#19 犬は迷子にならない

 しばらくしてずっと繋ぎっぱなしにしていた修治のスマホのグループ通話から怒鳴り声が聞こえた。

「あっ! バカ蓮っ!」

 どうやら蓮を追っている誰かが取り逃がしたようだが、怒鳴り声の後にマイクが舌打ちの音まで拾っていた。

「どうしました?」

「あのバカ、高架下抜けって向こう側に逃げました! 修治さん、どうします?」

 冷静に包囲網を敷いていた修治の問いに回線越しに男が指示を求めてきた。

 黒瀬組の縄張りは線路を挟んで駅の東側。西側には手を出さない。西側を取り仕切っている黒瀬組のような組織はないが、逆にそれが問題でもある。要は混沌。一見平和に見える下町の多少賑やかな町でも、東は昔ながらの商店街や繁華街、西は大学があり、駅を挟んで様子が違う。入れ替わりの激しい学生街は同じく入れ替わりの激しい小規模なチンピラがたまりやすい。場合によっては、そのチンピラが様々な違法物の取引や売人の駒になっていることもあり得る。そんな者たちが複数存在している。束ねる組織がない分、厄介なのだ。

「……全員一旦停止です。各班二人一組になって、一班から蓮の後を追ってください。派手な行動は禁止。二班は駅付近に待機。一時間後に一班と交代。三班以降はいったん引いて休んでください。状況報告は随時続行。以上」

 総動員で敷いた包囲網が裏目に出たのか、蓮は黒瀬が自由に動き回る範囲を超えて逃走した。

 苦々しい修治の声を聞き、律は手の中の犬のキーホルダーに視線を落とす。たかがカプセルトイのおもちゃ。茶色い緩いデザインの犬が蓮に似ていると思って〝れん〟と名付けた。

「……蓮、本当に出て行くつもりなのかな……」

「あほか。なんも持たんで出てってもそのうち力尽きて警察の世話にでもなったら、どこに連絡来ると思てんだ。俺んとこだろ。十七のガキなんざ、まだ保護者の管理下だわ、ボケ。いまのあいつはパニクってるだけだろ」

 心もとなく律が呟くと、座卓の向かい側から呆れたように父が言ってきた。

「おう、修治。あのバカさっさと連れ帰んぞ。それ持って出んぞ」

「は? 竜一さん、状況を見ながら運転しろと?」

「お前はそっちに専念してろ。運転は俺がする」

「あー……手荒な運転は勘弁してください」

 唐突な父の命令に修治は一瞬、眉間を押さえたがすぐにノートパソコンの電源コードを抜き、繋げっぱなしのスマホを一緒にまとめだした。ついでのようにスマホのグループ通話に向かって「全員に通達。私と竜一さんがそちらに向かいます。状況報告はいっそう詳細にするように」と指令を出している。

「父さん!」

「なんだ?」

「僕も行く」

 蓮が「出て行く」と言い出した原因である自分が行っていいのか迷わなかったと言えば噓になる。しかし、このまま待つだけでは律の気持ちが収まらない。考えるよりも先に口から言葉が出ていた。ずっとそばにいたものが零れ落ちてしまいそうな不安でいっぱいなのだ。

「ついてくるだけならええ」

 意外にも父は短い言葉であっさりと了承した。修治の準備が整ったところで父は無言のまま立ち上がり、先に出て行く。その横顔は律が見たことのない表情をしていた。

「……父さん、なんか……」

 先に出て行った父に違和感を察知した律が思わず呟くと、修治が溜息をついた。

「怒っているのですよ。若がショックを受けているのは勿論ですが、竜一さんも同じでしょう。難しいことだとはわかっていても、蓮がこの家に来て十一年の間にこのようなことはありませんでしたから。若も蓮も反抗期らしい反抗期もないまま育ってしまいましたから、反動かもしれませんね」

「それは父さん? それとも蓮?」

「両方でしょう」


*****


 父の運転する車に、助手席に修治、後部座席に律の順で乗り込むと車は駅の方へと向かった。

「竜一さん、いいですか。このまま西側に入っては面倒ですし蓮の現在位置もはっきりしません。東側の境界線で巡行して場所特定次第即動きます」

「おうよ」

 他の交通の邪魔にならない程度の速度で父は駅の周辺を巡回するように進路を切っていく。修治の言葉に返事をして以降は無言だった。

「……若。今更、わざわざ補足することでもありませんが、沙世さんは竜一さんの愛人ではありませんよ。竜一さんが立場の弱い、困っている女性に弱いだけです。放っておけない質なので、端から見たら愛人のように見えるので誤解を受けますが、情に厚いだけです。まあ……相手に勘違いされることもありますが」

 ふと、突然そんなことを修治が言ってきた。運転席の父が「うるせえ」と呟く。

「そんな気は……してた。母さんの部屋に誰も入れないし、母さんの部屋の前で酔い潰れてるし……それに蓮も、蓮のお母さんが本当に父さんの愛人だったら、いくら小さくても僕のことあんなに受け入れてくれなかったと、思うし。だから、そういうことにしておけば説明が簡単なだけだったんだと、思う」

「まあ、竜一さんは澪さんをいまだに引きずってる人ですから言うだけ野暮でしたね」

「……修治、黙れや。まだ蓮の場所特定できんのか」

 運転している隣で自分のことを語られ、恥ずかしいのか苛立ったままなのかぶっきらぼうな声で父が話を強引に切断した。

「いまは少数で捜索しています。蓮が西に向かったことは確かですが、どこをほっつき歩ているかまではさすがに。五組では探せる範囲が限られています。東側に戻ったとしたら控えている二班からの報告があるでしょう」

 父の苛立ち紛れの声にも動じず、修治は冷静に答えている。

 外は夏空が暮れて、夜に侵食され地上の建物や街灯の明かりが律の不安を増す。蓮と二人で息抜きにと駅前のカラオケで遊んだ帰りに、違法薬物の売人に絡まれた。その日から壊れた蓮を何度も直そうとして失敗を繰り返し、いまに至っている。

「蓮……戻ってきても、もう僕と話したくないかもしれない……」

 笑ってくれないかもしれない。

 ただゆっくりと駅前の道を巡回しているだけの車の中で律の不安が零れた。蓮の疑惑の根源が蓮の中にある以上、律ができることはどこにあるのか。

「あんなぁ、律。お前はそれでいいんか?」

「……やだよ」

 淡々とした父の問いに、律は即答した。

「蓮が僕を殴るかもってビビって、本当に手を上げてきたら僕が殴り返す。そんなことしかいまは思いつかない。野蛮だし、人に手を上げるなんて嫌いだし、それが正しいかなんてわかんない。でも、なにもしないよりはマシだ」

「ええやろ。お前らずっとベッタベタでろくに喧嘩もしてんのやから、とっ捕まえてまずぶん殴って目え覚ましたれ」

 ずっとぴりぴりした空気を纏っていた父が面白そうに、はは、と笑った。それが律にはどうしてか、理解できない。しかし助手席の修治も少し笑ったようだった。

 一瞬だけ緩んだ車内の空気を緊張に引き戻したのは修治のスマホからの声だった。

「修治さん! 蓮、見つけました!!」

「……大学裏の……雑居ビルの路地? 向かいます。蓮はどうしていますか」

 修治がGPSから場所を特定し、訝し気に訊き返した。ぞくり、と律に嫌な予感がする。

「ぶっ倒れてます……誰かと争ったにしては、ボコられ過ぎです。だって、蓮ですよ……?」

 通話の向こうの男の声が動揺している。父が苛立ったまま舌打ちをして急ハンドルを切り、後部座席で律はバランスを崩しながら男の言葉を頭の中で反芻した。──蓮が、倒れている。蓮が? 喧嘩っ早くて、普段の朝稽古でも年上の屈強な男たちを前に楽しんでいる気配すらする蓮が?

「すぐに向かいます。蓮の頭は動かさないように。目立った外傷がないか確認して報告を」

「はいっ!」

 父は詳しい場所も聞かずにアクセルを踏んでいる。修治の声だけで大雑把な場所の把握は済んでいるのだ。律だけが動揺したまま、現実を受け入れられていない。律の知っている蓮は強い。身軽にライオンのように相手に挑む。確かに父や修治には敵わないが、決して弱くはない。

「蓮、これ……袋叩きじゃないっすか……? 打撲痕、裂傷が全身。ガードしてたら急所に傷は少ないはずなのに、どこも守ってる感じしないんすよ……」

「伸びてるだけですか? 出血や内出血の様子を詳しく。頭部に激しい損傷は?」

「っと、詳しくねえからわかんねーっすけど、生きては、います」

「修治ィ! 詳しい場所!!」

「大学裏、並木通り左手、信号一つ目通過後三件目の雑居ビルの脇道ですね」

 男の報告に確認をしている修治の間に父の怒鳴り声が割り入り、向かう場所が確定すると運転は荒さを増した。

 律は聞こえてくる情報だけで血の気が引くのを感じる。生きてはいる。けれど、蓮には防御も反撃の様子もなく、倒れている。なにも律が安心できる要素がない。心が凍り付いたように冷たくなって、生きた心地がしない。なにか、いままでの普段の生活が夢のような遠い存在に感じられて、空恐ろしかった。

「れ、ん」

 震える掠れる声で呟いたが、律の声は父にも修治にも届かなかった。

 車内で律だけ隔離されたかのように走行音も父と修治の会話も、スマホ越しの男の声も遠い。心臓の音だけが鼓膜を直接叩くようにやかましい。急に平衡感覚が取れなくなり、気持ち悪さがこみあげてくる。律の時間だけ歪んで、気持ちは焦るのに重りをつけられたようになにもかもが遅く感じる。

 律の額に冷や汗とも脂汗ともつかないものが伝った。手の中に握っている茶色い犬のキーホルダーの感覚がなくなっていくような錯覚が律を襲ってくる。

 がくん、と車が急停車し、シートベルトに守られた律の頭だけが盛大に揺れた。ぐらぐらして気持ち悪い。

「律! あのバカ回収しに行くぞ。お前、ここにいるんか?」

 運転席の父から怒鳴られた。父と修治はもう車を降りようとしている。

「い、行く!」

 震える声で律は返事したが、律のシートベルトを外す手が上手く動かない。普段ならどうということのない動作なのだが、手が固まってしまって難しい。すぐ近くに蓮がいるのに、と思うほど律の焦りは増す。

 後部座席、律の座っている側のドアが開き、修治が短く「若」と声をかけてきた。

「待って。すぐ、出る、から」

「大丈夫です。置いていきません。……落ち着きなさいというのも、無理な話です」

 そう言いながら、修治は屈んで律のシートベルトを外した。

 体が自由になると律は車を降り、父の背中を追って走り出した。だが、地面がぐにゃぐにゃで足元がおぼつかない。転ばないようにするだけで精一杯だった。

 雑居ビルと雑居ビルの間の薄暗い路地。街灯もなく、表通りからの街灯と月明かりが差し込むだけ。父の背中の向こうに、路地にしゃがみこんだ人影が二つ──いや、三つ。一つは両側から慎重に抱えられている。

「……れ、ん……蓮っ!!」

 喉の奥につかえる重く鈍いものを吐き出すように律は叫んだ。もつれそうになる足でそこに辿り着くと、そのままへたりこんでしまう。律の視界に心もとない明かりでもはっきりと傷だらけの蓮の姿が飛び込んできた。

 殴られた跡、擦り傷、裂傷、皮膚と制服のシャツにこびりついた血、内出血。力なく伏せられた、目。

「蓮っ! 起きてよっ! 起きろよっ!! なにやってんだよ!」

 安静にするように男たちに抱えられている蓮に律は掴みかかり、揺さぶり、出したことのない大声で叫んでいた。男たちの戸惑いに律は気付いていない。

「ねえっ! 蓮、返事、して。……僕、蓮がいなくなるなんて、絶対嫌だよ」

 ただでさえ、車中のうちから恐怖にとり憑かれていた律の叫び声は細くなり、視界が一気に滲んでいく。零れた涙が蓮の汚れたシャツに落ちても律は自分が泣いていることを自覚できていない。

「蓮……お願いだから、戻ってきて。蓮が怖がることなんて、ないから」

 掴みかかった手に力が入らなくなり、触れているだけの手の先にはまだ体温があるのに律の不安は収まらない。まだ、一言もちゃんと好きだと言った覚えもないのに、うまく振る舞えないせいで誤解させた挙句、何者かに一方的に攻撃されて蓮は意識を失っている。

「……れん……」

 散々まくし立てても返事のない蓮を前に、律は力なくうなだれた。自覚のない涙ばかりが止め方を知らないように勝手に後から後からと溢れ出していく。

「れん……返事、して……」

 掠れた声で律が絞り出すと、聞きなれた声が鼓膜を揺らした。

「り、つ……」

 はっとして律は顔を上げたが、蓮の意識は戻っていなく、口だけが微かに動いたようだった。

 その時、律は後ろから肩を叩かれ、驚いて振り返ると父が視線を合わせるようにしゃがみこんでいた。

「律、安心せえ。蓮はな、こんくらいでくたばるような鍛え方しとらん」

「……でも」

「大丈夫やっつっとんやろ!」

 一喝されたかと思うと、父は立ち上がり修治を振り返った。

「修治、木村の院長さんとこ連絡入れて蓮診てもらえ。時間外にすまんって伝えとき」

 一方的に命令すると父は懐から車の鍵を修治に向かって放り投げた。

「はい。──若は、立てますか? 一緒に行くでしょう?」

「だいじょうぶ。立て、る。……父さんは?」

 二人の男が抱えていた蓮を修治が担いでいるのを見ながら、律は父に訊いた。愚問だとわかっていた。父の声は怒気を隠す気もない。

「あぁ? 決まってんだろ。俺の息子らボコって泣かしたクソども潰しに行くだろ。カスが。二度と近寄れねえようにしたったるわ」

 相変わらずの父の暴言に、なぜか律は少しだけ安心した。

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