第8話「G7爆破」

 翌朝、黒瀬渉が通された部屋は昨夜とは違った。

 昨夜の書斎が「様子見」の部屋だとすれば、今朝の部屋は「本番」の部屋だった。長いテーブル。両側に椅子が並んでいる。壁にはロシア連邦の国章。窓の外にクレムリンの赤い城壁が見えた。

 グレチコはすでに座っていた。昨夜と同じ顔だ。眠ったのかどうかも、わからない。

 黒瀬が席に着くと、グレチコが言った。

「一つ、聞かせてくれ」

「どうぞ」

「なぜ、ロシアなんだ」

 黒瀬は少し考えた。

「中国は敵です。アメリカは去った。選択肢がロシアしか残っていないからです」

「それだけか」

「それだけです」

 グレチコが頷いた。

「正直な男だ」と言った。「では、こちらも正直に言う。昨夜の提案——悪くない。いや、率直に言えば、我々が三年間欲しかったものを、お前たちは一晩で持ってきた」

 黒瀬は表情を変えなかった。

「ただし」グレチコは続けた。「条件がある」

「聞きます」

「ウクライナとの停戦仲介。これは構わない。だが、占領地の『確定』が必要だ。停戦ではなく、国際的な承認だ。日本がG7を離脱し、占領地をロシア領として正式に認める文書に署名する。それが最低条件だ」

 沈黙。

 黒瀬は頭の中で、その条件の重さを測った。占領地の承認。それはウクライナへの裏切りだ。欧州への裏切りだ。戦後の国際秩序への裏切りだ。日本が七十年間守り続けてきた「力による現状変更は認めない」という原則を、自ら踏み躙ることになる。

 だが——。

「わかりました」黒瀬は言った。「ただし、こちらにも追加条件があります」

 グレチコが眉を上げた。

「承認の文書は、停戦の完全履行と、エネルギー輸送の開始を確認した後に署名します。順番は守ってもらう」

 グレチコが外相を見た。外相が何かを言った。通訳が訳す。「担保として、何かを先に渡せと言っています」

「渡せるものは一つあります」黒瀬は言った。「G7緊急首脳会議への日本の欠席。今月末に予定されているブリュッセルの会議です。日本が欠席すれば、G7の結束が崩れる。これを、停戦合意の前に実行します」

 部屋が静まった。

 グレチコが黒瀬を見た。長い間、見た。

 やがて、口の端が微かに上がった。

「お前、本当に官僚か」

「一応、そうです」

「官僚というのは、もっと臆病な生き物だと思っていた」

「臆病な官僚は、今頃官邸で震えています」黒瀬は言った。「私はここにいる」

 グレチコが、また声を出して笑った。昨夜より、少し長かった。


 交渉は午前中いっぱいかかった。

 条件の細部を詰める作業だ。停戦の定義。占領地の範囲。パイプラインの開通時期。核の傘の適用条件。一つ一つが重く、一つ一つが譲れない。黒瀬はテーブルの上に何枚もの資料を広げ、数字を確認し、文言を交渉した。

 昼を過ぎた頃、外相が退席した。国防相も席を外した。部屋にグレチコと黒瀬、そして通訳だけが残った。

 グレチコがコーヒーを一口飲んでから、静かに言った。

「お前は知っているか」

「何をですか」

「この交渉が成立すれば、日本は世界中から非難される。ウクライナから。欧州から。アメリカから。『裏切り者』と呼ばれる。歴史にそう刻まれるかもしれない」

 黒瀬は答えなかった。グレチコが続ける。

「それでも、やるのか」

「やります」

「なぜだ」

 黒瀬はコーヒーカップを見ながら、言った。

「歴史に何と刻まれるかより、今夜あの国で誰かが眠れるかどうかの方が、私には重要です」

 グレチコがしばらく黒瀬を見ていた。

 それから、テーブルの上の資料に目を落とした。

「……わかった」と言った。「合意する」

 黒瀬は深呼吸を一つした。それだけだった。歓喜もなく、安堵の声もなく、ただ静かに、次の手順を頭の中で組み始めた。


 その日の夕方、黒瀬は暗号回線で朱里に連絡を入れた。

 メッセージは短かった。

 ——第一段階、合意。総理に伝えろ。ブリュッセルの会議、欠席の準備を始めてくれ。

 三分後、返信が来た。

 ——わかりました。総理は泣いていました。

 黒瀬はその一文を読んで、タブレットを閉じた。

 窓の外、モスクワの夕暮れが広がっていた。空がオレンジと紫に染まり、クレムリンの尖塔が黒いシルエットになっている。

 美しい街だ、と思った。

 敵でも、味方でもない。ただ、今この瞬間だけは——同じ方向を向いている。

 それで十分だ、と黒瀬は思った。

 G7という建物の、土台が今日、静かに抜けた。世界はまだ気づいていない。気づくのは、日本がブリュッセルに現れなかった時だ。

 その時、本当の嵐が始まる。


第8話 了

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