#17 逃走中
がしゃん、と叩きつけるような玄関の音を律は動けないまま聞いた。嫌いという拒絶ではなく、出て行くという断絶の音のように聞こえ、律は少しの間呆然としたが、そんな場合ではないと慌ててかばんを手繰り寄せてスマホを手にした。
帰宅後、ほったらかしにしていたスマホには気付かないうちに蓮からのメッセージが何件も未読でたまっていた。
律、どこいんの?
立ち聞きしてねーって
待ってただけ
なあ、律?
シカト?
怒ってんの?
どーして?
全て、律が着信に気付いていなかっただけだが、そのメッセージで次第に蓮の不安が増幅していっているのが伝わる。律は何度も入力を間違えながら「どこにいるの」とメッセージを送ったが、不自然なほどすぐそばで着信音がした。は、と顔を上げると部屋の入口に蓮のかばんが放り投げられたままだ。ふらりと糸が切れたように力なく出て行った蓮はなにも持っていっていない。律が蓮のかばんを開けてみると、中にはスマホも財布もそのまま。学校から帰ってきた制服の、そのままで。
「……蓮。ほんとうにどこに行ったの……」
なにも持たない身一つで。
心の半分が急に毟り取られたような気持ちで律は呆然と自分のスマホと蓮のかばんを持ったまま崩れ落ちる。
冗談でも蓮が家を出て行くなどと言ったことはいままでない。それどころか蓮ひとりの希望ならば大人になったら黒瀬組に入れろと小さな頃から父に要求していた。蓮にとってこの家と黒瀬組という場所は単純な暴力団ではなかった。むやみやたらに暴力でなんでもねじ伏せるような──理不尽な暴力を加える蓮の父とは違った使い方をする場所だった。そのことを律が知らなかっただけで、蓮は体感として小さな頃から知っていたのだろう。だからと言って、
まだ十七歳の高校生の蓮が、なにも持たずに一人であてもなにもなく家を出て、心配しないなどという方が無理だ。武道の心得があり、強く健康でも、それを支えるものがなにもない。
「探さなきゃ。……探して……」
それからどうしたらいいかなど、まだ律にはわからない。けれど、ひとりでなにも持たずに出て行った蓮が、ただの一時の苛立ちでそう言ったのではないというのだけはわかる。本当に蓮は律を殴ったかもしれない自分を疑っているのだ。せめてその疑いさえ晴らすことができれば、例え蓮との関係が修復できなくても蓮が出て行く理由はなくなる。
いままで通りに戻りたいなどという我儘を言っている場合ではない。
玄関の方へ向かおうと立ち上がろうとして、律はバランスを崩して倒れた。思うように力が入らない。ぎちぎちに握っているスマホと蓮のかばんを持つ手だけ力んでいるのに、体がいうこときかなく、何度も立ち上がろうとしては倒れてようやく膝が震えていることに気付いた。──怖い。怖くて、思うように動けない。いまの律では、恐らくろくに走ることもままならない。まして、相手は蓮だ。体力も運動神経も律が勝てるはずない。
悔しいと思う。決定的に親子関係が破綻している訳ではないが、家業を否定しておきながら都合のいい時だけ頼るのは矛盾している。けれど、律がいま蓮のことで頼れる相手は他にいない。ぎこちなく蓮のかばんを掴んだ手を離して、律はスマホを操作した。画面に父のふざけた顔のアイコンが表示され、呼び出し音が数回。
「なした、律」
ほとんど律が父に通話を繋げたことなどないのに、対面で話すのと変わらない声が返ってきた。
「……たすけて……」
*****
しばらくして律の部屋に若い男が二人やってきて、両脇を支えられながら母屋の父の居間に連れられた。支えをなくした律はへたりこむように座り込み、ぎこちない口調で事情を話した。片手に役にも立たないスマホを握ったままだったが、いつか蓮がカプセルトイの被りだと言ってくれた緩い犬のキーホルダーがついている。茶色い犬が蓮に似ていると思って何気なくつけていた。
「情けねえツラァしてんじぇねえ、バカ息子が。──おい、修治。蓮探せ。なにがなんでも引きずり戻せ。総動員だ」
「わかってますよ。全く、世話が焼けますね」
同席していた修治が父の言葉に当然のように返事をして一度席を外したかと思うと、すぐにノートパソコンを持って戻ってきた。大きな座卓の端にノートパソコンを開いたかと思うと、脇に置いたスマホを操作しだした。かと思うと、
「全員聞いていますか。緊急事態です。炊事班以外はすぐに総動員で蓮を探してください。脱走です。多少手荒な真似は構いません。スマホのGPSをオンにするように。蓮を見つけ次第、確保。状況は随時連絡。取り逃がした場合はこちらから指示します。相手は若く体力の有り余ってる子どもです。数と包囲網でねじ伏せます。炊事班は補給モードに変更、作業終わり次第確保に合流です」
スピーカーにしたスマホに向かって家の者が全員含まれているグループに音声通話で指示を出した。その後は、恐らくパソコンでスマホのGPS取得をしているのか、かたかたと作業をし出したが、スピーカーにしたスマホからは男たちの声がいくつも返ってくる。即反応した者、なにがあったと言ってくる者、溜息をついている者、様々だが、蓮を探すことに総動員ということに文句を言う者はなく、心配の気配すら滲む。
「……修治、ごめん。僕、蓮の目印になれなかった」
「謝る必要はありません。子どもは失敗から学ぶものです。そして、それをフォローするのが大人の役目ですから」
修治は律の方を見もせずに落ち着いた返事をしてきた。律のスマホを握る手が強くなり、無意識のうちに左手の爪を噛んだが、歯触りが硬く先日クラスメイトに手入れされたことを思い出した。素の爪ではなくトップコートで保護された爪は簡単に噛み千切ることもできない。
「久々の総動員がバカ息子の捕獲たぁ、全く……」
父が溜息をつき、対面から腰を上げたかと思うと律の横に来てどかりと腰を下ろした。
「なあ、律。お前と蓮のことに首突っ込みたかねえがなあ、あいつが出てくっつったなら俺だって理由を聞いとかなんねえんだよ。血ィ繋がってなくても、所詮後見人だろうと、蓮も俺の息子なんだよ。親とまでは言えねえが、保護者ではある。責任てえもんがあんだ。悪ィが、どうしてそうなったんか話せ」
「……僕が、上手くできなかったから……」
「アホタレ。んな説明でわかるか。順を追って話せや」
ぺしっ、と頭を軽くたたかれて律はなんとか深呼吸をした。片手で握ったスマホに付けた犬のキーホルダーをもう片手でぎゅ、と握る。
「普段通りでいようと思って……上手くできなくて、失敗する度に蓮を振り回しちゃった。凹んだり、したし、八つ当たりもした。それでも普段通りにしようとして……たぶん蓮を混乱させた。僕が、上手くできなかったから、蓮はだんだん不安になってたんだと思う」
「そんでもあいつが出てくってなるにはちっとばかり飛躍してねえか?」
「蓮……覚えてないって言ってた。僕が怒鳴り散らしたこと。それで、僕も……父さんも修治もみんなもなんか変って。だから、僕が蓮に嘘ついたままめちゃくちゃなことしたから、偽物みたいって言われた。僕なのに僕じゃないみたいって。嘘なんて……蓮はわかってたんだ」
たどたどしく律が言うと、父に雑に頭を撫でられた。律は俯いたまま、顔を上げられない。片手に握った犬のキーホルダーだけが、律をなんとか繋ぎとめている。
「そりゃ、お前。んなこと言ったら、律だけじゃなくて俺ら全員同罪だ。お前がガキだから蓮に一番わかりやすかっただけだろ。そんでも、あいつはあいつなりに足搔いてたんだろうよ。だからそこまでは蓮が出てくっつった取っ掛かりでしかねえんだよ。律。まだなんか言ってないことあんな?」
そう訊かれて、律は唇を強く噛んだ。蓮に言われた言葉を口に出すことが苦しい。そんな最悪に追い詰めてしまったことに気付けなかった情けなさ、自分勝手、そんな自責が言葉を重くする。しばらく律が無言でいるうちに修治のスマホに蓮を探しに行っている者から報告が入った。
「修治さん! 蓮見つけました! 商店街の外れです。あっ! 待てこら蓮!! なんで逃げてんだよクソガキがっ!!」
「逃走方向は?」
「東方向! 中学校の方面ですっ」
「了解。商店街付近にいる者は中学校付近に先回りするように」
修治と町中に散らばっている男たちの会話を聞き、律は背筋が冷えた。蓮が逃げた。本当に出て行こうとしているということが会話の内容で嫌でも突きつけられる。
「蓮……自分の記憶が抜けてるとこ、疑ってて……僕に手を上げたんじゃないかって。そういうことするの否定できないって。蓮がそんなことするはずないのに。だから、僕を殴るくらいなら、出てくって。どうして? なんで、蓮はそんなこと言うの。蓮は絶対にそんなことしないよ。なのに、僕が否定しても蓮は僕に嘘つかなくていいって言って、それで……。わかんない。記憶が抜けてても、蓮は蓮だよ。いくら喧嘩っ早くても、理由もなしに誰かを殴ったりなんかしないのに、どうして」
蓮が逃げたという事実に、律の重苦しい言葉が堰を切ったように溢れた。
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