#24 知らなかったこと

 夏休みの間、律は普段より長い間起床後、離れの縁側で考え事をし、その後は蓮を起こして朝食の後は休みだというのに昼間黒瀬家に入り浸る子どもたちと一緒に過ごすことが多い。時々、蓮と二人で町中華を食べに行ったり買い物をしたりと出かけもする。

 子どもたちと言っても小学生から上は律と蓮と同じく高校生まで幅が広い。中学生や高校生ともなると言うこともほぼ同年代のレベルになるが、学校のクラスメイトだと女子を律から遠ざける蓮はなぜか黒瀬家に入り浸る不登校児には威嚇しない。むしろ不思議なくらい馴染んで一緒にはしゃいですらいる。

 夏休みの間、黒瀬家に入り浸る子どもたちは顔ぶれがくるくると入れ替わるが、中に律が知っている中で毎日くる子がいた。まだ小学校中学年か高学年かの痩せた女の子。無口で、あまり誰とも喋らず、いつも隅で膝を抱えて静かに本を読んでいる。普段の律は学校に行っている間に子どもたちが帰ってしまうため、事情に詳しくないが、なぜかその子どもが気になっていた。

 盆が終わり、八月も下旬に差し掛かったある日。珍しく昼間黒瀬家の食堂で賑やかしく遊ぶ子どもが少なく、年齢もばらばらな子が五人ほどしかいなかった。そして、その日もその痩せた女の子は部屋の隅で本を読んでいた。他には同じく小学生が二人、中学生と高校生が一人ずつ。中学生と高校生は両方とも女の子で話に熱中しており、二人の小学生は蓮が一緒に庭で遊んでいた。

 律は痩せた女の子がどうしても気になり、そっと近づいてしゃがみこんだ。

「ねえ、隣にいてもいいかな」

 怖がらせないように、と内心びくびくしながら律は女の子に声をかけた。祭りの屋台に遊びに来る子どもたちとは雰囲気が違う。無邪気な人懐っこさがなく、子どもに慣れている律でも慎重になってしまう。いつも一人で部屋の隅で一人で本を読んでいて、無口で、ほとんど誰とも喋らないのに毎日来る子ども。どこか矛盾を感じる。

 女の子は顔を上げてこくりと頷いて、また視線を本に移した。一瞬だけあった目が、子どもなのに無気力で律はぞくりとする。その目を律は知っている。律と父が蓮に怒鳴り散らし、傷を抉ってしまった時の虚ろさに似ていた。

 隣に座り込んだはいいが、律はどう彼女に話しかけていいのか会話の糸口が見つからない。女の子は律がいることには頷いたが、そのまま本を読んでいて話をする意思はなさそうだ。無理に話しかけて邪魔をしてもいけないだろうと、律は隣に座って女の子の読書を邪魔しないことにした。

 肩にかかるくらいの長さの髪は不器用な工作ばさみででも切ったかのように振揃い。大きな目。細い手足。成長期の子どもなはずなのに、不自然に痩せている。目が無気力に虚ろで、言葉が極端に少ない。そして、ふと律が女の子の様子を観察していると目に入ってきた半袖から覗くあざ。ひとつ見つけてしまうと、連鎖的に気付いてしまうものなのか、ワンピースの襟ぐり、スカートの裾ぎりぎりの場所など衣服で隠れてしまうところに、痩せた体に服が着られているがゆえに不自然なあざが目に付く。それから、細かい掠り傷。

 ──これは。この子は。

 律は平静を装うのが精いっぱいで、余計に言葉が出なくなった。見るからに大人しい子どもが無茶な遊び方をして一時的にできた怪我にしては、どうにも納得いかない。そして女の子が毎日黒瀬家に来ているという理由にも、言葉が少ない理由にもならない。律の知っている祭りの屋台に遊びにくるような子どもと、この女の子の雰囲気が違うと律が感じた理由が〝そう〟であるとしたら。

 そこまで考えて、律は密かに深呼吸した。

 ──ずっと、このままだったらいいのに。そう願った。けれど、それが現状維持だけでいいのだろうかという疑問に変わった。こうして近所の年の近い子から小さな子までが友達の家に遊びに来るように居場所にしているのはいいと思う。けれど、ほかに安全な場所を知らないから来ている子がいたら? 場所だけを解放してなにもしないのであれば、見て見ない振りをしているのと同じではないのか。

 けれど、それは本人か本人の家庭の事情でむやみに聞き出しても他人はきっと簡単に介入できる問題ではない。少なくとも、いまの律にはなにもできない。

「……律おにいちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」

 ふと、律がぐるぐると考えていると女の子に細い声で話しかけられた。

「ううん。どこも痛くないよ。そんな風に見えた?」

「うん。痛いの、我慢してるみたい」

 律が思い悩んでいることを、痛いのを我慢していると表現する女の子の認識は辛いことや痛いことは我慢する対象なのかと理解すると、律は女の子に向き直って「大丈夫だよ」と返した。驚かさないようにそっと手を伸べて頭の側部を撫でると、手のひらに返ってくる感触に違和感があり、女の子の表情が変わった。ぎゅっと目を瞑り、唇を噛んでいる。律は慌てて手を引いた。

「痛かったんだね。ごめんね」

 歪に膨れた感触は内出血の跡だろうかと律はうろたえる。頭部の歪な内出血に膨れた跡の感触は、つい少し前まで蓮にも残っていた。同じ感触だった。

 けれど、女の子はふるふると頭を振ってぎゅう、と律に無言で抱き着いてきた。膝を抱えて座っていた体勢から中腰になって手を伸ばして抱きついてきた女の子の足にくっきりとあざが残っているのが律には見えた。どこなら触れても痛くないのだろうと迷って、律は細い女の子の背中をそっと支えた。

「……おうちにいるの、嫌なの?」

「……うん……」

「ここにいる時は?」

「あんしん」

 その言葉を聞いて、律はほんの少しだけ救われた気持ちになる。

「いつでもおいで」

 いまの律に言える精一杯のことはそれだけしかない。その女の子は翌日もやはり来ていて、一人で静かに本を読んでいた。


*****


 長い休みの間だと普段は気にしない、あるいは知らないことが目に入る機会が多い。

 別の日の朝。普段よりも早く起きてしまった律は離れの冷蔵庫の麦茶がなくなっていることに気付き、母屋へ取りに行こうとした。台所までのルートは離れと母屋を繋ぐ廊下から母屋の外廊下を渡って食堂側から向かった方が早い。まだ早朝の静かな外廊下を歩いていると、こんな時間なのに食堂から話し声が聞こえた。帰りが遅かった者の誰かかと思ったが、どうやら様子が違うらしい。

 タイミングが悪かったかな、と律は思わず食堂に入る前に足を止めて廊下で中をうかがった。この家の者は知らない人を気軽に連れ込んでは「とりあえずメシ食え」と言って食事を提供していることが多々ある。今回もそんな様子だった。外廊下側の障子は開けたままになっていて中の会話は律にもそのまま聞こえてくる。邪魔になりそうなら麦茶のパックは改めて後にしようかと判断しようとした。

 中には黒瀬の若い男と、まだ大学生くらいの年齢の知らない青年。青年は疲れているというより、極度に落ち込んでいる様子で食事にも勢いがない。食卓の角を挟んで茶を飲んでいる男は特に深刻そうな顔もしないで「まあ、ゆっくり食えや。食ったら話聞かせてくんねーか?」と世間話でもするような口調で言っている。

 これはこの青年に訳があって若い男が連れてきたのだろう。律がこのまま立ち聞きしてしまっていいのか迷ってると、青年が精気のない声で「ごちそうさまでした」と言った後「……あの、ご迷惑をおかけしました……」とぽつりと呟いた。

 出直した方がいいかと律が来た廊下を戻ろうとすると、若い男の声で思わず足が止まった。

「少しは落ち着いたか? なんであんなことしたんだよ、お前。彼女っぽかったじゃん。喧嘩?」

 若い男の世間話のような軽い口調。だが、そこで食事をしていた疲弊しきっているように見える青年はどうやら女性に暴力をふるったらしい。え? と律は固まった。ちらりと食堂を覗いた時に、青年にそのような暴力性を感じなかったのだ。人は見かけによらない、とは言うが、では若い男はどうしてそんな青年に食事を与えていたのだろうと次の疑問が湧く。

 外廊下で足を止めたままの律にはいつまでたっても青年の答えは聞こえない。

 若い男の言うように交際している男女の喧嘩だとしても、手を上げたというのならばなにかしら理由があるはずだ。ただ、理由もなく暴力を振るうのであれば──

 少なくとも女性の方になんらかの非がない限り、律は納得できない。なにかあったとしても、男女の力の差を含めればやはり律はその青年を軽蔑するだろう。けれど、いつまでたっても沈黙が続くばかりだった。律は思い切って踵を返すと食堂の入り口にそっと立った。

「ごめん。聞こえちゃったんだけど、お兄さんにひとつ訊いていい?」

 立ち聞きしていた立場としてはとても気まずいのだが、律は静かに青年に声をかけた。青年は驚きもせずに、疲弊しきった顔で「いいよ」と答えた。女性に手を上げたという青年が疲弊し精気のない声をしていることが律を更に戸惑わせる。

 律は食堂の中に入り、青年と少し距離を取った場所に座ると、思い切って口を開いた。

「お兄さんは、女の人に手を上げたの? どうして? 違ってたら、ごめん。……でも、僕にはわからないんだ。大事な人に暴力を振るってしまうっていうことが。口喧嘩とか、勘違いですれ違っちゃったりするのは……まだ、少しだけ理解できる。でも、痛いことをしてしまうのは、わからない」

 それは律の中に湧いた絶対に許せないと思った理不尽な暴力への素直な疑問だ。青年は律の言葉にしばらく沈黙した後、口を開いた。

「違わないよ。僕は彼女に手を上げた。平手で、頬を叩いてしまった。……どうして。君、高校生? 彼女とかいる?」

「……いない。けど、大事に思ってる人なら、いる」

「そっか……あのさ、俺、元々、劣等感だらけなんだよね。大学も二回浪人したし。彼女できたのも、初めてで。……でも、彼女さ、キャバクラでバイト始めちゃって……なんか、俺、なんなんだろってなってきて。彼女の持ち物もだんだん派手になってて。ブランド物の財布とかバッグとか。いくら割がいいバイトだからって、そんなん次から次へと新しいもの持ち出して、本当に自分で買ってんのかなとか。客にプレゼントされてんだったら、ブランドものなんて高いもの……受け取ってたらなんかあるんじゃないかとか……。俺って、いる意味あんのかなとか。んで、段々、酒、増えてって。好きじゃないのに。今日も、彼女の店が終わった時間に迎えに行ったんだけど、酔ってて……訳わかんなくなってて」

 しどろもどろな男の回答を律はじっと聞いていた。

「お兄さん、さ。怖かったの?」

 言葉が途切れたところで、律は静かに訊いた。

 青年の言っていることは、どことなく蓮の不安に似ていた。蓮の方は完全な疑心暗鬼だが、根源の感情とその後の行動が違うだけのように律には感じられる。

「怖かった、かも。もっとダサく言っちゃえば、嫉妬と不安だと、思うよ」

 吐き出した分、先ほどよりも落ち着いたのか、腹が満たされたからか、青年は疲労が和らぎ困った顔をして言った。

「……もうさ、こんなことしたくないよ。彼女と別れない限り不安だし嫉妬するんだろうな。好き、だし。だって、初めてできた彼女だし。ああ、でも……ひっぱたいちゃったし捨てられるかなぁ」

 力なく呟く青年は、律には根から悪い人間には見えなかった。確かに暴力を振るったのは悪いと思う。けれど、その裏で苦しみ、悲しんでいる青年には彼なりの抑圧の中で〝したくない〟と願っている。単純な「どうして?」の裏側にあった理由が複雑で、質問しておきながら律は言葉が見つからない。

「兄ちゃんなあ、そーやって一人でぐるぐる考えてっから酒飲んであんなことやっちまったんだろ? 酒飲んでる暇あんならバイトでもしねーか? 動いてたら余計なこと考える暇なくなることだってあんぜ」

 横でずっと話を聞いていた若い男がにやりと笑って口を挟んできた。

「え? バイトですか? 俺、大学生なんすけど」

「まー、どっかの店に一人くらいバイト入る隙あんだろ。兄ちゃんが彼女とどーすっかは置いといてよ、ちょっと体動かしてみん? あの辺にうちの親父、何件か店もってっし。キャバとかじゃなくて居酒屋とかも」

 物凄く気楽にどこかに遊びにでも誘うような雰囲気で若い男は青年に言う。確かに繁華街には黒瀬組が経営している飲食店が何件かある。ほとんどが内輪で回していて、黒瀬組の収入源の一つだ。だが、そんな簡単にバイト口の紹介などしていいのかと律はぽかんと驚いた。

「え? あの、ありがとうございます。突然すぎて……迷惑かけたのに……。少し、考えさせてください」

 状況を呑み込めていない青年は戸惑ったまま、提案に対する礼だけはしていた。

 その後は若い男と青年が少し雑談しているのを、律はそのまま聞いて、すっかり落ち着いた青年が「そろそろお暇します」と帰っていくのを玄関先まで見送った。青年の帰り際。

「ごめんなさい。どうして、なんて訊いたの、無神経だった」

「ううん。言葉に出してなかったら、俺、もっと酷いことしちゃってたかもしれないから。だから気にしないで」

 そう言う青年は根は善良な人なのだろうとどうしてか律は感じた。本当の悪意しかない人間はそんなことを言わないことを知っている。

「若ぁ、ビビらせんでくださいよー。もう俺、若がさっきの兄ちゃんに掴みかかるかと思って冷や冷やしてたんすからねー?」

 青年の後姿が見えなくなったところで若い男にぐったりとした声で律は言われた。

「え? そんなことしないけど、そんな風に見えたの?」

「めっちゃ真顔っしたもん」

「……ごめんね?」

 真顔だという自覚もなかった律は掴みかかることと表情が結びつかないまま、物騒な雰囲気に見えたことに対して謝った。先ほどの青年にもそう見えてたのだとしたら、脅しのような真似をしてしまったかもしれない。

「あのさー、若。さっきの兄ちゃんみたいのって、けっこーいるんすよ。普通に生きてて別に荒っぽい訳じゃねーのに、ストレスとかめっちゃ貯めて、酒やなんかのきっかけでストッパーぶっ飛んじゃうようなの。んで、ガチで元々のクズは別っすけど、あーいうタイプってそのままクズ一直線になってくか、どっかで自分で気付くか環境が変わったりして引き返せるか一応、まだルートが残ってるんすよ」

 相変わらず若い男は気軽な世間話のように言った。

「連の……お父さんは、どっちの方だったと思う?」

「ガチクズかクズルートじゃないすか」

「そっか」

 律は短く返事した。

 夏休みは、普段とは生活習慣が異なる分、知らないことが増えて積もり積もる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る