第13話「ドルのない世界」
SWIFT排除から一週間が経った。
数字は正直だった。円は対ドルで百九十円台に張り付き、株式市場は三日連続でサーキットブレーカーが発動した。輸入企業の資金繰りが悪化し、中小製造業から悲鳴が上がり始めた。ガソリンスタンドには行列ができ、スーパーの棚から一部の輸入食品が消えた。
だが——死んではいない。
黒瀬渉はその数字を眺めながら、そう判断した。痛い。相当痛い。だが致命傷ではない。ロシアからのエネルギーと食料が届き続けている限り、日本の心臓は動く。
問題は、時間だ。
インド外務省の特使が東京に来たのは、SWIFT排除から九日後だった。
場所は外務省の迎賓室ではなく、都内の目立たないホテルの一室だ。公式の訪問ではない。インドもまた、アメリカの目を気にしていた。
特使はラジェシュ・クマールという男だった。五十代、長身、落ち着いた英語を話す。黒瀬とは初対面だったが、握手した瞬間に、この男が本物の交渉者だとわかった。目が、値踏みをしていた。
「日本の提案は聞いています」クマールが言った。「デジタル決済ネットワーク。非米経済圏の構築。興味深い」
「興味だけでは困ります」黒瀬は言った。「参加するかどうか、聞きに来ました」
クマールが微かに笑った。
「率直ですね」
「時間がありません」
「インドも、時間を大切にします」クマールは言った。「だからこそ聞かせてください。このネットワークが機能する保証は何ですか。日本はSWIFTを失った。ロシアはすでに制裁下にある。二つの弱者が組んでも、強者には勝てない」
黒瀬は少し間を置いた。
「弱者だとは思っていません」
「ほう」
「日本の技術力、ロシアの資源、インドの人口と市場——この三つが揃えば、ドル決済圏に依存しない経済圏として十分機能します。弱者の連合ではなく、新しい軸の構築です」
クマールが腕を組んだ。
「中国は、どう扱うつもりですか」
黒瀬は答えを持っていた。
「中国は入れません」
「理由は」
「彼らは今、日本の領土を占領しています。同じテーブルには座れない」
クマールが黙った。しばらく考えていた。
「……わかりました」クマールはやがて言った。「インドは参加します。ただし——条件があります」
「聞きます」
「このネットワークの運営に、インドが対等な発言権を持つこと。日本とロシアの二国で決めるのではなく、三か国の合議制にしてほしい」
黒瀬は即答した。
「構いません」
クマールが少し驚いた顔をした。もっと抵抗すると思っていたのだろう。
「本当にいいんですか」
「インドが対等でなければ、このネットワークに意味がない。形だけの参加では困ります。インドには本気で動いてもらう必要がある」
クマールがしばらく黒瀬を見ていた。
それから、手を差し出した。
「握手しましょう」
日銀の村上誠一からデジタル円の試験運用開始の報告が来たのは、その翌週だった。
黒瀬は日銀の一室で、村上とシステム担当者から説明を受けた。画面には、デジタル円の取引フローが映し出されていた。
「ロシアのルーブル、インドのルピーとの直接交換レートをリアルタイムで算出します」システム担当者が説明した。「SWIFTを経由せず、専用の暗号化回線で直接送金が完結します」
「遅延は」
「現状で三秒以内です。SWIFTの通常決済が一〜五営業日かかることを考えれば、むしろ速い」
「セキュリティは」
「アメリカのシステムに依存している部分を全て国産に切り替えました。脆弱性の検証は——」
「わかった」黒瀬は言った。「村上さん、いつから本運用できますか」
村上が眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「二週間、いただければ」
「一週間でお願いします」
村上が苦笑した。
「あなたと話すたびに、締め切りが縮まりますね」
「申し訳ありません」黒瀬は言った。「ただ——円が百九十円のままでは、一週間後に倒産する会社が出始めます」
村上の顔から笑いが消えた。
「……わかりました。一週間で動かします」
デジタル円の本運用が始まった日、黒瀬は官邸の執務室で為替のモニターを見ていた。
午前九時、取引開始。
最初の一時間は動きがなかった。市場が様子を見ていた。だが十時を過ぎた頃から、変化が現れた。円とルーブルの直接取引量が急増し始めた。インドのルピーとの取引も動いた。ブラジルとインドネシアの中央銀行が「参加を検討する」という声明を出した。
昼前に、円は百九十円台から百七十円台に戻した。
まだ安い。だが、方向が変わった。
「渉さん」朱里が言った。「見てください」
朱里が差し出したタブレットには、ニューヨーク・タイムズの速報が映っていた。
——Japan's Digital Yen Challenges Dollar Dominance(日本のデジタル円、ドルの覇権に挑戦)——
黒瀬はその見出しを読んで、タブレットを返した。
「挑戦、か」
「違うんですか」と朱里が聞いた。
「挑戦じゃない」黒瀬は言った。「生存だ」
朱里が黙った。
黒瀬は窓の外を見た。東京の昼が、静かに続いていた。
ドルのない世界は、まだ遠い。だが今日、その世界への最初の一歩が、静かに、しかし確実に踏み出された。
次の問題は——アメリカがこの動きをどう受け取るか、だ。
黒瀬の頭の中で、すでに次の手が動き始めていた。
第13話 了
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