#15 上手くやれてると思った
──蓮を好きだなんて、当然だと思っていた。だって、六歳からずっと一緒にいて同じ年で、家の中で一番近い子供っていう存在。喧嘩らしい喧嘩もほとんどない。それだけ仲が良くて嫌いだという方が無理がある。
けれど──好きって、なに? 恋愛感情って、なに?
いままで思っていた好きとなにが違うの。特別に好きって、家のみんなと商店街の人たちに対する好きの度合いが違うのと同じじゃないの。ただ、その好きの一番が蓮なだけで。
律はぐるぐると考え、しまいには辞書を引っ張り出し、意味を引いた。
恋愛感情。相手を恋しいと思うこと、恋を抱いた感情、などの意味の表現。
そしてまたわからなくなる。恋とは、と。そして、今度は恋の項目を引く。
恋。一・特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「—に落ちる」「—に破れる」二・土地、植物、季節などに思いを寄せること。
これもまた抽象的で判然としない。律にとって蓮を好きなことは自然で、一番になることも当然なのだ。特定の相手に強く惹かれると言われても他に比較対象がない。切ないまでに深い思いというものを知らない。
律は辞書を放り投げてぐったりとベッドに体を投げ出した。修治はきっぱりと恋愛感情以外になにがあると言ったが、律には蓮を好きなことが当然すぎて、恋愛というもの自体が縁遠すぎたものでまったく理解が追い付かない。辞書を引いても説明は抽象的で具体例がない。そもそも恋愛感情や恋というもの自体は人によって形が違うのだろうから、具体例を出しようもないのかもしれないが、それでは困る。
「だってさ……蓮だって困るじゃん? 僕が蓮を特別に好きとかいったらさ……。僕、男だし」
ふと独り言を呟くと、律はなにか急に頭がすっきりした。
そもそも恋愛感情とは相手に伝えなければならないものなのか。律が驚いて動揺してしまったのは不意打ちのキスのせいだ。けれど蓮はキスとも認識していない。血が出てたら舐めておけば治るから程度の感覚で、律だけが好きの意味を書き換えられた。ならば、
手を繋ぐ、寄りかかる、そんなものの延長線上に傷ができて血が出てたら舐めるという行為が蓮の中で繋がっている。
単純に蓮の行動パターンが増えたと律の認識をアップデートするだけでいいのではないだろうか。律が蓮の行動に過剰に反応し、キスだと受け取ってしまったから混乱している。しかし、蓮の行動パターンが成長に伴い増えただけならば、律は蓮の行動をアップデートし、過剰反応しなければこんなことにはならない。そもそも律も修治に恋愛感情だと言われてもピンとこないのだ。まだ、蓮の行動バリエーションが増えて戸惑っていると考えた方が納得できる。──そしてその方が、経験したことない感情に向き合うよりもはるかに楽だ。
「……その方が、よさそうだ」
律は呟くと起き上がってぐい、と伸びをした。最近の蓮は前ほど過敏に驚くことも怯えることもなくなっている。まだ完全に回復したわけではないだろうが、ゆっくりと元に戻りつつある。そこで律が変に意識してしまうと悪影響を及ぼしかねない。律自身は蓮に対する認識を少し変えるだけでいい。触れ合う距離が少し近くなっているということ。そうすればなんの問題もない。
「蓮が帰ってきたら謝ろう……。でも、また謝ってばっかって言われるかな。喧嘩したわけでも、ないし。でも、また僕勝手に怒っちゃったし。んー……こういうのって謝るのかな」
独り言を言いながら律は部屋の中をぐるぐるしたが、結論は出ない。
当然だが、胸の中のぐちゃぐちゃがなくなっている訳もない。ただ、現状の解決策を見つけ、ぐちゃぐちゃから目を背けることができただけだ。天気がいいのに家の中にこもっているからすっきりしきれないのかと、律は思い立って散歩に出ることにした。
*****
夕方。律は離れの玄関先に座り込んで蓮が帰ってくるのを待っていた。謝るのが合っているのかどうかはわからないが、少なくとも朝、蓮が苛立って先に学校に行ったのは律の態度が原因であることは確かだ。ならば、わからないから一人にしてほしいといった言葉を撤回しなければ、律と蓮の関係はいつまでたってもぎくしゃくしたままだ。
それは嫌だ。
一番近くにいたはずの蓮に勘違いさせたまま距離を置かれることは苦しい。本当ならば、蓮に怒鳴り散らしてしまう前に戻りたいくらいなのだ。なんの疑いもなく、ただずっと一緒に行くことだけ漠然と信じて疑っていなかった頃に。それはほんのひと月も前のことではないのに、律にはもう随分前のことに思えてちぐはぐな日々が重くのしかかってずっと息苦しい。抜け出したい思いが気持ちより先を越してしまう。なのに、普段は意識しないようなことを考えてしまう異変に律は気付かない。
玄関で待ってたりしたら変かな。なんて言ったらいいかな。もう手を伸ばしても大丈夫かな。……蓮は、許してくれるかな。怒らないかな。
そんなこと考えもせずに、些細な喧嘩も数分で終わりにして仲直りする時ですら蓮の頭を撫でて苦笑しながら律が折れていたことを、いまの律は忘れてしまっている。あまりにも長い間日常的で癖やパターンのように話し、触れていたことが一度断絶されるとそれまでの普通がリセットされてしまっていると気付けていない。
渡り廊下の板が軋む足音が聞こえて、律は少しだけ身構えた。
なんて言えばいいんだっけ?
一瞬緊張でそれまで考えていたことが混乱に飲み込まれてしまいそうになる。がらりと玄関の引き戸が開いて肩にかばんを引っかけた蓮が律を見つけてぽかんとしている。
「えーと。なんで律、そんなとこいんの?」
「え。なんでって……えっと、あの」
もっと別のことを言われるだろうと想定していた分、蓮の第一声があまりにも普通の疑問で律は慌てた。上手く言葉が出てこない。喧嘩にもならないような八つ当たりを謝ろうとした動機さえ驚きすぎて抜けている。なのに、心臓だけやけにうるさくて律は更に混乱する。
「……律さ、引きこもりモード、もう終わり?」
ふと、蓮が律の隣にしゃがみこんで顔を覗き込んできた。
「……うん。終わり。……だから、蓮にあやま──え!?」
「よかったあああああああ」
律が言い終わる前に蓮はそのまま座り込んでぐったり律にのしかかってきた。深い溜息が同時に零れる。律の動悸が更に早くなるが、それよりも蓮がそれだけの言葉で全部流してしまう。
「蓮。怒ってないの?」
「なんで? ──あ、朝の? ごめんって。俺が勝手にイラってただけじゃん。俺の方が……悪い」
「違うよ。蓮は怒っていいんだよ。僕が八つ当たりみたいなことしたんだから、僕が悪い。だから、僕が謝んなきゃなんないんだけど。蓮は、なんで怒んないの」
「律がいればいいから。あー……でも、律のこと怒らせる俺は嫌だなー……」
めちゃくちゃなことを言いながら、蓮は大型犬のようにぐったり寄せた頭をぐりぐりと寄せて来る。まるでいままでと変わらないように、当然の仕草で。けれど、律には蓮の言葉が棘のように刺さる。怒らせるのは嫌。喧嘩っ早い癖に、律のことは怒らせたくないという。父でも修治でも、家にいる他の男たちを含めてでもなく、律だけ。確かに蓮はいつでも世界が律を中心に回っていることが当たり前のような言動をするが、いまの律にはその言動が勘違いの引き金になりかねない。
「律、怒ってたし」
それは昨日の混乱のことを指しているのだろう。蓮の言葉は間違いではないのだが、そもそもの基準が違っていれば不当ともいえる。
「……ごめんね。びっくりしすぎて……」
それ以上のことは律にはまだ上手く言えなかった。蓮のことを好きなのは当然で、恐らく蓮も同じで、ただ行動や仕草の範囲が違っただけだと思い込もうにも、いま蓮にのしかかられている重みと温度に心臓がうるさく胸が苦しい。修治に恋愛感情だなどと言われたせいで変に意識してしまう。スキンシップの延長上だと昼間は納得したはずなのに。
「律さー。俺、まだここにいていい?」
頭をごりごりと押し付けたまま、蓮が呟いた。
「は? なに言ってんの!? 馬鹿じゃないの!?」
あまりにもらしくない言葉に律は反射で返事をして肩に押し付けてくる蓮の頭を両手で引き剝がして、茶色い癖っ毛をぐちゃぐちゃに撫でた。
「まだってなに? 蓮、どっか行く気なの? どこ行くんだよ」
「え……? 行かないけど、律が嫌だったら……?」
「嫌なんて一言も言ってないじゃん」
「そーだけどー……?」
半分納得できないような、半分ほっとしたような、迷いと安堵の入り混じったような顔で蓮は、ふはっと笑う。律は蓮の頭をひとしきりぐちゃぐちゃに撫でまわして、ひとつ息をつく。──とても久しぶりに蓮の頭を撫でた気がする。心臓がうるさく、胸が苦しいが、それよりも撫でて触れた心地よさが上回る。
このまま。このままいれればいいのに。
*****
「りーつー飲みもん買い行こ」
授業の合間、蓮が背中から乗っかってきた。
「いいよ。でも蓮がどいてくんないと重いから動けない」
蓮の律に対する距離感が戻った。過剰に意識することをやめ、それでおかしくなっていた距離感も不安も全部解消できたと律は思っていた。席を立って並んで一階の自動販売機に向かう。途中でクラスメイトのギャルとすれ違った。
「あ。ねえ、りつりつ、手え見せて? 爪、噛んでないね。よし!」
ふふ、と笑ってクラスメイトは律が何気なく差し出した手をチェックして嬉しそうに去っていった。蓮との仲を気にしていた様子だったこともあり、安心でもしたのだろう。律の爪はまだ手入れされて数日でつやつやのままだ。
その手入れされた爪自体が律と蓮の間に明確な亀裂を入れた原因ではあるのだが、可視化されない言葉ならない不安が渦巻いていた状態を壊し、結果的にいい方向に着地したことは間違いない。
「女子ってすごいね」
くす、と笑いながら律が言うと、蓮も気付いたようだった。
「んー……律にちょっかい出す女子は許さんけど、あいつは許してやってもいい。律の爪、ぴかぴかにしたし」
相変わらず蓮の基準は律で、その判断もとても単純だ。けれど、律は蓮のその単純ではあるが明確なところに安心する。まだ、そうやって蓮の真ん中に自分がいることに安心する。日常的な会話をしている分には心地よく、変に心臓がうるさくなることも胸が苦しくなることもない。穏やかな普通のままだ。
「黒瀬。お前、放課後進路指導室来いー」
廊下のすれ違いざまに担任に軽く指示され、律は久しぶりに進路という単語を思い出し、溜息をついた。
「めんどくさいなー。もう進路とかどうでもいいじゃんー」
「律、めっちゃ進路呼び出しくらってんよな。俺、とっくに見放されてんもん」
「蓮のは見放されてるってより……」
言いかけて、律は「なんでもない」と打ち消した。高校受験の時もそうだった。蓮の進路はいつだって律の行くところで、高校受験の時は勉強の面倒を見たがいまは律がまだ大学進学かどうかさえも決めていないから進学の線を早々に切って単純に“律の行くところ”だけになっている。蓮の選択基準はかわっていなく、むしろずっと一貫している。ぐらぐらと揺れてぶれているのは律だけなのだ。
一階の自動販売機で蓮がまた牛乳を買っていて、律は笑った。
「蓮はさ、よく牛乳飲むね?」
「そうなー。昔さーかーちゃんが牛乳飲んだら強い子になるよって言ってたからかんなー」
何気ない返事をしながら蓮は笑う。子どもにありがちな体験ではある。律も似たようなことを言われた経験があるが、その発言者が母親ではないだけだ。なんとなしに、蓮のしなやかな強さの根源が垣間見えた気がする。律には母親という存在が生まれた時からなかった。
その存在が少しだけ羨ましくもある。けれどそれはないものねだりであると律は理解している。贅沢な我儘であることも。
「蓮ってお母さんに似てるのかな」
「わっかんね。チチオヤ似だったら嫌だけんどなー」
「それはないよ」
律は穏やかに少し笑う。ドメスティックバイオレンスの加害者である父親に蓮が似たとしたら、蓮は平気で律に手を上げ、なにかあれば暴力で解決しようとするだろうが、そんなことをしたことがない。喧嘩っ早くはあるが、自分から好戦的ではない。それを知っている律は断言できる。
リンゴジュースを律が買ったあとは、どうしようもなにもなくどうでもいい話をしながら屋上で授業をサボった。壁を背中にして座っていると、牛乳を飲みながら蓮が律に寄りかかってきて「どうしたの」と言うと「充電」と返された。
*****
上手くやれていると思っていた。蓮との距離は戻り、普通に話せる。時々、心臓がうるさいけれど無視すればいい。なにも問題はない。
放課後に進路指導室に行く時も律は「ちょっと行ってくるね」と蓮を教室に残して行った。進路指導自体は面倒くさく、どうしたものかとは考えていたが蓮との関係が悪いままのタイミングではない時でまだ救いだった。
「失礼します」
定型通りの言葉で進路指導室に入ると、担任に向かい側の席に座るように指さされた。
「黒瀬さぁ。そろそろマジで進路ちゃんと決めてくんない? もうさ、ぶっちゃけお前が進路希望三つ書いてくれて受験までしてくれりゃ学校的にはオッケーなんだよ。で、黒瀬、成績いいし偏差値高い大学受験して──入学するかどうかはお前の好きにしていいんだが、合格でもしてくれりゃ学校的には進学率も上がるってもんで嬉しい訳よ。ただなぁ、もうすぐ夏休み入るだろ? 高校三年、夏休み目前、進路不定の生徒ってのはなー……三年担任的にはな、困るっていうかなー……」
いままでの進路指導よりも随分砕けた物言いをする担任に、律は眉をしかめた。確かに三年の夏休み目前で進路の決まっていない生徒に担任が手を焼く気持ちは理解できるが。
「……それは、大人の都合では」
「そりゃそうだろ、お前。学校ってのはそういうシステムなんだよ。親御さんから生徒預かって、将来進学するのか就職すんのか振り分ける。学力に見合う大学なり就職先なりを提案する。勉強教えるだけが学校じゃねえんだよ。んなもん、小学校までだあほ」
担任の言葉自体は正しいのだろうが、律の癇に障ったことは間違いなかった。
そうやって大人は勝手になにかしらのレールを複数用意して選べという。担任も、父も。まっさらなところから踏み出す場所などない。それを選ぼうとすると様々な理由で社会規範から外れると暗に脅してくる。父はまだ明言しないが、この担任はあからさまに言う。
「黒瀬って子どもの頃なりたかったもんとかないの? だいたい高校三年生の進路選択なんてもんなんざ、子どもの頃になりたかったもんとかなんとかそんなんが動機なんだけどな?」
──子どもの頃になりたかったもの。
「そんなのないです! だって……なりたいものなんて誰も教えてくれなかった!!」
黒瀬組といういくら地域と親しく密接な関係にあったとしても暴力団という看板が掛けかえられない家に生まれ、父はその組長で、同居する男たちはその構成員。家庭内の全てが黒瀬組という看板に紐づいている。誰がどんなに優しく接してくれても、父以外は律を“若”と呼ぶ。その環境でなりたいものなど律の内側から自然に発生する要素がない。
反射で椅子を蹴って声を荒げた後、律は泣きそうな気持ちになっていることに気付き、これ以上は駄目だと逃げ出すように進路指導室を出た。──その先に。
進路指導室の引き戸の横の壁。ポケットに両手を突っ込んで壁にもたれかかったままの蓮と目が合った。
──どうして。教室にいるはずじゃなかったの。
「なんでいるんだよ! 立ち聞きすんなよ!!」
先ほどの担任とのやり取りで昂ってしまった感情のまま一方的に言うと、律は教室に戻りかばんを引っ掴んで早足で学校を出た。蓮に八つ当たりしたまま、泣きそうな気持ちで。
上手くやれていると思ったのに、また八つ当たりだ。どうして上手くできないんだろう。
律が泣きそうな原因のほとんどは進路ではなく、蓮のことを占めている。声を荒げた時の蓮の顔。捨て犬のような顔をしていた。前にも家の若い男が蓮を抜て犬のような顔をしていたと言っていた。ついこの間、蓮が「律さー。俺、まだここにいていい?」と言った。全部繋がってしまう。蓮の居場所を揺らがせている。律は一緒にいたいと思っているのに、伝わっていない。大丈夫だと安心させたいのに、できない。
鼓動が爆発しそうにうるさく、胸が苦しくて息が上手くできない。律の中のぐちゃぐちゃが急激に膨らんで不安になる。
──好き。だって、ずっと一緒にいたし。恋愛感情なんて知らないし。だから、普通にしたいのにできない。蓮を傷付けちゃう。嫌なのに。
泣いてしまわないように学校から駅まで走って、律は改札近くで肩で息をしながら膝に手をついて俯いた。いつまでたっても呼吸も気持ちも落ち着かなかったが、泣きそうな衝動だけは時間がたつと落ち着いた。律は子どもの頃から人前で泣かなかった。泣いてしまうと嫌なものも好きなものも無差別に否定してしまうようでできない。
改札を通る時には律は普段通りの顔をしていた。息苦しくても、胸が苦しくても、全部内側に隠す。
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