第15話「東京租界」

 東京が変わり始めたのは、静かにだった。

 最初に変わったのは、テレビだった。

 それまで親米路線を崩さなかった民放の大手コメンテーターたちが、番組から姿を消した。降板の理由は「体調不良」や「契約満了」とされた。代わりに現れたのは、これまでテレビに出る機会の少なかった論客たちだ。元外務省、元防衛省、元自衛官。彼らは口をそろえて言った。「日本は正しい選択をした」と。

 次に変わったのは、新聞だった。

 長年、日米同盟堅持を社論としてきた全国紙の論説委員長が退任した。後任の論説は、トーンが変わった。アメリカへの批判が増え、日露協力への肯定的な記事が増えた。

 黒瀬渉はそれらの変化を、執務室のモニターで眺めていた。

 自分たちが動かしたわけではない。だが止めてもいない。

 これが民意というものだ、と黒瀬は思った。人間は、生き残った側につく。


 親米派議員の失脚が始まったのは、その翌週だった。

 発端は一本の週刊誌記事だった。「米大統領との密約——日本を売った男たち」という見出し。内容は、福岡への核投下前後にアメリカと密かに接触し、「日本の降伏と引き換えに個人資産の保護を求めた」とされる議員たちのリストだった。

 記事の真偽は、黒瀬には判断できなかった。だが——タイミングは、完璧だった。

 翌日、リストに名前が載った議員のうち三人が記者会見を開き、涙ながらに否定した。否定すればするほど、疑惑は深まった。一人が議員辞職を表明すると、残りの二人も追い込まれた。

「渉さん」朱里が言った。「これ、誰が仕掛けたんですか」

「知らない」

「本当ですか」

 黒瀬は朱里を見た。

「知らない」と繰り返した。

 朱里が黙った。それ以上は聞かなかった。


 官邸前の抗議デモの顔ぶれが変わったのも、この頃だった。

 一か月前、「アメリカは出ていけ」と叫んでいた群衆は、今や「日露同盟を支持する」というプラカードを掲げていた。同じ場所に、同じ熱量で。人間の感情は、方向が変わっても量は変わらない。

 だが、別の声も確かにあった。

 都内の大学では、学生たちが「新ヤルタ協定の撤回を求める」集会を開いた。参加者は多くなかった。だがその顔には、怒りではなく、悲しみがあった。「ウクライナを裏切った」「民主主義を捨てた」。そう書かれたプラカードを持つ学生の一人が、カメラの前で泣いた。

 黒瀬はその映像を、三秒見た。

 目を背けなかった。背けてはいけない、と思った。あの涙は正しい。あの悲しみは正しい。自分がやっていることは、正しいことではない。ただ——必要なことだ。

 その違いを、黒瀬は決して混同しないようにしていた。


 在日米軍の動きが変わったのは、SWIFT排除から三週間後だった。

 横田基地から輸送機が相次いで離陸し、嘉手納基地の米軍機の数が減り始めた。公式発表はなかった。だが衛星画像は正直だった。在日米軍が、静かに、しかし確実に縮小していた。

「撤退ですか」朱里が聞いた。

「縮小だ。撤退とは言わないだろう。面子がある」

「……日本にとっては、どちらでも同じですね」

「同じじゃない」黒瀬は言った。「撤退なら終わり。縮小なら——まだ交渉の余地がある」

 朱里が少し考えた。

「アメリカと、また交渉するつもりですか」

「いつかは、しなければならない」黒瀬は言った。「今の状態が永遠に続くわけがない。アメリカも、日本も、どこかで折り合いをつける必要がある」

「でも——アメリカは激怒していますよ」

「怒りは、時間が解決する」黒瀬は言った。「感情より、利益の方が長持ちする。アメリカにとって、日本が完全にロシア側についた世界は——得ではない。彼らもいつかそれを計算する」

 朱里が窓の外を見た。東京の夕暮れが、ビルの隙間にオレンジ色を差し込んでいた。

「渉さんは、最終的にどんな世界にしたいんですか」

 黒瀬は少し間を置いた。

「どこかが支配する世界ではなく、どこもが生き残れる世界だ」

 朱里が黒瀬を見た。

「……きれいごとに聞こえます」

「そうだな」黒瀬は認めた。「だが、きれいごとを目指さなければ、ただの権力ゲームになる。それだけだ」


 その夜、台湾から情報が入った。

 台湾海峡の中国軍が、上陸作戦の第二波を準備中というものだった。台湾軍の防衛ラインは持ちこたえているが、消耗が激しい。制空権は五分五分。このまま二週間続けば——台湾の防衛が限界を迎える。

 黒瀬は地図を見た。

 台湾が落ちれば、東シナ海の制海権が完全に中国のものになる。日本のシーレーンが完全に断たれる。ロシアからのエネルギーは日本海ルートで確保できるが——それ以外の輸入が、すべて止まる。

 台湾は、まだ戦っている。

 その事実が、黒瀬の頭の奥に、静かに刺さった。

「台湾への支援は、何かできるか」黒瀬は朱里に聞いた。

「直接的な軍事支援は——憲法上も、現状の外交関係上も、難しいです」

「物資は」

「経由国が必要です。アメリカが動かない今、ルートがありません」

 黒瀬は地図を見続けた。

 台湾は、今夜も戦っている。

 自分には今、台湾を救う手がない。その事実を、黒瀬は引き出しに入れた。

 深く、静かに。

 いつか、開ける日のために。


第15話 了

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