第10話「天文学的な恩義」
新ヤルタ協定の署名から七十二時間後、世界の反応は二つに割れた。
一方には、激怒した西側諸国がいた。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ。G7の残り六か国が緊急声明を出し、日本を「国際秩序の破壊者」と断じた。EUは駐日大使を召還し、ウクライナ議会は日本との外交関係の一時停止を決議した。
もう一方には、沈黙した国々がいた。
グローバルサウスと呼ばれる国々だ。インド、ブラジル、南アフリカ、インドネシア——彼らは声明を出さなかった。非難もしなかった。ただ、静かに様子を見ていた。その沈黙の意味を、黒瀬渉は正確に読んでいた。
西側に従う義理はない、と彼らは思っている。
黒瀬がモスクワのクレムリンに戻ったのは、署名から三日後だった。
今度は夜ではなく、昼間だった。案内された部屋も違う。窓から中庭が見える、明るい会議室。グレチコが先に座っていた。その表情は、初めて会った夜とは別人のように穏やかだった。戦争が終わった男の顔だ、と黒瀬は思った。
「座れ」とグレチコは言った。「今日はゆっくり話せる」
黒瀬は席に着いた。
「約束通り、ガスのパイプラインは動かした。サハリンから北海道への緊急ルートだ。最初の輸送は明後日に始まる」
「確認しています」
「小麦も手配した。ウラジオストクから輸送船が出る。一週間以内に日本海側の港に着く」
「感謝します」
グレチコが黒瀬を見た。
「礼を言う必要はない。これは取引だ」
「そうです」黒瀬は答えた。「だからこそ、次の取引の話をしに来ました」
グレチコの目が細くなった。
「……続けろ」
黒瀬は鞄から資料を取り出した。今回は一枚ではなく、十数枚の束だ。テーブルの上に置き、グレチコに向けて滑らせる。
「極東への軍備移動の件です」
グレチコが資料を手に取った。
「ウクライナから撤収した部隊の再配置先として、極東を提案します。対馬海峡、そして朝鮮半島北部に面したロシア沿海州。この方向に、ロシアの機甲師団と防空システムを展開していただきたい」
「……それは」グレチコが資料から目を上げた。「中朝への、露骨な圧力だ」
「露骨で構いません」黒瀬は言った。「むしろ、見せることに意味があります。隠した抑止力は機能しない」
グレチコが外相を見た。外相が何かを言った。通訳が訳す。「兵站(へいたん)の問題があります。シベリア鉄道の輸送能力では、大規模な機甲部隊の移動に数週間かかります」
「時間はあります」黒瀬は答えた。「新ヤルタ協定の衝撃で、中国と北朝鮮は今、動きを止めています。この隙を使ってください」
グレチコがしばらく資料を見ていた。
「核の傘については」
「密約として保証していただく必要があります」黒瀬は言った。「日本本土への核攻撃を、ロシアへの攻撃とみなす——という文言で。公表はしません。両国だけが知る約束です」
部屋が静まった。
それは、NATOの第五条と同じ論理だ。一国への攻撃を全体への攻撃とみなす、集団安全保障の原則。日本がアメリカとの同盟を捨てた代わりに、ロシアとの間に同じ構造を作ろうとしている。
グレチコが、長い間黙っていた。
窓から差し込む午後の光が部屋をオレンジ色に染めていた。
「……わかった」グレチコはついに言った。「ただし、一つ条件がある」
「聞きます」
「この密約は、極秘だ。公表しない。公表した瞬間、ロシアは否定する」
黒瀬は少し考えた。
「構いません」
「本当にいいのか。公表できない保証など、紙切れ同然だ」
「紙切れではありません」黒瀬は言った。「あなたが署名した紙です。それが意味を持つかどうかは、あなたの判断次第だ。私はあなたを信じると決めました。それだけです」
グレチコがしばらく黒瀬を見ていた。
やがて、静かに言った。
「……お前は、変わった男だな」
「よく言われます」
調印式は夕方に行われた。
グレチコと黒瀬、二人だけのテーブル。通訳と法律顧問だけが同席した。カメラもない。記録も残らない。世界が知ることのない約束が、夕暮れのクレムリンで静かに結ばれた。
署名を終えて、グレチコがグラスを二つ出した。ウォッカだった。
「飲むか」
「飲みます」
黒瀬は生まれて初めてウォッカをストレートで飲んだ。喉が焼けた。目に涙が滲んだ。
グレチコが笑った。
「弱いな」
「外交官ですので」
「外交官は強くなければならない」
「酒にではなく、交渉に、です」
グレチコがまた笑った。今度は長く、本当に楽しそうに笑った。
笑い終えて、グレチコはグラスを置き、黒瀬を見た。
「黒瀬」
「はい」
「率直に言う」グレチコは言った。「今回の取引——ロシアの方が、大きなものを得た」
黒瀬は答えなかった。
「ウクライナの泥沼から救い出され、制裁の枷(かせ)を外され、極東の安定まで手に入れた。お前たちがいなければ、我々はまだ消耗戦の中にいた。日本は我々に、天文学的な恩義を施した」
部屋が静まった。
「だが——」グレチコは続けた。目に、静かな光があった。「私はこれを対等な取引だと思っている。ロシアも日本に核の傘を与え、エネルギーを供給し、極東に軍を展開した。お前たちの生存を、我々は本気で守る」
黒瀬はグレチコを見た。
この男が嘘をついているのか、本心を言っているのか——確信はない。だが今この瞬間、その目は真っ直ぐだった。
「……受け取ります」黒瀬は言った。「対等という言葉を」
グレチコが頷いた。
黒瀬は少し間を置いてから、続けた。
「ただし——一つだけ言わせてください」
「何だ」
「日本人は、恩を忘れない民族です」黒瀬は言った。静かに、しかしはっきりと。「今回ロシアがしてくれたこと——核の傘、エネルギー、極東への展開——それを、我々は決して忘れません。この恩義は、必ず返します。どんな形になるかはわかりません。だが——返します。それだけは、約束します」
部屋に静けさが落ちた。
グレチコがグラスを置いた。その目から、笑いの色が消えた。
長い間があった。
「……お前は」グレチコはゆっくりと言った。「怖い男だな」
「よく言われます」
グレチコが、また笑った。今度は短く、しかし深く。
「肝に銘じておく」グレチコは言った。「日本人は恩を忘れない、か。——それは、ロシア人も同じだ」
その夜、黒瀬は羽田行きの便に乗った。
窓の外に、モスクワの夜景が広がっていた。赤い星が輝くクレムリンの尖塔が、夜空に溶けていく。
タブレットを開くと、朱里からのメッセージが来ていた。
——サハリンからのガス輸送、北海道側の受け入れ準備完了しました。明後日には供給が始まります。官邸は静かです。総理は今夜初めて、執務室のソファではなく、自宅に帰りました。
黒瀬はそのメッセージを読んで、タブレットを閉じた。
シートに背中を預け、目を閉じた。
総理が家に帰った。
それだけで十分だ、と思った。
引き出しの中身は、まだそのままだ。福岡の十万人。ウクライナ代表の目。裏切り者という言葉。それらは全部、まだそこにある。
だが今夜だけは——少しだけ、引き出しを開けてもいいかもしれない。
黒瀬は目を閉じたまま、東京を思った。
灯りが、まだある。
第10話 了
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