#18 蓮の知らない蓮
「どうしてって、律。お前なぁ……」
父は大きな溜息をつき、こめかみを押さえた。どうしてわからないのかといった雰囲気が伝わるが、律にわからないものはどうしようもない。そして、わからないから余計に不安になるのだ。だが、律はそれをうまく言葉にして伝えられなく不安から焦燥感が増していく。手に握った犬のキーホルダーに力が入る。
「竜一さん。若は蓮がここに来る前のことをほとんど知らないのですから、説明するにはいい機会では?」
パソコンの画面から視線を離すことなく、修治が簡潔に口を挟んできて、父はまた溜息をついた。
「んなこと、俺が言う筋でもないだがなぁ……」
「六歳までの記憶を頼りに蓮自身が語るのを待つのは非合理的ですし、客観性に欠けます。蓮もあなたの息子なんでしょう? 親の責任ですよ」
父と修治の会話の裏にはなにか怖いものが潜んでいると律は直感した。どうして、と安易に訊いたことの説明に理屈抜きの未知の恐怖が滲む。それでも律は蓮が「律を殴るくらいなら出て行く」と言った理由がわからなく、なんらかの原因があるのなら知りたいと思う。知らなければ、律はなにひとつ納得できない。
「僕が父さんに聞いちゃ駄目なことなら、蓮が帰ってきたらどうしてあんなこと言ったのかいくらでも問いただす。でも、蓮も覚えてないようなことなら、問いただしてもまた蓮を傷付けるだけだ。それは嫌なんだよ」
律はぐちゃぐちゃに混乱した頭でなんとか自分の主張を口にした。どこかに行ってしまった蓮は若い男たちと修治が総出で探している。なにも持たないで出て行った蓮がいくら体力があろうと逃げ切れるとは思えない。時間がかかったとしても、きっと帰ってくるだろう。ならば、律はただ無為に時間をやり過ごして待つのではなく、知らずに蓮を追い詰めていた原因と向き合わなければならないのではないか。
普段よりも冷静さを欠き、頭の回転も鈍くなっている。
それでもなにもしないで無知のままでいるよりは、まだましだ。
「……けったくそ悪い話やぞ……」
苦虫を噛み潰したような顔で父は吐き捨てるように言った。
「いい。僕は……蓮が笑ってるとこしか知らないから」
感情ばかりが先走って焦って慌てていた律の気持ちが潮の引くように静かになった。いま、律ができること。蓮を理解したい、一緒にいたいという気持ち。それから、好きという感情。どれも、律が知っているだけの蓮では足りない。
*****
父は淡々と律の知らない蓮のことを話していった。なぜそんなに淡々と語れるのだろうかと律は不思議に思ったが、途中で感情を持ち込むと十一年以上前のことでも腹立たしく、怒りが抑えられないのだろうと気付いた。父によると、母親が亡くなるまでの蓮の生い立ちはこうだ。
歌うことが好きで、容姿にも恵まれた二十歳にもならない蓮の母──沙世は、当時マイナーな事務所に所属しアイドル活動を地道にしていた。しかし、アイドルとして年齢の旬はあまりにも短すぎ、突出したカリスマ性もなければ成功する者など一握りの世界で引退し、普通の生活に戻るか活動の方向転換を強いられる。そのタイミングで、事務所の社員であった男と沙世は同棲することを選んだ。そこに恋愛感情があったのかどうかは不明だ。
円満な生活がどれだけあったのかも怪しい中で、蓮が生まれた。
けれど、家庭の崩壊は早く、子どもの首も座らないうちから男は暴力を振るうようになり、働いているのかどうかさえ不明で、生活費を賄えない沙世は生まれて間もない蓮を夜間保育に預けながらほぼ強制的に夜の店で働かされた。金は男に奪われ、暴力を振るわれ、ほんの気紛れに「すまなかった」と心底反省して「見捨てないでくれ。愛してるんだ」と囁くが、次の瞬間にはまた暴力が舞い戻ってくる。
暴力も金銭の奪取も年々エスカレートし、当然ながら蓮にも及び、蓮が四歳の時には沙世の水商売の稼ぎでは金銭的満足がいかなかった男は彼女を風俗店で無理矢理働かせようとしたという。それまで誰にも助けを求めることができなかった沙世の縋った先が、偶然客として酒を飲み来ていた父だ。歪な怯えた笑顔で渡してきた名刺の裏に、震えた字で「子どもを助けてください」とだけ書いてあった。
沙世は蓮を連れて父の手引きで男と離れることができた。住居も仕事も男からは離れたところに移し、どちらも仮に男に見つかっても対応できるように組の者の目の届くようにしていた。父も時々、沙世の働くラウンジや自宅に顔を出しては様子をうかがい、気にかけていると幼い蓮は自然と懐いていったという。沙世の働き先にラウンジを紹介したのは、夜の店でも歌うことのできる場所だったからだ。
けれど、ささやかな幸福は長続きせず、蓮が六歳になる前から沙世は病気を患い亡くなり、蓮はそのまま父が後見人になり黒瀬家へときた。
*****
「……あんなぁ、律。お前、知らんけど、蓮連れてきて割と早いうちに病院連れてったことあるんや。沙世は優しい女だったけんど、男があかんかった。六歳までであいつが安全やったんはたった二年や。医者が言うにはなあ、覚えてなくても覚えてるんやて。お前だってちっこい二歳や三歳の頃なんて碌に覚えとらんやろ。それが普通や。……でもなあ、恐怖ってのは強烈なんやと」
父がいったん話を切ると、律は犬のキーホルダーを握りしめたまま、精一杯冷静に問い返した。
「どうして、それが蓮が僕を殴るって言っちゃう話と繋がるの」
「あんな、律。お前、もう半分わかとんだろ」
「だって……蓮は、父親だなんて思ってないクソ野郎だって言ってた」
話を聞くほどに腹の底に渦巻いていく怒りを抑えながら、律は震える声で反論した。もし、律が感じている仮定が肯定されるのであれば、とんでもない話だ。
「そりゃな、さっきも言ったろ。覚えてなくても覚えてるって。そんで、蓮がそう言ったなら余計だろ。あいつはこっち側にいようとして踏ん張ってるってよ。どうやったってあいつん中からくそったれの血ィなくすことはできんからな」
「じゃあ、蓮は! そのクソ野郎のせいで!! 蓮は殴られてた側なのに、僕を殴るかもしれないって疑っちゃってんの!? なんでだよっ! そんなのおかしいじゃん! ……蓮、なんも悪くないじゃんっ……」
父の言葉に、律の中に蓄積された怒りが爆発した。母と子と虐待を受け続け、母を亡くし一人残された末に残ったものが暴力を与え続けた男の呪いだなど、あまりに残酷だ。
「父さん、どうしてそいつ、殺さなかったの。そいつが死んでたらまだ蓮は気にしなかったかもしれないのに」
衝動的に叫び散らかした後に、感情のない真顔で律は本気で訊いた。一瞬の間の後に、頭に衝撃が走って、律は平手で頭を叩かれたのだと気付いた。一気に目が覚めた。
「あほたれ。んなことしたらお前は殺人犯の子だし、沙世も蓮も世間の曝し者にされた挙句、警察からくっそウザい事情聴取されんやろ。裁判にだって参考人で呼ばれるわ。そんで、お前は蓮と一緒にいない人生になるんけどそれでもあのくそったれ殺してほしかったか?」
「あ……」
「あんな、律。お前が怒んのもわかるが、あんなくそったれほっといてもどっかで野垂れ死んどるわ。いませなあかんことはちゃうやろ」
「……蓮の、こと」
「おう。わかってりゃいい」
父は雑に律の頭を撫でてから座卓の向かい側に戻り、修治に蓮確保の進捗を聞いている。修治が眉間に皺を寄せながら返事した。
「芳しくありませんね。まあ、元々体力があるところに今の蓮は後先考えてないでしょうから手擦るのも無理ありませんが……考えてるのか考えてないのかわかりませんが、経路が問題です。線路を超えるとうちの者たちが派手なことをできません」
「あのバカ息子が。頭かち割ったろか」
口が悪い。粗暴。だが、父は理不尽な理由で暴力を行使しないことを律は知っている。その言葉が愛情の裏返しであることも。
けれど、話に聞いた蓮の父は違う。蓮の母から金銭を奪い、暴力をふるい、自由を奪い、更には無抵抗な子どもにまでそれを行使する。まるで自分より明確な弱者をサンドバッグのように扱った上に、支配し心まで蝕む。──そんなの、絶対に許さない。律の中で明確に嫌悪するものだけが残った。
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