、その時ならいいよ」
もう一度蓮の頭を撫でてから律は抱き締めてた腕を離した。考えが纏まっていないうちはノートの中を見られるのが恥ずかしいと思うのは、自分にどこか意地っ張りな部分でもあるのだろうかとふと気付く。改めて思い返してみると律は蓮と四六時中一緒にいるのに、なにか相談をしたという記憶があまりない。
「あのさ、蓮。僕がなんでもいいんだけど考え事、一人でしてて蓮に相談しないのって不安になる?」
こればかりは聞いてみないことにはわからないと律が訊ねると、蓮はふはっと笑った。
「なしたん、律。いきなり。律の考え事なんていつものことじゃん? んでさ、律は考え事纏まったらそのノートとか見てもいいってすっから、不安はねーかなー。考え事の間でも? 考え事中なのに? 一人になりてえとかでもないし。普段とあんま変わんない。俺がゲームしてる横で律が本読んでんのと一緒?」
「ああ……そっか」
そもそも律の中に蓮と離れている時間が長いということの前提がなかったと気付いた。家でも外でもほとんど一緒にいる。離れの部屋は分かれているが、律は蓮の部屋に入り浸っていて、考え事をしていても変わらない。物理的な距離が遠くないことが不安の種を帳消しにすることもあるようだ。ただし、それは関係性に大きく左右される種類のものだろう。
「あと、たぶん、律はなんか行き詰ってたらめっちゃ俺のこと撫でてくる。だから、律が一人で考え事してても、俺がなんもわかんねえわけじゃねえよ」
「え? そうなの? 僕、そんなことしてた?」
「んー……たぶんって言ってんじゃん。でも、なんかたまにめっちゃ無心で撫でてくるから」
「ええー……」
思わず律は蓮のベッドに突っ伏した。
それは蓮に言われるまで気付いていなかった。確かに律には蓮を撫でる癖があるとは自覚していたが、そこまでとは。そうなってくると、蓮が律から離れられないのではなく、律の方が蓮から離れる方が難しい確率がぐんと上がる。好きだという感情を差し引いても、律の方に分が悪い。勝敗の問題でも、離れる前提もないのだが少しだけ律は悔しい気持ちになった。
ベッドの枕元に放られたノートには〝このままでいるための条件と問題〟と書き出されている。
*****
しかしながら、高校生の思考能力ではどこまでが許容範囲でどこからが許容されないのか、判断が下しきれない場面にどうしても突き当たる。本来であれば両親が子どもの判断をサポートするのだろうが、進路の問題は父に相談しても律の場合的確な返事が返ってくる期待は残念ながら薄い。そうなると、助けを求める先は自動的に決まってしまうのがこの家の奇妙なところだ。
夏休みも残り少なくなったある日、律は昼間に珍しく忙しい素振りを見せていない修治をタイミングよく捕まえた。
「あのさ、修治。少し時間ある? 話を聞いてほしいんだけど」
「構いませんよ。若は落ち着かないかもしれませんが、事務室なら昼間は人が出払っています。どうです?」
「うん」
黒瀬家の一部は半分が住居、半分が事務所のような機能を持っている。本来の住人である父と律、それから蓮の三人だけでは、むやみに広く離れまである日本家屋は持て余す。更に現在、母屋に部屋を置いているのは父だけであり、母の部屋がそのまままだ残されているとはいえ、残った居住空間は黒瀬家に居ついている男たちの部屋と収入源である飲食店、賃貸物件の管理、土木工事などの経理、事務その他の業務をまとめて行う事務室と事務所を兼用した場所になっている。
律はその事務室に入るのは久しぶりだ。家業を嫌悪しだしてからは母屋の住居部分以外の場所に踏み込まなくなったためであり、子どもの頃は蓮と隠れんぼをするのにむやみに広い母屋は隠れる場所がたくさんある遊び場だったのだが。そんな風に考えながら、律は手にしたノートをきゅ、と握った。
「どうぞ、掛けてください」
事務室の一角にある応接セットを指し、修治に勧められると律はすとんと腰を下ろしてから既視感があるなと首を傾げた。年季の入った布張りのソファと籐のテーブル。簡単な仕切りの向こう側は雑多ないかにもな事務室と言った風情なのに、その空間だけ妙に懐かしい。どうしてだろうかと考えて、昔応接間で使っていた応接セットなのだと気付いた。この応接セットは役目を終えたのではなく、変えて黒瀬家の中にずっと存在していたのだ。
「その応接セットは澪さんが選んだものなので、竜一さんは手放せなかったのでしょう」
律の考えていることを見透かしたように修治は律の前に麦茶のグラスを置きながら、ついでのように言った。
「それで、若。話と言うのは」
懐かしい応接セットの由来を聞く間もなく、修治は本題に切り込んできた。律はひとつ深呼吸をして背筋を伸ばすと、手にしていたノートを修治に差し出した。
「見て欲しいんだ。僕が、この家でしたいと思ってることと、こうなったらいいなって思ってること。上手く説明できない気がしたから書いてみたんだけど、現実的なのかどうか」
少し緊張した面持ちだが、律の顔は俯かない。薬売りに遭遇してから家出に至った蓮のこと、夏休みに黒瀬家に来る子どもたちのこと、早朝に食堂で食事をしていた青年のこと。もちろん、元々の黒瀬組の役割。そのような複合的な要素を合わせて律なりに出した、家業を継承するために納得するための答えがノートに詰まっている。
修治はノートを受け取り、ページを開くと、ふと微かに笑った。
「若らしいですね。このままいられるための条件の最初に上がる点が蓮が怖くない場所というのは」
「揶揄わないで。僕にとっては一番大事なんだもん。好きだから、僕が安心できる場所を作りたい」
「揶揄っているつもりはありませんよ。若が自分の気持ちをはっきりと言葉にできているなら、なおさらです。……しかし」
ゆっくりとノートにびっしりと書き込まれた文字を読んで、修治は苦笑した。稚拙だと笑われている雰囲気はないが、律は首を傾げる。なにかおかしなことでも書いただろうか。
「これでは事業計画ですね。竜一さんより若はしっかりと考えています。ただ、ひとつ現実的なことを言えばここに書かれていることを全て若が実行するのは無理があります」
「……そっか」
「現実的ではないというのは、この全てを一人で実行するという点ですよ。この家には人手はいくらでもいます。そして適材適所とも言います。いまもそうでしょう。料理が得意な者や人当たりがいい者は飲食店に、体力が有り余っている者は土木作業に、事務的なことが得意な者は不動産管理や経理に。人事の割り振り先が増えるだけです。ですから、事業計画だと言ったのです」
「あー……そういうこと?」
律は納得して呟いた。自分から〝こうしたい〟と言い出したことに関しては全て自分がしなければならないと思い込んでいたのは、律が未熟ゆえの行き詰まりということになる。ただし、人を動かすのであれば当然責任も増す。大がかりなことを、そして本来の家業の性質とはズレたことも律は願っている。そこに不満が募れば、この場所自体が瓦解しかねない。律の納得する形が受け入れられるとは限らないのだ。
「若が不安に思う必要はありません。うちの者たちはただでさえ世話焼きな性分な者ばかりですから。ここまで若が先を考えているのであれば、今と同じように見せるだけで構いませんからさっさと竜一さんのところに持っていきなさい。竜一さんも安心するでしょう」
「安心、するかな。バカって言われそうな気がするんだけど」
律が率直な不安を口にすると、修治はやれやれと言った風に答えた。
「若が悩み続けて出した結論を馬鹿の一言で済ます親はいませんよ」
いいからさっさと行けと言った口調で返され、律は差し出されたノートを受け取り事務室を出た。向かう先はもう父の居間しかない。学生にとっては夏休みだが、平日の午後。父は居間にいるだろう。
*****
事務室は母屋の真ん中を通る廊下を挟んで父の居間の逆側にあり、廊下側から向かった方が近いのだが、廊下側から入ると襖を開けなければならないという動作が含まれ、外廊下側の障子は開かれていることが多く、律は外廊下を回って居間に向かった。案の定、外廊下側の障子は開け放されたままになっており、父は暇を持て余しているのか煙草をふかしながら何かを見ているようだった。
「父さん。あのさ。少し話したいんだけど、いい?」
外廊下から律が声を掛けると、父は視線を律に向け「おう」と言ってきた。それを聞いて律は父の居間に入ると、座卓の対面に腰を下ろした。
「なした、律。珍しいな」
普段と変わらない口調で父は吸いかけの煙草を灰皿に揉み消した。どことなく父の様子が普段より穏やかな印象を受けたが、律にはその理由を聞くよりも先に話さなければならないことがある。
「進路を、決めようと思うんだけど」
「おう、ようやっとどうすっか決めんのか。大学行くんか?」
それが当然だろう、というような口ぶりで言ってきた。散々、家業を嫌がっていた律に対して出てくる言葉としては自然でもある。
「ううん。行かない。でさ、僕がここでしたいと思ってることを書いたから、見て。……それで、父さんが反対するんだったら、またちゃんと考え直してくるけど、大学には行かない。ここで、そういうことがしたい」
自分の意思表示をするのは難しいなと、律は実の父を前に言葉を選んで先ほどのノートを差し出した。無言でぱらりとノートをめくる父の仕草に、律はなんと言われるかと緊張する。
ゆっくりとページをめくる武骨な手。ノートに落ちた視線がゆっくりと律の字を追っている。沈黙。
長い沈黙の後、父はノートに視線を落としたままぼそっと呟いた。
「ほんまお前はよう澪に似て育ったなぁ」
なにか感慨深そうに父はそう言った。しかし、当の律は母の記憶を一切持たなく実感がない。そしてその言葉が律の主張に対する否定なのか肯定なのかも測り切れない。律が困惑していると父はぱたりとノートを閉じて律に戻した。
「お前の思ったようにしてけばええ。嫌々家業継ぐってんじゃねえならええ。嫌なのに自分を納得させんのにこんだけ言い訳しとるようには見えんけどなァ」
「嫌々じゃない。僕がここでしたいって思ったこと、そこに全部書いた。僕は、父さんの後を継ぎたい」
明確な言葉に出して言うと、律は急に緊張した。どうしても散々反発して高校三年の夏休みも終わるというタイミングで出した答えでは進学への逃げと捉えられてもおかしくはないが、律にはそれだけの時間とその間に起きた経験が必要だった。
「お前らしくてええやん。蓮が怖くないと思える場所を作るんやろ?」
「……なんで父さんまでそこ、まず見るの?」
もうすぐ夏休みも終わるという日の晴天の午後。真面目に進路を決めたという決意を告げに来たというのに、父まで修治と同じことを言うものだから、律は思わず顔を顰めた。
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