第7話 ペテン師に喝采を
その男が初めて劇場へ現れたとき、観客は三人しかいなかった。
潰れかけのマジックバー。
駅裏の雑居ビル四階。湿気たカーペットと安酒の匂いが染みついた場所だ。
私はそこで働いていた。
働いていた、というより、ほとんど住んでいた。
「お前さあ」
店長が煙草を咥えながら言う。
「今月で閉めるかも」
「また言ってる」
「今回はマジ」
毎月聞いている台詞だった。
その夜、男はふらりと現れた。
黒いスーツ。
古びた革靴。
細い指。
そして、人を馬鹿にしたみたいな笑い方。
「マジシャン募集って貼り紙、まだ有効?」
店長は露骨に嫌そうな顔をした。
「出演料出ねえぞ」
「別にいい」
「客もいねえぞ」
「そりゃ最高だ」
男は笑った。
名前はシロガネと名乗った。
たぶん偽名だ。
そもそも、あいつの口から出る言葉に、本当のことなんて一つもなさそうだった。
最初のショーを、私は今でも覚えている。
拍手なんて起きなかった。
ただ、空気だけが変わった。
トランプが消えるとか、鳩が出るとか、そういう派手な芸じゃない。
シロガネのマジックは、気づいた時には終わっている。
グラスの位置。
客の財布。
煙草の銘柄。
視線を外した、その一瞬で、世界が少しだけズレている。
種が分からない。
いや、たぶん見せる気がない。
観客を驚かせたいんじゃない。
“騙された時間そのもの”を楽しんでいた。
客は少しずつ増えた。
口コミだった。
「あの店、なんか変なマジシャンいる」
その言葉だけで、人が来るようになった。
満席になる日も出てきた。
でもシロガネは、相変わらずだった。
サインも断る。
常連の名前も覚えない。
喝采を浴びても、どこか退屈そうに笑っている。
ある夜、私は楽屋で聞いた。
「楽しいんですか」
「何が」
「マジック」
シロガネはネクタイを緩めながら、小さく笑った。
「楽しいよ」
「見えないですけど」
「そりゃそうだ」
鏡越しに目が合う。
「あんた、“騙された”って瞬間、嫌いか?」
少し考える。
「……まあ、内容によります」
「俺は好きだな」
シロガネはカードを指の上で遊ばせる。
「人間、自分が信じてたもん崩される瞬間だけ、本当に目ぇ開くから」
その言葉だけ、妙に覚えている。
店は、潰れなかった。
むしろ人気になった。
雑誌にも載った。
動画も拡散した。
けれどある日、シロガネは突然いなくなった。
置き手紙もない。
衣装も残っていない。
ただ、舞台のテーブルに、一枚だけカードが置いてあった。
ジョーカー。
店長は怒鳴った。
「客どうすんだよ!!」
常連は騒いだ。
「戻ってきますよね?」
でも私は、なんとなく分かっていた。
あの人は最初から、“消えるところまで”込みで演じていたのだ。
最後のショーみたいに。
その夜、代役で私は舞台へ立った。
スポットライトが熱い。
客席は満員だった。
みんな、シロガネを待っている。
当然だ。
私だって待っている。
沈黙が落ちる。
私はテーブルの上のジョーカーを見る。
ふと、笑いそうになった。
結局、最後まで騙されたままだ。
なのに、不思議と腹は立たない。
むしろ。
客席を見渡す。
誰もが、次に何が起きるのかと目を輝かせている。
ああ。
きっとこれが、あいつの欲しかった景色なんだろう。
私はジョーカーを指で弾く。
カードはくるくる回って、舞台の上へ落ちた。
その瞬間。
客席の誰かが、小さく拍手した。
やがて、それは波みたいに広がっていく。
喝采だった。
舞台にはもう、ペテン師なんていないのに。
月宮 余筆の雑騙り 月宮 余筆 (ツキミヤ ヨフデ) @9071108
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