第14話「不穏な平壌」
北朝鮮が沈黙し始めたのは、ロシア極東軍の移動が始まってから三日後だった。
衛星画像の分析結果を朱里から受け取った黒瀬渉は、その変化を静かに確認した。三十八度線に展開していた北朝鮮の機甲部隊が、じりじりと北へ後退し始めている。前線への補給も減っている。そして最も重要な変化——中朝国境付近、豆満江(とうまんこう)沿いに新たな陣地が構築され始めた。
南ではなく、北を向いた陣地だ。
「ロシア軍を警戒しています」黒瀬は言った。
「そうですね」朱里が答えた。「ウラジオストクから沿海州にかけて、ロシアの機甲師団が展開しています。北朝鮮の背後、二百キロ圏内です」
黒瀬は衛星画像を拡大した。豆満江沿いのロシア軍陣地。その対岸に、北朝鮮の新しい防衛ラインが見える。二つの軍が、川一本を挟んで向き合っていた。
グレチコは約束を守った。
平壌の動揺が表面化したのは、その翌日だった。
北朝鮮の国営メディアが、予定されていた「勝利宣言」の放送を突如延期した。代わりに流れたのは、金哲民(キム チョルミン)総書記の旧い映像の再放送だった。新しいメッセージがない、ということ自体が、メッセージだった。
「内部で何かが起きています」朱里が分析を報告した。「党幹部の動きが鈍い。対外発信が止まっています。中国への連絡も、昨日から途絶えています」
「中朝の連絡が途絶えた?」
「はい。中国側も困惑しているようです。北京の外務省が北朝鮮大使館に問い合わせを入れていますが、回答がないと」
黒瀬は少し考えた。
北朝鮮は今、三方向から圧力を受けている。南には韓国の残存軍と在韓米軍の撤退後も残る米軍装備。東の日本海にはロシア太平洋艦隊。そして北にはロシア陸軍の機甲師団。どこにも出口がない。
さらに——福岡への核使用という「切り札」も、もう使えない。ロシアが核の傘を日本に提供した以上、次の核を撃てば即座にロシアから報復が来る。
詰み、だ。
「平壌で権力闘争が起きている可能性は」と黒瀬は聞いた。
「あります」朱里が言った。「強硬派と穏健派の対立という見方が、CIA筋からも入っています。強硬派は『日本への追撃を続けろ』、穏健派は『ロシアを刺激するな』と」
「どちらが優勢か」
「今のところ——わかりません」
黒瀬は腕を組んだ。
北朝鮮の内部分裂は、両刃の剣だ。穏健派が勝てば交渉の余地が生まれる。だが強硬派が巻き返せば——追い詰められた国家が、最後の賭けに出る可能性がある。
「監視を強化しろ」黒瀬は言った。「特に核施設の動向。何か動きがあれば、深夜でも起こせ」
その夜、黒瀬のもとに意外な来客があった。
中国大使館の公使、陳偉明(ちんいめい)だ。四十代、細身、表情を読ませない男。事前のアポなし、非公式の接触。官邸ではなく、黒瀬が指定した都内のカフェで向き合った。
「突然の連絡をお許しください」陳が言った。日本語は流暢だった。「ただ、正式なルートを使えない事情がありまして」
「聞きます」
「率直に申し上げます」陳が少し前のめりになった。「北朝鮮の件で、中国は困っています」
黒瀬は表情を変えなかった。
「具体的には」
「我々は北朝鮮に、日本への核使用を止めるよう再三警告しました。しかし彼らは聞かなかった。福岡への核投下は——中国にとっても、想定外でした」
「想定外」黒瀬は繰り返した。「中朝は連携していたのではないですか」
「連携はしていました。ただし——核の使用は、中国が承認したものではありません」陳が静かに言った。「北朝鮮は独断で動いた。我々も、あの朝に初めて知りました」
黒瀬はその言葉の重さを測った。
本当かどうか、確認する手段はない。だが——仮に本当だとすれば、中朝同盟の亀裂はすでに相当深い。
「それを、なぜ私に言うのですか」
陳が少し間を置いた。
「北朝鮮が制御不能になることは、中国にとっても脅威です」陳は言った。「あの国が崩壊すれば、難民が中国に流れ込む。核施設が無人になれば、テロリストの標的になる。我々は安定を望んでいます」
「中国が望む安定と、日本が望む安定は——同じですか」
陳が黒瀬を見た。
「……今は、近い、と思っています」
黒瀬は少し考えた。
「一つだけ聞かせてください」
「どうぞ」
「八重山諸島から、いつ撤退しますか」
陳の目が、微かに動いた。
長い沈黙があった。カフェのBGMだけが、場違いなほど穏やかに流れていた。
「……それは」陳はゆっくりと言った。「私の権限では、お答えできません」
「では、北京に持ち帰ってください」黒瀬は言った。「中国が本当に安定を望むなら、答えはそこに出ます」
陳が立ち上がり、一礼した。
「伝えます」
陳が去った後、黒瀬はカフェの窓の外を見た。
夜の街に、人が歩いている。コートの襟を立てて、足早に。誰もが自分の行き先に向かって、ただ歩いている。
北朝鮮が揺れている。中国が揺れている。
この揺れを、どう使うか。
黒瀬は立ち上がり、コートを手に取った。
天秤が、少しずつ傾き始めている。
第14話 了
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