第9話「新ヤルタ協定」
世界が日本の沈黙に気づいたのは、ブリュッセルの会議が始まって三時間後だった。
モスクワでの合意から五日後、予定通りG7緊急首脳会議がブリュッセルで開幕した。
G7緊急首脳会議。議題はただ一つ、東アジアの危機への対応だ。七か国の首脳が揃うはずのテーブルに、一つだけ空席があった。日本の席だ。議長国のフランス大統領が「技術的な問題」と説明したが、誰もそれを信じなかった。
会議が止まった。
代わりに各国の外交回線が一斉に動き出した。東京に電話が殺到した。外務省の回線が埋まった。だが日本政府の公式回答は一つだった。
——現在、独自の外交努力を進めている。
その七文字が、世界に火をつけた。
ヤルタのホテルで、黒瀬渉はその混乱をタブレット越しに眺めていた。
モスクワでの合意後、署名の場所はグレチコの提案でヤルタに変わった。「歴史的な場所がふさわしい」とグレチコは言った。黒瀬は異論を挟まなかった。
各国メディアの速報が次々と流れてくる。「日本、G7を離脱か」「東京、独自路線へ転換」「日米同盟の終焉」。見出しが躍るたびに、世界の地図が少しずつ塗り替えられていく感覚があった。
朱里から暗号メッセージが届いた。
——官邸、上を下への大騒ぎです。外務省から抗議が三十件。親米派の議員が辞表をちらつかせています。総理は執務室に籠もっています。
黒瀬は返信した。
——総理を守れ。あと四十八時間だ。
返信が来た。
——わかりました。でも早くしてください。
黒瀬はタブレットを閉じ、窓の外を見た。ヤルタの朝が白んでいた。黒海に面した海岸線が、薄い光の中にぼんやりと浮かんでいる。今日が正念場だ。ブリュッセルの衝撃が世界に広がっている今この瞬間、ウクライナとの停戦交渉を一気に進めなければならない。
時間が、すべてだ。
ヤルタの会議場での三日目は、これまでと空気が違った。
グレチコの隣に、新しい顔があった。六十代、銀縁眼鏡、無表情な男。通訳が耳元で囁く。「大統領府の法律顧問です」。つまり今日は、合意文書の草案を作る日だ。
黒瀬は鞄から資料を出した。
停戦の条件。占領地の扱い。国際的な監視機構の設置。ウクライナへの経済支援の枠組み。一つ一つが地雷原だった。踏み間違えれば交渉が吹き飛ぶ。慎重に、しかし速く進まなければならない。
午前中だけで三つの条項が合意し、二つが保留になった。
昼休憩を挟んで、午後の交渉が再開した。最大の難関は「占領地の国際的承認」の文言だった。ロシアは「永久的な領土確定」を求め、黒瀬は「現状の一時的な凍結」という表現で押し返した。
三時間、その一点だけで揉めた。
法律顧問が文案を書き直すたびに、黒瀬は細部を読み込み、修正を要求した。「永久」を「当面」に。「確定」を「維持」に。一文字ずつ、削り、書き換え、積み上げる。
夕方、グレチコが眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「お前は弁護士か」
「違います」
「だが交渉は弁護士より上手い」
「褒め言葉として受け取ります」
グレチコが小さく笑い、法律顧問に何かを言った。顧問が頷き、文案を書き直した。
黒瀬はその文案を読んだ。
——占領地域の現状は、本停戦協定の発効をもって当面の間維持される。最終的な地位については、将来の多国間協議に委ねるものとする。
完璧ではない。だが、これで十分だ。
「合意します」と黒瀬は言った。
停戦合意の署名式は、翌日の夜、ヤルタで行われた。
場所は海を見下ろす小さな迎賓館の一室だ。かつてルーズベルトとチャーチルとスターリンが世界の地図を引き直したこの街で、今夜また、歴史が書き換えられる。カメラもない。記者もいない。ロシア側とウクライナ側の代表、そして仲介役として黒瀬だけが立ち会った。
ウクライナ代表は若い男だった。三十代後半、軍服姿、目の下に深い隈がある。三年間戦い続けた顔だ。
署名の前、その男が黒瀬に近づいた。
「あなたが日本の特使ですか」英語だった。
「そうです」
男が黒瀬を見た。怒りとも悲しみとも取れる目だった。
「これは、裏切りだ」
黒瀬は答えなかった。否定もしなかった。
「我々は三年間、戦い続けた。仲間が死んだ。街が燃えた。それなのに——」
「わかっています」黒瀬は言った。静かに、しかしはっきりと。「それでも、これ以上人が死ぬことを止めるには、これしかなかった」
男が黙った。
「あなたたちを見捨てたのではありません」黒瀬は続けた。「ただ——我々にも、守らなければならない人間がいる」
男はしばらく黒瀬を見ていた。
それから、視線を切り、テーブルに向かい、ペンを取った。
署名した。
グレチコも署名した。
黒瀬は証人として、自分の名前を書いた。
黒瀬渉。
ペンを置いた瞬間、世界のどこかで、砲声が止んだ。
その夜、各国メディアが一斉に速報を流した。
「ウクライナ停戦合意、日本が仲介」「ロシア、占領地を事実上維持」「西側諸国、強く反発」。
SNSは「日本が裏切った」という言葉で溢れた。欧州の首脳が次々と声明を出した。アメリカ国務省が「深刻な懸念」を表明した。ウクライナの街では抗議デモが起きた。
世界中が、日本を非難した。
黒瀬はホテルの部屋でそれらの速報を眺めながら、朱里に短いメッセージを送った。
——第二段階、完了。次の準備を始めろ。
返信が来るまで、少し時間がかかった。
——わかりました。総理から伝言があります。「よくやった」と。
黒瀬はその一文を読んで、タブレットを閉じた。
窓の外、ヤルタの夜景が広がっていた。黒海が暗く、静かに凪いでいる。
よくやった、か。
黒瀬には、そうは思えなかった。あのウクライナ代表の目が、頭から離れなかった。裏切りだ、と言った声が、まだ耳に残っていた。
だが——それでも、止めなければならなかった。
引き出しを開けた。そっと、しまった。
また、閉めた。
まだ終わっていない。終わってから、開ける。
第9話 了
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