#14 世話が焼ける
「ただいまっ」
普段の穏やかな声ではなく言い捨てるように言って、律は玄関で靴も揃えずかばんを前に抱えて顔を隠すようにしてばたばたと離れの自室に逃げ込んだ。
かばんを乱暴に放り投げて着替えもせずに崩れるようにベッドに突っ伏して引き寄せた枕で頭を隠す。内心はぐちゃぐちゃだ。
蓮の馬鹿っ! なんであんなことしたんだよ! 馬鹿馬鹿っ!!
いつも一緒にいて距離が近くても、そんな風にされたことはなかった。どちらが上と言うわけでもないが、兄弟のようなものだと思っていた。だから、手を繋ぐことも寄りかかっていることも抱きついていることも互いに疑問にも思わなかった。けれど、たとえ指先であろうと唇が触れるとなると話が違う。いくら律が誰かを明確に好きだと思ったことがなくても、そのくらいの判別はつく。
舐めとけば治るなんて、子どもの言い分で、更にそれは自分で処理する場合にしか通用しない。
「ううー……」
ぎゅ、と頭を隠す枕を握る手を強くして律はくぐもった声を上げる。
律が蓮の行為に嫌悪したならばそれだけの話なのだが、律には嫌悪がない。驚きはしたが、それは不意打ちの反射反応で兄弟同然に育った同性に対する嫌悪感はなかった。そのことが余計に律を混乱させ、たかが指先に触れた唇だけで内心蓮を過剰に罵倒してしまう。
律の中に渦巻いているぐちゃぐちゃが肥大しきって爆発してしまいそうな不安に駆られる。蓮を壊してしまってからずっと律の中に居座るぐちゃぐちゃは、簡単に律を不安にさせてしまい、できるだけ目を背けていたが肥大しすぎたそれはもう目を背けられない存在になってしまって、いままでの全てを根底から覆していってしまいそうだ。
「あのさー……律。ごめん。あんなにびっくりすると思わんくて」
ふいに蓮の声が背中から聞こえた。いつの間に帰ってきたんだろうと考える余裕も律にはなかった。
「びっくりしたよ! 蓮はああいうの誰にでもするの」
「……なに言ってんの? 律だからじゃん。んーっと、ちびっことうちの親父や修治や兄貴たちは置いといてさ、俺が律以外のやつのこと要るって言ったことないと思うんだけど?」
「なにしたかわかってんの!?」
「傷、血ィ出てたから舐めようとした」
怒鳴ってはいけない、と頭ではわかっているのに律の声は大きくなっていたが一方的に怒鳴り散らすよりも混乱の方が前面に出ていたからか、蓮は平然としたまま答えを返してくる。律の機嫌を悪くしてしまったことは理解しているが、何が悪かったのかまでは理解が及ばないように逆上もしなければ問い詰めもしない。
「なあ、律。なんでそんなに泣きそうなん? 俺、そんなに嫌なことした?」
「泣かないし、嫌なことじゃないけど……! でもっ」
蓮にはキスしたという自覚さえないのだから、言っても仕方ないと律は言葉を飲み込む。律が勝手に意識してしまって混乱しているだけなのだ。蓮にとっては普通のなんでもないこと。
「律。言ってくんねーとわかんない。律に嫌なことしたくねえし、泣かせんのも嫌だけど、このままじゃわかんねーよ」
「……だって、僕にもわかんないもん……」
律は枕で顔を隠したままくぐもった声でなんとか返事した。蓮が言葉より行動の方が先行してしまうのはいつものことだ。それに、家族以外の他人にほとんど興味を示さないのも。けれどその範囲が度を越しているのか、そこになにかの感情が蓮にも律にもあるのかさえわからない。律自身も混乱したまま、冷静になれない。
「ごめん……僕もわかんない。だから、一人にして」
消え入りそうな声で律が言うと、廊下が軋む音がして隣の部屋の木戸の音が大きく鳴った。その音の大きさに蓮の苛立ちが現れているようで、律は苦しくなる。
*****
同じ家に住んでいれば律と蓮の関係などすぐに認知されてしまう。父や修治はもちろん、黒瀬家に住む若い男たちも二人の異変を察知するのは早かった。その晩の食卓で律と蓮の間に会話がない。食事を残すことを嫌って量を少なめに調整しているにも関わらず、律が食事を残す。蓮も普段ほど食べない。
つい最近、蓮の心が傷ついてしまった時とは違い、蓮自体は普段通りに回復しつつある。その傾向は崩れていなく、端から見れば喧嘩もしたことのない律と蓮が初めて喧嘩をしたとしか見えない。しかし、喧嘩というものは同じ屋根の下に住んでいる以上、比較的短期間で解決するものだ。だが、律と蓮の距離は次第に広がっている。
その原因を知っているのは律一人。そして、蓮を苛立たせている原因も律にある。一人にしてと言ったその言葉が、蓮との間に線を引いてしまった。わからないだけならばここまで拗れていなかったかもしれない。かといって、簡単に撤回できるような雰囲気ではない。蓮の苛立ちは律が一番肌で感じており、曖昧な前言撤回などでは済まない。蓮が「わからない」と言った返事を用意できないと律には取り付く島もない。
「なんやお前ら、まーだ喧嘩中か。いい加減、どっちか折れんかい。ガキみたいな意地の張り合いなんかするもんじゃねえ」
ある日の朝食の席で父が呆れたように言った。
「喧嘩じゃねえし! 違ぇし!」
律が反応する前に蓮が隣で声を荒げた。残っていた食事をかき込むように食べ、「ごちそーさん」と言うとかばんを持って居心地悪そうに食堂を出て行く。
「……んな、ガキの喧嘩ならとっくに折れてんだよ……」
ぼそりと呟いた蓮の言葉はしんとした食堂にいやに残った。律は箸を置いて俯いてしまう。
──子どもの喧嘩ならいくらでも折れる。
それは蓮に律の混乱が波及しているようでもあるし、単純な仲違いならば蓮が折れることに迷いはないとも取れる。どちらにしても蓮の中心には律がいる。だからこそ、律が不安定でいると蓮も巻き込まれてしまうのだ。
「なあ、律。お前、蓮になんかしたんか?」
父が溜息交じりに訊いてくるが、律には上手く説明ができなかった。朝食中で、食べ終えないと登校もできない。食事を残すことは好きではない。けれど、胸が詰まってしまって箸を持つ気力も湧いてこない。沈黙を貫いていると、父がもう一度溜息をついた。
外廊下の方から食堂に入ってきた男が「なんかあったんすか」と言ってきた。誰に対して、と言うわけでもなく。
「さっき、蓮とすれ違った時、あいつ変な顔してたっすけど」
「変な、とは?」
律の対面に座っていた修治が端的に訊き返した。
「なんつーんすかね? アレに似てましたよ。捨て犬。なしたんすか?」
「いえ。若と蓮の問題ですからあなたたちは普段通りで大丈夫です」
個人的な問題と大人と子どもをしっかり区別され、律は膝の上で両手を強く握った。噛んだ深爪はクラスメイトに手入れされて律自身の手を傷付けもしない。
「若ー。メシ、無理しなくていいっすよ。半分以上食ってるし、食欲ない時に無理しない方がいいんじゃないっすか?」
「あ……ごめん、ね」
ほとんどの者が食事を終えてそれぞれの食器を下げだし、律の前だけに食器が残っていることに気付き、律は小さく謝った。
目の前の食器を下げられても律はそのまま登校することも考えられずに動けなくなっていた。捨て犬のような顔をしていた。蓮が? 律には蓮のそんな顔が想像できなくて、蓮の言葉と相まって頭の中がぐちゃぐちゃになる。考えていることも、言いたいこともなにもかもがうまく言葉にできない。学校に行かなければならないのにとは思うのに、体が反応しない。父も修治も、他の男たちもいる場所で。
「律。学校、休むか? お前、そんなんじゃそこら歩ってて車に撥ねられんぞ」
「え……?」
「その方がいいでしょう。学校には連絡しておきます」
「それかんな、修治。お前、手え空いたら律の話聞いてやれ」
「竜一さん。あなた父親でしょう」
「馬鹿、お前、そりゃそうだけんどよ。相性ってもんがあんだろ。律はどうしたって澪似だし、蓮は……あいつはなぁ……」
「その基準で言えば、蓮は竜一さん似ですよ」
父の意外な提案に驚いて律が顔を上げると、父と修治がいつも通りの無駄のない会話をしているが、内容は仕事の話でもなく自分たちの話で驚く。確か、夏祭りの時も父は律を母に似ていると言っていた。──そして、蓮を修治は父に似ているという。六歳からもうすぐ十八歳になる十七歳のいままで一緒に育ったのだから、その言葉自体は父や修治の愛情表現と取れなくもない。けれど
蓮の母とも父とも似ているとは言わないんだ。
そちらの方が律には引っ掛かった。蓮の父が乱暴な男だったとは知っている。そんな父親に似ているとは蓮も言われたくないだろう。でも、母親の方は? 蓮が少しだけ語った母親は蓮の優しいもいでになっているはずなのに。蓮の歌う鼻歌も、母親が歌っていたと言っていたのに。優しい歌声、なのに。
けれど、律は父と修治の話に異論を挟めるほど蓮の母のことを知らない。ずっと一緒にいたのに知らないことがたくさんあると気付いてしまった。
「僕、向こうに戻る」
それだけぽつりと言うと、律はかばんを持って離れの方へと戻った。
学校は休めと言われた。これ以上、食堂で座り込んでいてもしょうがない。食道にいると、時々やってくる不登校児たちが場所を使う。いまの律は不登校児たちに混ざって気を紛らわすこともできそうになかった。
*****
普段、蓮の部屋にいることが多い分、律の部屋は寝るだけの場所になりかけており、最近は蓮との距離を一定にするために使っているが自室なのに落ち着かない。部屋にかばんを放って制服から普段着に着替えると、律は離れの茶の間の縁側でぼんやりとした。やることがないと困る。学校に行けば授業があって気が紛れるのに、それもない。
ぽっかりと空洞のように空いた時間に律は困惑する。頭の中に朝の断片的な言葉が浮かんでは消えていく。喧嘩じゃない。喧嘩なら折れている。捨てられた犬みたい。
……喧嘩にもなってないのは、そう……。
縁側の沓脱石に足を放り出して横になって空を見上げながら、律はようやくその事実に気付いた。一方的な拒絶。律が「一人にして」と理由もなく言い放った。蓮が苛立つのも当然だ。だが、蓮は律の混乱の原因をわかっていない。律自身もその混乱をまだ持て余して、蓮とどう接していいのかわからない。
原因はその行為と受け取り方の解釈次第なのだとぼんやりと青空を映しながら律の頭がゆっくりと動いていった。いつもそばにいて視界のどこかにいて、いないと不安で落ち着いて考えることもままならなかったが、半ば強制的に一人の時間を与えられると律に冷静さが戻ってきた。
「でも……じゃあ、僕は……馬鹿みたいに過剰反応してるみたいじゃん……」
蓮にキスされた指先を目の前にかざしながら律は呟いた。ぎざぎざの深爪が整えられて、まだつやつやの光沢が夏の日差しに光る。とても珍しいもののように手を握って爪の触り心地を確かめて、生え際に血が滲んでいるからと言ってキスされた。けれど、それをキスだと思っているのは律だけで、蓮は自覚さえしていない。
ならば、指先のキスくらいは蓮にとって手を繋ぐのと大差ないのだろう。
無理矢理納得しようとすればできなくもない。その方が蓮の誤解を解くことも簡単なはずだ。思春期独特の行き過ぎた思い込みだったと説明がつくだろう。──なのに、律はその結論に違和感がある。そんな風に指先に唇が触れたことを片付けてしまうと、胸の中のぐちゃぐちゃがまた大きくなる。不安で落ち着けなくなり、嘘を重ねるのと同じくらい蓮を直視できなくなりそうな予感がする。
「若は、なにを過剰反応だと思ってるんですか」
「え!? 待って、修治いたの!? いつから!?」
ふとかけられた声に律は驚いて縁側で体をひねって茶の間を振り返った。続いているキッチンに入っていく修治の後姿が見えた。
「盗み聞きするつもりはありませんでしたが、タイミングが悪かったですね。ただ、若と蓮が拗れている原因が少し見えました」
淡々とキッチンから修治の声か返ってくる。家の中の一部で鍵をかけている訳でもないのだから、修治を責めるのは筋違いだと律も理解はするが、恥ずかしい。キッチンで麦茶をグラスに用意した修治が縁側まで来て丁寧に麦茶を勧められ、律は体を起こして座り直した。
「……あのさ、修治。家族みたいに親しい間柄って、どこまで距離が近くていいの」
「人それぞれですが」
「いや! それはわかってるけど!」
どうにか言葉を選んで訊ねると、元も子もない返事をされ、律は頭を抱えた。そんなことはわかっているのだ。高校、中学、小学校、もっと前は幼稚園まで遡っても律の知る限り親子や兄弟・姉妹でも距離感は家庭によって違う。そして自分を取り囲む環境が一般的な家庭に当てはまらないことも知っている。いままではそれでも問題なかった。他者と比べる必要もなかった。家業以外は。
「もっと具体的な何かがあったのでしょう? 言いにくいですか?」
「もうさ、修治は察してんでしょ。僕と蓮のこと父さんと同じだけ見てんだもん」
大きな溜息をついて律は麦茶のグラスに手を伸ばしてこくりと飲んだ。
「察することはできますが、事実確認をしないといけませんからね。想定、想像、推論はあくまでも仮定です。大袈裟に考えすぎても過小評価しすぎても問題は解決しません。本質を捉えなければ私や竜一さんもなにも手出しできません。……まあ、十七歳の青少年の事情に大人が口出しするのも過保護ですが」
「……それ、僕たちの話なの? なんかすっごく難しい話になってる気がするんだけど」
「まあ、実際は年などあまり関係ありません。他人の気持ちなど誰もわからないということです。だから蓮はいま苛ついているのでしょう。若のことを全部知っているつもりだったのに、わからなくなってしまったから」
そう言われ、律は麦茶のグラスを置いて再び縁側に転がり「あー……」と声を上げた。修治の言葉が律にも刺さる。同じなのだ、恐らく。全部わかったつもりでいたのに、律の知らない蓮が増えすぎてどんどん混乱していく。少し、唇が触れただけで流しきれない。
「修治。もういっこ質問。唇で触れられたらなんだと思う? どの範囲までが家族? 気にする方が変?」
縁側で仰向けになったまま律は判断しきれないことを率直に訊いた。
「それはキスですし、欧米人じゃないんですから家族間ではしませんね。気にするということは、拒絶ではないと判断したとして、それは恋愛感情でしょう。ほかになにがあるんです」
「……え? 恋愛感情?」
「若が嫌だと感じたのであればシメますが?」
「待って! 待ってって!! 嫌じゃなかった! 大丈夫! そうじゃなくて、え? 恋愛感情って、なに」
とても馬鹿みたいなことを言っている自覚はあったが、律は修治を慌てて止め、ぽかんとした。
「好き、とかそういうの? だって、蓮だよ? 当然じゃん」
律の動揺したままの言葉に修治は眉間を押さえ、盛大な溜息をつき「若、いま幾つですか」と呟いた。
「十七。もうすぐ十八になるけど」
「誰かを特別に好きになった経験は?」
そう問われ、律は無言になった。中学辺りからクラスメイトが彼氏彼女がなどという話をしているのは知っていたが、関係ない話だと切り捨てていた。家業が迷惑をかけると考えていた。そして、蓮がいれば律には不満がなかった。
「……まあ、キスの場所は訊きません。初恋にしてはずいぶん遅いですが、これ以上大人がどうこう言っては野暮ってものです。頑張ってください、青少年」
ぽん、と律の頭を撫でて修治は茶の間を出て行こうとした。
「待って! もういっこ。……あのさ、僕も蓮も男なんだけど? それはさすがに大人は止めるんじゃないの?」
「若。いつの時代の話をしているんですか。いえ……昔からこういう生業の者には少なくないですから違いますね……。若、あなたの気持ちはあなただけのものです。大人がどう言おうと捻じ曲げる必要はありません。止めなければならないとしたら、蓮が若を受け止めない時だけです」
それだけ言うと、修治は母屋へと戻っていった。──呆れているかもしれない。
しかし、そんなことよりも。好きという感情。当然すぎて、当たり前すぎて恋愛感情だと言われても律には実感がない。誰かに向ける特別に好きだと思う感情だと言われればそうだ。父や修治、家にいる若い男たちに向けている好意と、蓮に向けている感情はほんの少し違う。けれど律はそれまで、その違いを一緒に育ったからだと信じて疑ったことがなかったのだ。
「蓮を──好き?」
声に出してみたが、言葉にすると律は余計に混乱した。
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